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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

懐疑主義 デーモン仮説 水槽脳仮説 猿の尻笑い

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(7)

今回から、第3章 疑いの泥沼からどう抜け出すか-哲学的懐疑主義と文脈主義 である。

疑いだせばきりがない。どこまでも問い続けていくと、「宇宙の成立」や「物質と精神」の話にいきつく。「疑いの泥沼」にはまり込んで、何も言えないことになる。

伊勢田は、「本当に批判的に吟味するのなら、間違っている可能性のある前提を妥当だといって受け入れるべきではない、のではないか」と想定質問をしている。

不確かなものについては判断を保留するという態度は懐疑主義(他の分野の懐疑主義と区別する場合には哲学的懐疑主義)という名前で知られ、懐疑主義をどうやって乗り越えるかというのが多くの哲学者の生涯のテーマとなってきた。…哲学的懐疑主義は非常に破壊力があり、これを下手に素直に受け止めると、改築どころか、日常生活も科学の営みも何一つ残さず更地にしてしまいかねない。…懐疑主義の破壊力を抑えながらも、そのいいところを生かしていくにはどうしたらいいか。

「不確かなものについては判断を保留する」、これは一見もっともな態度である。私たちはよく「曖昧なことを言うな」、「根拠のないことを言うな」と言う。この態度を徹底するとどうなるか。疑いの泥沼にはまるのである。懐疑主義の破壊力で、「日常生活も科学の営みも何一つ残さず更地になる」のである。

なお、ここで「改築」というのは、「妥当な主張の領域を広げていく」という意味である。(批判的思考 何故そのように主張するのか? 参照)

 

哲学的懐疑主義とはどういうものか。伊勢田は、デカルト(1596-1650)の議論とその現代版について説明している。現代版とは、水槽脳仮説である。

デカルト正しいかどうかはっきりしない主張が知識としてまかり通っている状態に疑問を感じ、絶対確実な基礎の上に知識を確立しなくてはならないと考えた。そのための方法としてデカルトが提案したのが方法的懐疑、すなわち疑いうるものについてはすべていったん判断を停止して、絶対確実に真だとわかるものだけを受け入れるというやり方である。

一見、もっともな主張である。次の例え話が面白い。

冷蔵庫の中の野菜が腐っているかどうか確かめるのに、いったんすべて冷蔵庫の外に出し、一つひとつ吟味して、腐っていないという確証の得られた野菜だけ冷蔵庫に戻す、という手法である。腐っているか腐っていないかよくわからないものは冷蔵庫には戻さない。例えば外から見ると大丈夫だが中だけ腐っているかもしれないタマネギなどがこのカテゴリーに属するだろう。どうしても戻したければ、切ってみるなり何なりして中身を確かめてからということになるだろう。

デカルトが吟味したのは信念[思っていることすべて、考え]である。

信念と冷蔵庫の野菜には一つ大きな違いがある。それは、信念には、前提となる信念から別の信念が導き出されるという関係が存在することである。ということは、前提が間違っていれば結論となる信念も受け入れられない、という依存関係が存在することになる。…デカルトは日常生活においては不確かな知識に基づいて行動せざるを得ないことがあるのは認めている。方法的懐疑は日常生活とは別の文脈で実践される作業だったということは確認しておきたい。

 

デーモン仮説

我々の目に見えるもの、我々が考えることも、すべて神のような強力な力を持つ悪魔(デーモン)が我々をたぶらかしているだけなのかもしれない。目の前にリンゴがあるという視覚的な体験も、そのリンゴに触るという触覚的な体験も、そのリンゴをかじるとリンゴの歯ごたえがあり、リンゴの味がするという体験も、リンゴを食べるために手を動かしているという感覚も、すべてデーモンが巧妙に仕組んだ幻覚かもしれない。…こう考えると、絶対確実に真だといえるものなど、この世には存在しないように思えてくる。これがデーモン仮説である。

デーモン仮説を荒唐無稽な話だと思う人は、「夢」を想起すればよい。夢の最中はこれが現実で夢であるなどとは考えていない。夢から覚めてはじめて夢だとわかるのである。これが了解されれば、夢から覚めてこれが現実だと思っていても、それもまた夢かもしれないということが了解されるだろう。その夢はデーモンの仕業なのである。…重い病気になったリ、現実に絶望すると、「これは幻覚だ」と思うようになるらしい。

 

水槽脳仮説

デーモン仮説はちょっと古くさいと思う人には、「水槽脳仮説」というバリエーションがある。これは、あなたは実は培養液に満たされた水槽の中の脳だが、神経系がコンピュータに繋がれて、コンピュータの作り出す非常に精妙なバーチャルリアリティの世界を見せられているのだ、という仮説である。感覚神経への入力と運動神経からの出力がうまく一致させられているために、あなたはそれがバーチャルリアリティだと気づかない。

ここでいうコンピュータを「神」に置き換えてみよう。私たちは、「神」の作り出す精妙な(バーチャル)リアリティの世界を見せられている(生かされている)。〇〇教徒にとっては、まさにこれが現実なのだろう。

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さて、方法的懐疑であるが、

方法的懐疑に基づいてCT(クリティカルシンキング)をするということは、絶対確実な前提や推論だけが妥当である、という基準を採用することと等しい。しかし、デーモン仮説を考えるなら、どんな前提であれ推論であれ、絶対確実ということはありえないように思われる。だとすればどんな主張であってもそれが妥当な結論だと肯定されることはなさそうである。そうすると、CTの結果は、結局あらゆる主張について判断停止したままになる。しかし、あらゆる主張について判断停止、という結論が最初から分かっているのなら、そもそも個別の場合についてCTなどしなくてもいいということになるだろう。つまり、方法的懐疑はCTそのものを破壊しかねない

デーモン仮説を持ち出さなくても、「なぜそういうことが言えるのか」と「疑い」を続けていけば、「絶対確実」といえるものはなくなるだろう。そうすると、あらゆる主張について判断停止することになる。方法的懐疑は、CTを破壊する!?

デカルトは、錯覚や夢、デーモンといった可能性について前述のような想像を働かせた後、仮に自分がデーモンに騙されているのだとしても、騙されている「私」、騙されているのではないかと疑っている「私」の存在は疑いようがないと考えた。騙すには騙す対象が必要であるし、疑いというものが存在するには疑う人がいなくてはならない。そこで有名な「我思う、ゆえに我あり」という主張が、懐疑主義をぎりぎりまで突き詰めてもなお確実な知識として確立されるわけである。

この「我思う、ゆえに我あり」は難しい。「私」の存在は疑いようがない、などとは思えない。…「我」、「思う」、「疑う」、「騙す」というような言葉が何を意味するのか、よく分からないので、なぜ「我思う、ゆえに我あり」などと言えるのかわからない。しかし、ここは哲学談義をする場所ではないので、次に進もう。

伊勢田は、この後デカルトの「アクロバットな推論」(神の存在や世界の存在)についてふれているが、これは省略する。

 

伊勢田は、「方法的懐疑からどういう教訓が得られるか」と問い、次のように説明している。今回の最も重要な箇所である。

疑う、慎重に吟味するという態度の行きつく先がデーモンや水槽脳につきまとわれる不毛の地だとすると、「疑う」という態度をあまり推し進めるのは実は良くないことなのだろうか。実際、最近の哲学では、デカルトの問題提起を真に受けないという解決(というより問題回避)がよく行われるようになってきている。しかし、このひらきなおりは早計である。

確かにデカルトの方法的懐疑は、確実な知識を確立するためのプログラムとしては失敗した。これは一種の反面教師として捉えることができる。しかし、できるだけ確実なものから出発して、確実な情報とあやふやな情報をより分けていくという方針そのものは、CTの一つの基本的な考え方として参考にすることは出来るだろう。

デカルトのプログラムの問題は、最高に厳しい「確実さ」の基準を設定して信念をより分けておきながら、その基準で「あやふや」のほうに分類されてしまった信念を切り捨ててしまったことにある。冷蔵庫の野菜の比喩で言えば、悪くなっていないという絶対確実な証拠のない野菜をすべてゴミ箱に直行させてしまったわけである。しかし、当然ながら方法的懐疑で十把一絡げに切り捨てられる「あやふや」な信念の中にも、さまざまな性質やレベルの差がある。

 「確実でなければならない」というとき、「絶対(100%)確実でなければならない」とすると、そのような「絶対確実」なものはなくなり(疑いの泥沼にはまり)、デーモンや水槽脳の不毛の地に至る。

これが議論に使われると、追及される方は答えに窮し「絶対とはいえない」という。そうすると追及する方は、滅多にない事象でも、さも「あり得る」ことを強調して論破した気になる。

冷蔵庫の野菜の例では、「私はやってないという絶対確実な証拠が無ければ、有罪とみなす」という「推定無罪」に真っ向から反対する議論を思い出す。「君が(イスラム教徒ならば)テロ思想を持っていないという絶対確実な証拠がなければ、テロリストとみなす」というルールを制定し、そのルールに従い、逮捕することがおきる。

 

例えば、明晰判明に真だと思われるものは確実なものとして受け入れていい、という前提さえ認めれば「確実」の側に分類できる信念も多いだろう。論理的推論の規則や、「こういう形のこういう色がこの方向に見えている」というような知覚についての一番基本的な信念(感覚与件)は、これにあたるだろう。さらに、デカルトのいうようなデーモンの可能性は無視して良い、という前提も認めれば「確実」として受け入れてよい信念の範囲はさらに広がる。

 哲学者は、おそらく「明晰判明に真」とか「感覚与件」とか「デーモンの可能性」について、それが何であるか、あれこれ言うであろうが、「確実な知識という理想」への前進の姿勢が必要であろう。

 

そうやって「何を前提として認めれば、どこまでを「確実」の側に含めることができるのか」を一歩一歩明らかにしていくプロセスは決して不毛な作業ではない。もともとのデカルトのプログラムから見れば、そうやって前提を一つ付け加えていくごとに確実な知識という理想から後退していくことになるわけであるが、CTの観点からすれば、我々があやふやなままに受け入れていたものが、どの程度の前提を必要とするどの程度確実なものなのかを明らかに出来るわけだから、このプロセスはむしろ前進と捉えることができる。

ここで言いたかったのは、出来るだけ確実なものから出発して確実な情報とあやふやな情報をより分けていくという方針そのものと、デカルトがその方針を実行したやり方とは区別できるし、方針そのものを否定する必要は何もないということである。

 あやふやな言説の「前提」を明らかにすること、その「前提」が妥当のものとして合意が得られるならば、「確実」の側に含めてよいだろう。(いかにして合意を得るのかは問題であるが)

 

デカルトの事例には、もう一つ真剣に受け止めるべき教訓がある。それは確実な基礎に基づいて思考を進める、ということをこれほど強く意識していたデカルトですら、他人から見ればまったく根拠のない前提穴の多い推論に頼ってしまっていた、ということである。

どうしても自分の主張は正しいと思ってしまう。欠点は自分では見つけにくい。猿の尻笑い:猿が自分の尻の赤さに気づかず、他の猿の尻の赤さを笑う.

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デカルトは、『反論と回答』という形式を採用することによって、個人としてはそうした知識や心構えがなくとも、他人の助けを借りて問題点を洗い出すことができることもまた身をもって示している。もっと正確に言うと、デカルト本人は批判を受けても致命的な問題点があるとは思わなかったようであるが、少なくとも第三者にとっては明らかになったといえる。

デカルトは、他の猿の尻の赤さを笑う猿であったか、そうではなかったか。