気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

男性ホルモン、エクスキュルの環世界、南北を向いて糞をする犬

木下清一郎『心の起源』(9)

神経系と心

神経系がどれほど特異な位置を占めるとしても、神経系を持たない生物には心はないなどと言い切るのは差し控えておきたい。例えば、内分泌系という液性のコミュニケーションによって、生物体の隅々にまで平穏な状態、またある時は緊張の状態がみなぎるとすると、これは心とは呼びにくいにしても、それでも心との間に何かの引っ掛かりがあるように思われる。…恐らくそこには一種の「気分」とでもいうべきものが、漂っているのであろう。動物の体内には下敷きとしてまず気分が流れており、その通奏低音の上に「心」の旋律が乗っていると言っても良い。ことによると、植物などは気分のみの世界に生きている生物であるのかも知れない。これから順を追ってみていくが、心の世界に入ってもなおそのなかに階層の積み重なりがみられるのであって、私たちは幾重にも重なった心の階層の上に乗っているようにみえる。…これとは逆に、神経系があれば心もあるに決まっているとも言い切れない。心があらわれるには、神経系の働きにもう一つの条件が備わらねばならない。それは情報処理の中枢化ということであるが、この条件については次の節で論ずる。

「平穏な状態」や「緊張の状態」というのは、既に「気分」を先取りした表現であろうが、「動物の体内には下敷きとしてまず気分が流れており…」というのは面白い。

例えば、男性ホルモン(テストスレロン)は意識的に増減できない。年齢と共に分泌量は低下するが、個人差が大きいと言われる。では、男性ホルモンが減少するとどうなるか? ED(Erectile Dysfunction)だけではない。

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http://menshealth-md.com/late-onset-hypogonadism/

 こういう記事を読んでいると、「動物の体内には下敷きとしてまず気分が流れており…」というのも、意外と的を射ているようにも思えてくる。

 

エクスキュルの環境世界

生物体にとって情報の受容が何としても必要であること、またその情報処理では神経系が独自の能力を発揮できること、そこから神経系は他の系が及ばない程の独自の地位を占めていることも分かったとしよう。しかし、この神経系のみに心の座を求めるとするならば、心は神経系にあらわれる現象に限定されてしまい、神経系が受け入れないものはすっかり切り捨てられてしまう。生物体が神経系を介して外界と関係を取り結ぶといったとき、その外界とは神経系によって記号化されるものに限られる。心が神経系のなかに成立する一つの状態であるというならば、それぞれの動物の持っている神経系の能力が異なれば、心もまた異なったものになることを認めねばならなくなる。

恐らくこれがエクスキュルが主張した環境世界(Umwelt)というものであろう。環境世界とは、彼自身の言葉でいえば、「主体としての動物が外界から受容し、また外界に対して働きかける世界の総体」なのである。従って、…動物がとらえ得る世界が決して外界のすべてでないことは、ここから明らかであろう。これはいかに心が発展したとしても、どこまでもついてまわる制約と限界であって、はるかの先にはたずねていこうとしている人の心もまた例外ではあり得ない。

 

エクスキュルの環境世界(環世界)は面白そうな概念なのでいずれ詳しく取り上げたいと思う。

2015年11月13日~23日、下北沢・DARWIN ROOM で「環世界展」が開かれた。その「ちらし」にこうある。

「あなたには何が見えていますか?」 

そう生物たちに問いかけ、その生物から見える世界を想像してみる。すると、私たち人間が見ている世界が当たり前ではないことに気づかされます。

例えば、ダニは光・酪酸・体温という3つの知覚標識だけを頼りに生きています。光を知覚して枝によじ登り、動物から放たれる酪酸を知覚すると落下する。うまく動物の体表に着地できれば、体温が知覚される毛の少ない場所を探して血を吸う。このような知覚と行動のサイクルによって生き抜いています。つまり、ダニは3つの情報のみによって世界を構築し、その世界に浸って生きているのです。

ドイツの生物学者ユクスキュル(1864〜1944)は、このような主体によって構築された独自の世界のことを「環世界:かんせかい=Umwelt:ウンベルト」と名付けました。客観的な環境ではなく、主体が知覚でき、働きかけることができる環境(環世界)こそ、主体にとっての現実、生きる舞台なのです

これから、環世界というそれぞれの生物をとりまく多様なシャボン玉の中を覗き見る旅に出てみましょう。 そこにはどのような世界が広がっているのでしょうか?(釜屋 憲彦)

■ 会場の展示タイトルに、こんなのがあった。

Dog’s umwelt  南北を向いて糞をする犬  藪田 慎司(帝京科学大学教授)

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https://irorio.jp/sakiyama/20140103/99839/

 

心の相対性

こうしてみると動物が異なれば心も異なるのはごく自然であって、たとえ動物に心があったとしても、それは互いに同じ心ではあり得ない。これを極端に言えば、人間にあっても個人と個人とでまったく同じ心がつくられる保証はないことになる。そこに共感といったものが成立することの方が不思議であって、そこにどういう条件が整わねばならぬかは、また別に考えてみなければならない。

さらに、私たちが把握していると思っている外界は、決して外界のすべてではなく、神経系にあらわれてくる現象に限られており、それを超えた外界がたとえあったとしても、それは私たちの把握の外にあることも、ここから当然に導かれる帰結となる。生物学から見る限り、次のように言える。心がいかほど発達しようとも、心は遂に外界の全体を把握することはできないで終わる。これだけの留保をつけた上で、次には神経系の発達について考えよう。

ここで立てた仮定は次のようであった。

(3) 神経系が情報として処理できるのは、外界に生起している事象のうちのごく一部分に過ぎない。したがって、神経系内での情報処理に、外界の事象のすべてを反映させることはできない。(2017/6/16 訂正)

 木下は先ほど、「植物などは気分のみの世界に生きている生物であるのかも知れない」と言っていた。心の起源は、動物のみならず植物ひいては菌をも視野に入れなければならないだろう。こんな記事がある。

土の中にはたくさんのカビや細菌が生きています。その中に、菌根と呼ばれる植物の根に寄生するタイプの細菌がいるのは知っていますか? 菌根は、地中の栄養を植物に分け与える代わりに、植物が光合成で作った炭素を受け取ることができる関係を築いています。菌根は一度寄生するとあちらこちらに根を伸ばし、周囲の植物とのネットワークを作ることが分かってきました。菌根でつながった植物の一つが虫に葉をかじられると、その植物だけでなく周囲の植物も、虫が苦手とする気体を発する「防御反応」を一斉に行うという実験結果があるそうです。また、菌根を通じて周囲の植物が糖分を分け合うことも。菌根を使った地下ネットワークで、植物同士も助け合って生きているのですね。(https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/3753/

これを「心」と呼んでいいかどうかは議論があるだろうが、(よく分かっていない)「人間の心」の固定観念で決めつけるのは避けたい。

「植物の心」で検索すると、いろいろ面白い記事が出てくる。