浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

科学と人間 見るものすべてが花であり、思うところすべてが月のように美しい

加藤尚武『現代倫理学入門』(33)

今回は、第15章 科学の発達に限界を定めることができるか の続きである。

科学は中立的か

これに対する反論は、「科学・技術は、善悪どちらにでも使えるもので価値中立的であるから、巨大技術を含めて科学研究・技術開発の自由を抑制してはならない」というものである。原子爆弾製造の責任の一部がアインシュタインにあるのは確かだが、責任は科学者だけにあるのではない。また、科学者の責任を追及しても、今後の問題で社会的有効性がないという意見も出るだろう。さらに、一種の職人気質で社会的関係に無関心であることが、良い科学者・技術者の条件であるように見る風潮にも問題があるとも言われる。

科学と技術という言葉は、区分したほうがよいように思う。…技術とは、科学の研究成果を生かして人間生活に役立たせる方法(デジタル大辞泉)。技術とは、各分野で目的を達成するための技能、手順(技法)、道具および知識の体系のことをいう。技能が主に個人に帰属するのに対し、技術は人に限らず、組織や社会に帰属させることができる概念として扱われる。 生産分野で技術というときには、原材料の選択、工法、工員の技能、設備能力、そしてそれらに関連する知識全般を含めたものをさす(ナビゲート ビジネス基本用語集)。技術をこのように理解すれば、「目的」が関わってくるので、「価値」が問題になることが了解される。アインシュタインが技術者ではなく科学者であるならば、原子爆弾製造の責任の一部があるなどとは考えない。(科学と技術を線引きするのが目的ではない。価値(善悪)に関わる事柄を考える際に、ごちゃ混ぜにしないほうがよいだろうということである)

 

第一に、「科学・技術は、善悪どちらにでも使える」というのは、「単純に善であるとは言えない」という意味では正しい。しかし、「同一の技術がジキルとハイドの二面を持つ」と解釈した時、原理と応用、基礎技術と応用技術の境界をどこで引くかによって、「価値中立性」の評価は分かれる。発見される原理と、発明されるノウハウの区別の仕方にもよるが、同一原理から善悪両方の技術が作られる可能性はつねにある。しかし、「よい目的に使われた技術と悪い目的に使われた技術が同一の技術である」と言える技術の同一性の概念そのものが技術主義的だという批評が出てくる。

ここで「ジキルとハイドの二面を持つ」とは、「善い面と悪い面がある」の意味だろう。科学技術が何らかの形に具体化されたもの(ハード/ソフト)が、それを使うことによって、人間生活に影響を及ぼすとき、それが「善い」と判断されたり、「悪い」と判断される。AIが自動運転に使われれるとき、それは「善い」と判断され、兵器に使われるとき、それは「悪い」と判断される。ではAIには、「善い面と悪い面がある」というのか。ここでは、AIが何に使われるか(使う目的)によって、「善い・悪い」の価値判断が為されている。事故防止なら善い、人殺しなら悪い。原子核理論についても、何に使われるかによって、善悪の価値判断が分かれるだろう。「原理と応用、基礎技術と応用技術の境界」というが、技術を上記の意味で理解するとしたら、境界線は引くことはできるのではないか(微妙なものはあるかもしれないが、区分すること自体に意味はないだろう)。

技術主義的な意味での同一性に従ったとしても、技術が実用化される段階になれば、当然「価値中立的」ではなくなる。皮肉な言い方をすれば、「実用以前の原理は価値中立的である」のは当たり前だということになる。

「技術自体は善悪無記*1であって、人間の動機に従って善悪どちらにも使い分けができる」とは言えない。どのような技術にも必ず弊害や副作用が伴うのであって、100%良い技術は存在しない。

「技術が実用化される段階になれば、当然、価値中立的ではなくなる」というが、ここで「実用化」を「使う目的が体化されたハード/ソフトの製作」とすれば、価値判断が入ってくる。当初の技術は、「価値中立」なのではなく、価値とは関係ないものと考える。

「技術自体は善悪無記」というのは、「科学自体は善悪無記」といったほうが良いだろう。

「どのような技術にも必ず弊害や副作用が伴うのであって、100%良い技術は存在しない」という場合の技術を、科学ではなく「技術」と理解したとしても、「必ず弊害や副作用が伴う」というのは、根拠なき決めつけだろう。

ここは100%良い技術が存在するのか否かが論点ではない。使う目的が善いとしても、弊害や副作用が伴うことがある、という認識が重要である。そのような「弊害や副作用」にどう対処するのかが問題なのである。こんなことは「医薬品」について考えてみれば誰もが了解できることだろう。

しかし、科学技術が進歩すれば必ず自然破壊が進むのだから科学技術の進歩そのものを停止させなければならないという議論の核心が間違っている。現実問題としても、省エネルギー技術の開発とか、クリーン・エネルギーの開発とかは、自然破壊を停止させるために不可欠の技術であって、技術開発そのものを停止せよという主張は、世界全体の人間にターザンのような生活をしろと要求するに等しい。

「科学技術が進歩すれば必ず自然破壊が進むのだから科学技術の進歩そのものを停止させなければならない」を「議論の核心」と捉え批判しているが、そんな「極論」を主張する者はどこにもいないだろう(藁人形論法)。省エネルギー技術の開発など誰も否定しないであろう事例を引き合いに出すことによって、「どのような技術開発であっても推進すべきである」という方向にもっていこうとしているかのようである。

 

第二に、研究・実験そのものの安全性と研究手段の倫理性が問題になる。「研究の自由」も、他者危害の原理に従って制限される。高温高圧条件下の反応を利用した重厚長大型の技術から、常温常圧型の生命情報科学に、技術全体の中心が移動するとともに、新しい安全管理体系が要求される。また実用化のレベルではストリップ・ミル*2人工衛星、原子炉など、一つの施設で管理しなければならない情報量が飛躍的に増大することによって、安全管理と情報技術とが一体化してくると、今度は情報技術の安全性が問題になってくる。

安全性は言うまでもない。「研究手段の倫理性」とは、何のことかよく分からない。

 

第三に、研究の規模を小さくする、技術を自然化するということは、必ずしも、技術の人間化には結びつかない。大型コンピュータで管理される省エネルギー・システムが、環境保護に大いに役立つことは、既に実証されているが、この技術は「小規模」でも、「自然的」でもない。省エネルギー技術の中で最も重要であると言われているコジェネレーション*3は、熱エネルギーの利用を高温部から低温部へと系列化して排熱の組織的な利用を図るというものだが、これを実行すれば、小都市と言える規模のマンモス型の多品目同時生産の工場が作られる。

内容によっては、大きいシステムも小さなシステムもあろう。

 

第四に、科学研究・技術開発の目的について、社会的承認が必要であり、それを実用化、社会化する時には、安全性と倫理性のチェックが必要である。従来の技術文化では、研究室・実験室という密室から、いきなり社会に実用化された技術が出てくることが許されていた。大量生産の技術の場合には、すでに社会に出回っているもののコスト減が技術にメリットだから、倫理的に問題になることはなかった。梅毒の治療薬の発見のように、目的の倫理性については発見される以前に社会的合意ができていた。ところが遺伝子操作の安全基準を作る場合には、前例がなかった。科学者自身が国際会議を招集して安全基準を定める結果になった。研究室と社会の間に関所がないので、危険な技術は出所である研究室で抑えてもらいたいという要求が出て、それが核兵器に関しては「科学者の社会的責任論」となった。科学者の人間としての心情的な責任が問題にならざるをえなかった。この責任追及それ自体が、研究室と社会との間に公共的なチェックの場がないという不在を黙認することで成り立っていた。しかし、そのようなチェックの場を設けたとしても、誰がその関所に立つのか、その専門家の育成の見込みは全くないという状況である。学問全体が理科系と文科系にすっぱりと分れてしまっているので、人間のための人間による技術の見張りに立てる人間は、どこでも育成されていない。このような社会的な機能を持った機関が存在しないならば、研究の自由を守ることができないにもかかわらずである。研究室はいつでも悪魔のラボラトリーとなりうる

「科学研究・技術開発の目的について、社会的承認が必要であり、それを実用化、社会化する時には、安全性と倫理性のチェックが必要である」というのには、恐らく誰も反対しないだろう。研究室が「悪魔のラボラトリー」とならないよう、公共的なチェックが必要である。ではそのようなチェックが行われてこなかったのか。

岸本充生は、次のような記事を書いている。(短い記事なので、全文引用する。いつ書かれたのかよく分からない。)

テクノロジーアセスメントとはテクノロジーアセスメントが近年再び脚光を浴びている。新規技術が市場に受け入れられる、すなわちイノベーションのためには、低コスト化や大量生産技術などに加えて、あらかじめ安全性や倫理面の懸念が払しょくされていることが必要不可欠である。こうした社会的影響を、技術の持つ潜在的ベネフィットと合わせて、事前に評価するために、テクノロジーアセスメントの必要性が再認識されているのである。ここで「再び」だとか「再認識」だとか書いたのは、かつて1970年代にテクノロジーアセスメントが脚光を浴びた時期があったからである。そして一旦はみなの頭から忘れ去られてしまったのである。テクノロジーアセスメントが必要だと言うと、60歳以上の方々からは、なんでいまさらという反応が返ってくることが多い。

日本におけるテクノロジーアセスメントの導入と失敗…日本にテクノロジーアセスメントが導入されたのは1960年代末である。ちょうど技術の負の側面に皆が気付き始めた時代である。日本におけるテクノロジーアセスメントの取組の中心は通商産業省工業技術院、今の産業技術総合研究所であった。昭和49年の科学技術白書 には、テクノロジーアセスメントは「技術の持っている直接効果のみならず、副次的な影響や潜在的な可能性までも含めて技術を総合的に点検、評価し、技術を社会全体にとつて望ましい方向に制御しようとするもの」と定義され、通商産業省によるケーススタディとしては「原子力利用製鉄」「燃料電池」「医療用電子システム」が挙げられている。私の手元にも1977年の「塩化ビニル樹脂に関するテクノロジーアセスメント報告書」という分厚い文書がある。最近までこうした経緯を知らなかったので驚くと同時に、どうしてこのような先進的な取組が消え去ってしまったのか非常に気になった。このあたりの経緯については吉澤(2009) など、いくつかの研究がすでにあり、日本にテクノロジーアセスメントが定着しなかった理由として様々な点が挙げられている。私の印象としては、1)公害問題の鎮静化とともに面倒な手続きを実施する動機付けが低下(社会のニーズも低下)したこと、2)一部のテクノロジーアセスメントが反技術主義的なバイアスがあったこと、3)制度化されず、ケースバイケースで方法論として確立しなかったこと、などが想像される。

テクノロジーアセスメントの復権に向けて…1972年に設立された米国の議会技術評価局(OTA)が1995年に廃止されたことで息の根が絶えたかに思われたテクノロジーアセスメントは、今度は欧州から復活してきた。欧州では1980年代から各国ごとに議会テクノロジーアセスメント機関が設立され、1990年にはそれらのネットワーク機関として欧州議会テクノロジーアセスメント(EPTA) が設立された。さらには、コンセンサス会議や市民陪審などを含む市民参加型のテクノロジーアセスメントという試みも新たに生まれた遺伝子組み換え技術やナノテクノロジーといった文脈での活用も多い。こうした世界的なTAの復権の潮流に合わせて日本においても再びTAを制度化し、社会に定着させようとするプロジェクト「先進技術の社会影響評価(テクノロジーアセスメント)手法の開発と社会への定着」 が始まっている。新規技術のイノベーションを掲げる産業技術総合研究所でも、テクノロジーアセスメント的研究を30年ぶりに復活させるべき時期が来ている。

https://www.aist-riss.jp/column/951/

テクノロジーアセスメントも歴史がある。それをどうみるか。現在進められている「科学技術イノベーション総合戦略2017」*4をどうみるか。

 

第五に、科学と技術の目的についての管理は、今まで考えられていなかった。目的についての自明性が存在するかのように思われた。人間の役に立つ技術は良い。人間の命を長引かせる医療技術は良い。人間がわざわざ技術をコントロールしなくても、自然の制御に任せておけば、さほどひどいことにはならないと思われた。しかし、自然の自己調整機能が壊され始めた。地球には温度の自己調整機能が存在すると言われるが、その機能が部分的に無効になってきている。人間の文化にも、おそらく自然の自己調整機能が働いていた。例えば、都市は高度の技術が導入されない限り、一定規模以上の大きさにはなれない。ところが自動車と通信機器が都市の拡大を可能にする。しかし、技術による都市の拡大は、都市環境を自然の自己調整機能を超えてまで劣化させる。自然の自己調整機能と同じものを人間が人工的に作りださなければならない。 

 

「目的についての自明性」が存在していたのか、存在していなかったのか分からない。…「人間の命を長引かせる医療技術は良い」という価値判断があったとしたら、「延命治療」が現実のものとなっている現在、再検討しなければならないだろう。

「人間の文化にも、おそらく自然の自己調整機能が働いていた」というが、これはどういう意味か、さっぱり分からない。

「技術による都市の拡大は、都市環境を自然の自己調整機能を超えてまで劣化させる」…???

「自然の自己調整機能と同じものを人間が人工的に作りださなければならない」…???

 

人間の同一性

科学と技術について、それが人間にとってふさわしい機能を発揮するような見張り・関所が必要なのに、19世紀の文化も、20世紀の文化も、技術の社会化に伴う管理方式の文化を作らないでやってきた。それはしばしば「テクノロジーアセスメント」と呼ばれる。ここには技術予算の効率的な使用の管理も含まれるが、最も重要なことは、技術について「正しい目的」を見極めることである環境倫理学とか生命倫理学とかの新しい学問が、そのような見張り・関所に考え方を提供するだろう。

加藤は「テクノロジーアセスメント」をどのように理解しているのか、分からない。加藤が「正しい目的」というとき、何を想定しているのだろうか。

人間的である、人間らしいということはどういうことだろう。確かなのは、少なくとも人間には人間らしさを破壊する技術的な力があるということだ。化学薬品で汚染されて、自然らしい環境を失うことによって、自ら人体改造の技術を開発することによって、人間が人間らしさを失う可能性がはっきりと見えてきた。人間らしさの破壊力が人間にないのならば、結局は、人間は自然に身を委ねることで人間らしさを取り戻すことができる。その場合には「ありのまま」になることが、人間らしさの回復になる。日本人の生き方はそのような意味での自然主義だった。

加藤のいう「人間らしさ」とは何だろうか。その説明がなく、「少なくとも人間には人間らしさを破壊する技術的な力がある」と言われても、何のことかよく分からない。「化学薬品で汚染されて…」というが、化学薬品は何のためにあると考えているのだろうか。「人体改造の技術を開発することによって、人間が人間らしさを失う」というが、医療をどう考えているのだろうか。遺伝子組換技術は一切ダメと考えているのだろうか。品種改良もダメと考えているのだろうか。

加藤は、「結局は、人間は自然に身を委ねることで人間らしさを取り戻すことができる。その場合には「ありのまま」になることが、人間らしさの回復になる」という。…「自然に身を委ねる」とはどういう意味だろうか。狩猟採集時代に戻れということだろうか。「人間らしさを取り戻す」と言うが、失われた「人間らしさ」とは何だろうか。

 

ここで加藤は、芭蕉の『笈の小文』(おいのこぶみ)を引用している。(一部補足)

風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。(芭蕉

現代語訳

俳諧というこの風雅の道は、天地自然にしたがって四季折々の移り変わりを友とすることである。見るものすべてが花であり、思う所すべてが月のように美しいというようでなければならない。見るものに花を感じないなら野蛮人であり、心に花を思わないなら鳥や獣と同類だ。野蛮人や鳥獣の境地を離れて、天然自然に従い、天然自然に帰れというのだ。

http://koten.kaisetsuvoice.com/Kobumi/Kobumi01.html

 芭蕉のこの言葉はいいですね。「見るものすべてが花であり、思う所すべてが月のように美しいというようでなければならない」のイメージとして、「花鳥風月」の日本画をあげようかとも思ったが、私には、次のVladimir Volegovの絵がしっくりくる。天然自然というよりも、ユートピアとしての自然。科学技術を推進せんとする者はここに思いを致すことができるだろうか。

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加藤は最後にこう述べる。

人間はもうありのままの自然にありのままに帰ることができない。人間の自然を見極めて、技術の限界を自ら定めなければならない。人間を歪める技術は許されない。例えば医療は、人間が自然の状態で持っている機能を回復するために使うべきであって、男女両性人間を作り出したり、異常な能力の人間や見世物にするための人間を作り出すべきではないだろう。

もし「老化」が自然であるとするなら、加藤はアンチエイジング医学*5を否定するのだろうか。

 

これは自然主義ではない自然主義である。人間の知恵と力で人間の自然を守らなければならない。

人間が人間であることを守らなければならない。これは人間の同一性を守らなければならないということである。われわれは人間らしさの観念と現実を、歴史と世代を通じて伝えていかなくてはならない。

しかし、人間とは自分自身の同一性ですらも不確かな存在なのだ。その人間が人間性の同一性を守ることができるのかどうか。できるかどうかという以前に、その同一性とは何なのか。こうして私たちは新しい問いの前に立つ。読者ここで存在論としての本来の倫理学の入り口に到着したことになる。 

 ふーむ。倫理学入門の「門の入り口」にたどりついた? 門から中に入っていなかったのか? 

 

今回で、加藤尚武『現代倫理学入門』(33)の読書ノートは終了です。

*1:無記仏教用語事物の性質が善とも悪とも記すことができないことをいう。また,問いに対して,是とも非とも答えを出さないことをもいう。(ブリタニカ国際大百科事典)

*2:ストリップ・ミル…厚い鋼板から帯状の薄い鋼板(ストリップ)を製造する連続式圧延機。(百科事典マイペディア)

*3:コジェネレーション…電気・熱・蒸気などを同時に発生させること。ガスタービンディーゼルエンジンで発電する一方、その排熱を利用して給湯・空調などの熱需要をまかなうなど、エネルギーを効率的に運用すること。熱電供給。熱電併給。廃熱発電。(デジタル大辞泉

*4:http://www8.cao.go.jp/cstp/sogosenryaku/2017.html 参照

*5:抗加齢医学(アンチエイジング医学)とは、加齢という生物学的プロセスに介入を行い、加齢に伴う動脈硬化や、がんのような加齢関連疾患の発症確率を下げ、健康長寿をめざす医学である。(http://www.anti-aging.gr.jp/anti/index.phtml