浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

古典的自由主義(生命と私的所有の保障、信仰・思想・表現の自由、権力の多元性の確立)

久米郁男他『政治学』(2)

前回は「市場の失敗」の話であった。市場の失敗に対しては政府が出動するという。

多くの経済学の入門書は、政府の役割として、第1に、「公共財」を中心とする資源配分、その典型として司法・警察・消防、国防・外交、教育・文化、道路・港湾、そして福祉・公共サービスなどをあげる。第2に、税制・社会保障制度などの政策手段によって、市場活動の結果として生じる「不公正」を是正することをあげる。第3は、財政金融政策による経済の安定・成長の維持を図ることである。

「小さな政府」から「大きな政府」への移行である。

1930年代の世界大恐慌以来、70年代まで大きな政府は高い正統性を持ってきた。…しかし、1970年代の後半からアメリカやイギリスにおいて、政府の問題解決能力に対する不信感が高まってきた。…そこでは、市場の失敗に対して、政府の失敗が注目を集めることになった。

政府がどのような意味でどの程度失敗したのかは要検討である。本書は、「モラルハザード」と「レントシーキング」をあげているが、これは保留して(後でとりあげるかもしれない)次に進む。(政府の失敗をあげつらって、規制緩和推し進めてきた結果、格差拡大の弊害を生んできているのではないか)

 

今回は、第3章 自由と自由主義 第1節 古典的自由主義 である。

古典的自由主義とは

すべての個人に、国家や宗教組織をはじめとする既存の共同体の権威や強制からの自由を保障しようという考え方。…但し、ここでいう自由は、各人が望むことを全て無制限に実行できるという意味では決してない。…自由主義は人間の自然的自由ではなく、政治的自由を問題にするものである。従ってそこでは、自由な個人が同じ自由を持つ他者といかに共存していくか、という問題が決定的に重要になってくる古典的自由主義の最大の意義は、この共存のためのルールを経験的に導き出したところにある。では、古典的自由主義が見出した共存のためのルールとはいかなるものか。…その3つとは、

① 生命と私的所有の保障

② 信仰・思想・表現の自由

③ 権力の多元性の確立(権力分立)

他者と共存するためには、好き勝手をすることは許されない。つまり、いかなる場合にでも、共同体の権威や強制から自由であるということは出来ない。では、どのような場合に強制され、どのような場合に強制されてはならないのか。

既存の共同体の権威や強制からの自由」というとき、専制国家や独裁国家等の、一部の集団の利益のみを代表する者が権力を握っている共同体の権威や強制が問題である。この意味での共同体の権威や強制からの自由を主張することは、合意を得られやすいだろう。今日、民主主義国家と呼ばれている国においても、実態として「一部の集団の利益のみを代表する者が権力を握っている」のであれば、そこからの自由を主張することは、正当であろう。

共存のためのルール」という言い方は、うまい言い回しだと思う。こういう表現で、共存のルール3つを挙げられると、「そうだね」と納得し、それ以上考えることをせず(思考停止)、「自由主義者」になってしまう。

ここで考えなければならないのは、共存のためのルールが上記のような3つで良いのか、またその3つのルールはどういうことを意味しているかである。後者については、以降説明があるようだ。前者については、まだ何とも言えないが、直観的には極めて不十分な気がする(六法全書に収められている法令が共存のためのルールだとして、その分厚さを考えてみよう!)。

 

①生命と私的所有の保障

生命も身体も財産もそれぞれの人間に「固有のもの」であり、各人がそれらを自由に用いることは、何者も決して妨げることはできない。言い換えれば、すべての人間は、自分の生命や身体、さらに私有財産に対して不可侵の権利を持つ。…この命題は、自由主義に基づく法体系や政治理論の根幹をなすものである。

このような主張を、社会契約説という独特の理論装置を用いることによって、本格的に展開したのが、ロックの『統治論』(1690)である。

「生命と身体はそれぞれの人間に固有のものである」というのは、日常会話としてはそれで良いかもしれないが、「自由」という価値の主義主張として言われるのであれば、もう少し厳密に考えなければならないだろう。「生命」と「身体」は何が同じで何が違うのか。人間以外の生命をどう考えるのか。胎児は人間なのか。人工臓器は身体なのか。「身体」には「精神」(心)を含意しているのか。…「固有のもの」とはどういう意味か。固有のものであると、各人はそれをなぜ自由に用いることができるのだろうか。「自由に用いる」とはどういう意味であるか。「処分」を含むのか。

「財産」は最も問題である。「財産はそれぞれの人間に固有のものである」と言われても、「生命や身体」のようには直観的に理解できない。「財産」とは何か。石油は誰のものか。水は誰のものか。土地は誰のものか。太陽光は誰のものか。「用役(サービス)」は誰のものか。ソフトウェアは誰のものか。…それぞれの人間は、これらの「財産」を「自由に用いる」ことができるのか。

「すべての人間は、自分の生命や身体、さらに私有財産に対して不可侵の権利を持つ」というが、特に「私有財産」に関しては、今日では「公共の利益(福祉)」を考慮しなければならない。

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社会契約説は、第5章でも出てくるようなので、ここでは本書にしたがい、その骨格だけをみていく。

社会契約説は、国家成立以前の状態(自然状態)におけるバラバラの個人を議論の出発点とし、こういった個人が合意によって新たに国家を形成するにいたる過程を、段階を踏んで論証していく。…一つの重要な前提[がある]。…国家や政府は、各個人の自由な判断によって人工的に作られたものであるという発想であり、この点に社会契約説の決定的な意義がある。

歴史的事実として自然状態ではバラバラな個人であったか、また「各個人の自由な判断」があったかどうかに関わらず、「国家や政府は、人工的に作られたものである」(作られるべきものである)という発想は、今日まったく当たり前の発想だと思われる。

敬虔なキリスト者であったロックは、神の作った作品である全ての人間は、神によって、生まれながらに平等に、生命や身体、また財産に対する権利(自然権)を与えられていると主張する。…ロックがとりわけ強調するのは、私有財産に対する不可侵の権利である。ロックによれば、生命や身体が1人1人の人間に固有なものであると同様、人間が自らの労働によって獲得した財産もその人に固有のものである。というのも、労働とは、自らの身体と才覚を用いてこの世の中に新しい価値を付け加える尊い行為であって、その価値に対して権利が発生するのは当然だからである。

「神によって、生まれながらに平等に、生命や身体、また財産に対する権利(自然権)を与えられている」というのは、「神を信じない現代人」にとっては受け入れがたい主張である。従って、この主張(各人は、自分の生命や身体、また財産を自由に用いることができる)を、「証明不要の価値前提」(公理)としておけば、受け入れられるようにも思われる。とはいえ公理としておくのは、とりわけ「私有財産」に関しては自明とは言えないので、「労働」を持ち出して説明しているのだろう。労働が「新しい価値を付け加える尊い行為」であるか否かはここではふれないことにしよう。問題含みの概念(観念)である。

社会契約説自体は18世紀以降、非歴史的で一面的な国家論として多くの批判を浴びるようになるが、自然権は国家に先立ち、政府はそれをよく保障するための一種の道具であるというロックの契約論の基本的な発想は、古典的自由主義の中核を構成する重要な骨格となっていく。

自然権は国家に先立つ」という言い方に引っかかるものがあるとすれば、「私たちが共により良く生きていこうとするなら、人を殺してはならないとか、誰もが認めるようなことがある。それらをきちんとルール化して守るようにしよう」と言い換えてはどうか。ここに「自由主義」とかのラベルを貼り付ける必要はない。

 

②信仰・思想・表現の自由

個人がいかなる思想・信条を持つことも、またそれを表現し出版することも各人の自由であるという原則は、16世紀半ばから17世紀半ばにかけてヨーロッパ主要国を巻き込んだ宗教戦争の経験から生み出されたものである。宗教改革の結果、キリスト教世界はカトリックプロテスタントという二つの勢力に分裂し、そこに各種の政治的要因が加わったこともあって、各国は泥沼の内戦に突入する。この悲惨な体験の中で、異なる信仰や価値観を持つ者同士が、いかにすれば同じ国家秩序に服し得るかという問題が提起される。

この問題の定式化には不満がある。「異なる信仰や価値観を持つ者同士が、いかにすれば共存できるか」と言うべきだろう。「国家秩序」などと言えば、国家間の対立に対処できない。

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この問題に対する解答は、二つの局面で捉えることが出来る。

一つは寛容の原則の確認である。国家や教会による異端者の弾圧や敵対する宗教間の際限のない対立は、ただ偽善と悪意の横行を招くだけで、そのことによってかえって信仰の基盤が損なわれる。必要なものはむしろ、個人の内面の自由を相互に尊重し合うという寛容の精神であり、それこそ真の宗教にふさわしいものである。…寛容の原則は、やがて信仰の問題のみならず、政治的・道徳的主張を含む思想一般に広げられていく。また各人の奉じる信条を表現し出版する自由、また信条を同じくする者が団体を形成する自由も付け加えられる。こういった自由は、生命と私的所有に対する権利と同様、人間が生まれながらにもつ自然権を構成するものと認められていくのであえる。

 ブリタニカ国際大百科事典の説明を参照しよう。

元来は,異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたのであるが,やがて少数意見や反対意見の表明を許すか,否かという言論の自由の問題に転化し,ついには民主主義の基本原理の一つとなったボルテールは「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」と語り,これは寛容の精神をよく示した言葉として引用される。だが寛容には限界があるとされている。まず第1に,理性,良心,真理への信念に基づく言説にのみ適用すべきである。第2に,民主主義を破壊しようとする言動に適用してはならない。ワイマール共和国がこの限度を知らなかったために悲劇の道をたどったことは歴史的教訓として記憶されている。(ブリタニカ国際大百科事典、寛容) 

 ボルテールの言葉は覚えておいてよい。寛容の限界として2つ挙げられているが、この判断はなかなか難しいように思える。

少数意見や反対意見の表明は、上から目線の「許すか否か」という問題ではなく、「多様な視点により検討する」ため必要なものである、として捉えなければならない。その際、議論を破壊するような意見の表明は認められないだろう。

このような寛容の原則を、「人間が生まれながらにもつ自然権を構成する」などと言う必要はない。

もう一つは、国家の中立性の確認である。国家が何らかの宗教を真なるものと認め、それを全ての市民に強制することは、世俗の社会秩序の安定を著しく損なう。このことは当の宗教にとっても結果的には不幸なことであろう。国家権力はむしろ個人の内面には一切関りを持たず、ただ防衛や警察や経済政策といった外面的な秩序維持機能を果たすことに専念すればよい。公的な物事と私的な物事との間にははっきりとした一線が弾かれるべきなのである。こういったプラグマティックな認識は、国家の世俗化を推進しようという勢力が積極的に打ち出したものであるが、同じ論法は寛容を求める諸議論にもしばしば援用された。一切の宗教上の権威に対しても、また様々な価値観に対しても、厳正に中立を守る国家。このような国家が古典的自由主義者にとっての一つの理想像となるのである。

国家の中立性がこのような意味であるとすれば、いささか問題含みであると思われる。「個人の内面」が何を意味するかである。「個人の内面」が「宗教」を意味し、「政教分離」を主張するのであれば、これは大方に受け入れられだろう。しかし「個人の内面」が「価値観」に関わるものであれば、そう簡単にはいかない。法律や政策が、「価値」と無縁のものであることはあり得ないからである。したがって、「様々な価値観に対しても、厳正に中立を守る国家」などというものはあり得ないと思われる。

 

③権力の多元性の確立-「権力分立」

16世紀以降、ヨーロッパの王権は次第に中央集権化の度合いを強め、王権への権力集中を「主権」という概念で正当化するようになる。このような事態に不満と危機感を募らせた諸勢力は、強大化する国家権力をいかにすれば制限できるかについて、様々な方策を模索するようになる。中でも最も洗練された権力制限の議論を構成したのが、18世紀フランスのモンテスキューである。…どうすれば確実に権力を制限できるのか。モンテスキューによれば、最も効果的な方法は、ある権力を絶えず別の権力が抑止するような抑制と均衡のメカニズムを制度的に作り上げることである。国家の内部に、つねに勢力の拮抗する複数の権力主体が存在し、それらが突出して強大な権力の出現を防ぐ。このような状況が、自由な国家の基本構造だというのである。とりわけモンテスキューが重視したのは、政府の権力が、立法・執行(行政)・司法の三権に分けられ、それぞれが相互にコントロールしあう制度である。ここに、近代憲法を構成する主要な原則の一つである、いわゆる三権分立の理論が成立する。

三権分立という言葉は、誰もが聞いたことがあるだろう。三権が互いにチェックしあうという理解であるが、果たして「ある権力を絶えず別の権力が抑止する」という理解がされているだろうか。国会(立法府)は、内閣(行政府)の権力を抑制しているだろうか。最高裁(司法)は、内閣(行政府)の権力を抑制しているだろうか。日本は官僚機構に権力が集中した行政国家と言われるが、三権分立の建前と実態はどうなのだろうか(後で説明があると思うが…)。

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https://www2.deloitte.com/ie/en/pages/financial-services/articles/link-n-learn-webinar.html

 

モンテスキュー以降、権力分立の原則は、立法・執行・司法の三権以外の政治アクターにも広がっていく。上院と下院との関係、中央政府と地方政府との関係、派閥・政党・利益集団といった集団間の関係といった様々な局面において、抑制と均衡のメカニズムが働くことを重視する議論が展開されるのである。こういった一連の権力分立論の背後には、多元的権力観と呼びうるような発想が存在する。すなわち、自由な体制とは、様々な利害や意見を持つ集団が、互いに対立・競合しあいつつも、全体として一種の均衡状態としての秩序を形成するという、そのような体制である。…多元的権力観は自由主義的な政治観を特徴づける重要な要素となる。

多元的権力観というのはよく分からない。権力を分立させるというのは分かるが、権力を分散させては、まとまるものもまとまらなくなるだろう。様々な利害や意見を持つ集団が、互いに対立・競合しあっていては、「全体として、一種の均衡状態としての秩序が形成」されるはずもない。どのような権限をどこに配置するのかが組織(ひいては社会)設計の要だろう。…このようなよく分からない多元的権力観が、「自由主義的な政治観を特徴づける重要な要素」と言われても、何のことやら…。