平野・亀本・服部『法哲学』(20)
今回より、第4章 法と正義の基本問題(平野仁彦)に入る。第1節は、「公共的利益」である。
公共的利益とは、公の必要に関わる共通利益のことであるが、それには、平和、治安、秩序維持から、資源、環境、運輸、公衆衛生、医療、教育など、国民の健康で文化的な生活条件を確保することまで様々なものが含まれる。公共的利益が法に関して問題となるのは、具体的な法制度の設立・運用および法制度の下での紛争解決にあたってである。例えば、
- 公共事業はどのようになされなければならないか?
- 企業活動への規制はどうあるべきか?
- 福祉のシステムはどのような仕方で運営されるのが望ましいか?
表現の自由と個人の人格価値の保護あるいは公正な裁判の要請との調整はいかに図られるべきか?
法制度の設立・運用とは、具体的にどのような問題であり、「公共的利益」をいかに考えるかを、(少なくとも一部の問題について)述べることができるようになっていなければならないだろう。
今日の福祉国家において、法による公共的利益の確保は重要な課題の1つである。しかし、その際にとられるべき基本的考え方には、個人の人権を重視するものから社会全体の利益を優先させるものまで様々である。
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平野は、まず「功利主義」を取り上げている。「功利主義は福祉国家を基礎づける理論」であるという。あなたは、功利主義を支持する? 支持しない?
功利主義は、「最大多数の最大幸福」を、正しさの判断基準とする。より多くの人々により大きな福利をもたらすことを目標にし、法制度や法的決定は、採りうる選択肢の中で最も効用の高いもの、即ち社会全体として不利益を上回る最大限の利益が得られるものを正しい選択とする。従って、公共的利益は最大多数の人々の利益と捉えられる。
これを、次のように言い換えてみよう。
TH = H(1) + H(2) + …… + H(n)
社会はn人より構成される。1人目の幸福(効用、快楽)はH(1)である。2人目の幸福はH(2)である。n人目の幸福はH(n)である。社会全体の幸福は、各個人の幸福の合計(TH)である。
Hとは、ある法制度や法的決定により得られる幸福のことである。ここでの「法」は広い意味(共同体におけるルールの意味)に捉える。
例えば、次のような政策が考えられたとする。
この政策により、ある人は幸福(効用、快楽)が増大し、ある人は減少する(Hがマイナス値となる)。直接的な影響だけでなく、間接的な影響もある(当該政策を採用することにより、予算制約より、他の政策が実施されなくなる)。
功利主義とは、THが増大する政策をとることである。
平野は、功利主義の特徴を3つ挙げている。①公平原則、②個人的善の総計化と最大化、③帰結主義
公平原則とは、
誰をしも1人として数え、何人も1人以上に数えてはならない。…社会的善が何であるか、どのような福利を社会は実現すべきなのかをみるとき、社会構成員一人一人の個人的善が平等に考慮に入れられる。
ここは現実がどうかということではなく、「基本的考え方」の問題である。社会を構成する一人一人の個人的幸福を平等に扱うということである。一見「公平」で良いと思うかもしれないが、そう単純にはいかない。…「子ども」は1人として数えるのか。「認知症患者」は1人として数えるのか。「殺人犯」は1人として数えるのか。
社会的善(社会全体の利益、社会全体の幸福)とは、
そして、そのようにして等しいウェイトの与えられる個人的善を社会全体にわたって集積し総計化したものが「社会的善」にほかならない。
社会全体の幸福(TH)は各個人の幸福(H)の合計と定義される。異質な幸福の集計は不可能という批判はおなじみのものであるが、それとは別に等しいウェイトを与えて集計してよいのかという論点もある。
各個人で異なる幸福を集計できないということは明らかである。ここで、なぜこんな集計の話が出てきたのか考えてみる必要がある。それは、「ルールや政策の評価」のためである。「ルールや政策の評価を、どのように行うのが望ましいか」という問題設定で考慮すべきだろう。
帰結主義とは、
一定の行為選択ないし制度選択が社会的にどのような帰結をもたらすかを予測し、社会的善に照らして選択のメリット・デメリットを分析・評価することである。
配偶者控除を廃止すると、誰にどのような影響を及ぼすか。それを考慮しないルール変更はあり得ない。こんなことは、別に「帰結主義」と呼ばなくても、当たり前のことのように思える。あるスポーツの種目で特定国に不利なルール変更が行われるという話を聞くことがある。これが恣意的な変更ではないというために、「その変更は、全体として、当該スポーツの振興になる」というような根拠づけがなされる。
平野は、功利主義の考え方の特質を挙げている。①合理的選択、②目的論、③将来志向的。
合理的選択は、社会全体の幸福が最も大きい選択肢を採用するということであり、将来志向的とは、帰結を考慮するということであるから、省略する。
では、目的論とは何か。
社会全体の福利の増進を追及する思考は、目的論としての性格を帯びる。義務論のように、行為それ自体あるいは制度それ自体を正しいものとはみなさない。正しさは、社会的福利の増進という目的の実現にどれほど貢献するかによって判断される。…「正しいこと」は、個人的善の最大化をもって論じられ、いわゆる自由主義的な正義論のように、「正」の原理が個々人の「善」とは独立に規定されて、それに一定の制約を課すのではなく、個々人の「善」が社会的「正」を基本的に規定するという論理構造を持つ。
「行為それ自体あるいは制度それ自体を正しいものとみなす」という考え方は、いかなる行為や制度が「それ自体正しい」とみなされるべきかという問題が生ずる。そのような行為や制度は、結局のところ「キリスト教の黄金律」のようなものに帰着するのではないか。このように、それが具体的に何を意味しているのかを追究していけば、必ずしも目的論と対立するものではないように思われる。
個々人の善(=幸福)を強調すると、社会のなかに存在していることを忘れて、自分(身内、仲間)が良ければそれで良しとするエゴイストを生むことになりかねない。そうではなく、私たちは「共に生きている」のだということを踏まえて、何が「正しい」のかを考える必要がある。
「個々人の幸福が、社会的正義を基本的に規定する」という表現は、「最大幸福の原理」の言い換えであろう。
以上のような功利主義には、様々な問題点がある。これについては、次回に取り上げよう。