浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

正義論(2) 「正義の原理を、純粋な形式で決める」ということ

加藤尚武『現代倫理学入門』(18)

今回は、第8章「正義の原理は、純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか」の続きである。正義の具体的内容について論ずるものではない。前回述べたように、「倫理的な命題に関しても、体系的な思考、演繹的な思考というものが必要なのではないか」という問題意識を持っていれば、このような抽象的な話も聞く気になろう。

 

ヒュームは、正義と利害とが一致し、人々は正義に基づく行動をすることができると主張する。ヒュームは共同の利益のための共同の行動が可能になると考えている。利益が伴うことを条件とする打算的常識人の正義に向かって、カントは、共同の利益と正義とは完全に一致するものではなくて、一致しない場合にこそ正義ははっきりと姿を現すのだから、共同の利益を守ろうとする意識は、ひたむきな正直者の義務意識とは違うと言うだろう。

加藤は、ヒュームの正義について、「約束を守ること(契約を履行すること)」を例示している。そのことが、お互いの利益になるから、約束を守る(契約を履行する)というのである。カントはこれを「打算的常識人の正義」と呼ぶ。また、共同の利益と正義が一致しない場合にこそ正義ははっきりと姿を現すという。

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黄色を「正義」、緑色を「共同の利益」と考えてみよう。通常は、共同の利益は、正義とみなして良いだろう。「共同」や「利益」という言葉で何を考えているかにもよるが、契約の履行=約束を守ることが、お互いの利益となり、正義に適うと考えるのは、素直な考え方であろう(黄緑色の部分)。カントはこれを「打算的常識人の正義」と呼ぶそうだが、「共同の利益=みんなの幸福」になることを、なぜ「打算的常識人の正義」と侮蔑的な言葉で言わなければならないのか。…前回、定言命法仮言命法の話があった(正義論(1)定言命法と功利主義 参照)。

仮言命法は、「もし~ならば、~せよ(すべきである)」という形をとる。条件付きの命令である。

定言命法は、仮定・条件を設けず、無条件に断定する立言であり、端的に「~せよ(すべきである)」という形をとる。無条件の命令である。

という意味であったが、カントは仮言命法を認めず、定言命法を主張する。だから「もし、共同の利益になるならば、契約を履行せよ(すべきである)」という仮言命法を認めない。カントにとっては、緑色は存在せず、黄色(正義)を定言命法(無条件命令)として主張するもののようだ。

「共同の利益と正義が一致しない場合にこそ正義ははっきりと姿を現す」とは、どういう意味だろうか。純粋に「黄色」(正義)の部分があるということだろうか。「共同の利益」にはならない「正義」とは何か。どうにも思いつかない。では、一致しない部分とは、「緑色」(共同の利益)の部分を言うのか。「正義」ではない「共同の利益」とは何だろうか。やはり思いつかない。

「共同の利益」という言葉で何を考えているのか。「正義」という言葉で何を考えているのか。その具体的内容につき、議論(話し合い)をしないと、空理空論、独断と偏見に陥るだろう。(もちろん、木 ⇔ 森 である。)

 

不信も信頼も同じ相互性の構造を持つ。信頼だけが相互性を持つのではない。カント的な形式主義が正しいためには、相互性が成立する場合は道徳性の側だけであって、相互性の不成立は必ず不道徳の側になるのでなければならない。悪の側の相互性もある。ア・プリオリの形式的な規定だけで、実質的に善と正義の内容を定義できるというカントの形式主義の見込みは成り立たない。

「カント的な形式主義が正しいためには、相互性が成立する場合は道徳性の側だけであって、相互性の不成立は必ず不道徳の側になるのでなければならない。」…この文の主語は何か理解できない。「悪の側の相互性もある」というが、これは「不信の相互性がある。」ということなのか。そうならば、不信=悪だということなのか。

カント的な形式主義とは、前回見たような、定言命法(君の格律が、普遍的な立法の原理となるように行為しなさい。=万人に共通のルールとしてもおかしくないような、ある個人的ルールを定める。そしてそのルールにしたがって行為せよ。)のことだとすれば、これがカントの善と正義である。加藤は、不信(悪)の相互性を根拠に、カントの形式主義を批判しているように見受けられるが、なぜそれが根拠になるのか分からない。

 

他方、倫理判断だけでなく、ア・プリオリの総合判断一般が可能かどうかについては、記号論理学者から強力な否定論が出てきたア・プリオリならば総合判断ではなくて、分析判断である*1。正しい総合判断であれば、ア・プリオリではない。だから「ア・プリオリの総合判断は不可能だ」という結論が出てきた。どんな場合にも、分析判断と総合判断の区別がはっきりつくかどうかについては、またさらに疑問が出てくる。しかし、「ア・プリオリの総合判断」という形で厳密主義の夢を実現しようとする試みが、永遠に夢に終わるだろうという見通しは、ますます確実になっていく。それでは、厳密主義の夢はすべて消えたのかと言えば、そうではない

これまで、「ア・プリオリ」や「総合判断」や「分析判断」のまともな説明がなく、このようなことを言われても何のことかわからない。ア・プリオリとは、「先験的、経験に先立つ」という意味で、総合判断や分析判断が、脚注に示すような意味であるとすると、上の文もなんとなく分かってくるような気にもなるが、それでもこの文脈で「ア・プリオリの総合判断」が何を意味するのか明確になってこないし、「厳密主義」との意味連関も不明である。こんな文章を「入門書」に書いて、いったい誰が理解できるのだろうか。

 

「善は定義できるか」という言語に即した問題だけを解決するという形でなら、厳密主義が成り立つのではないか。ムーアの『倫理学原理』以後、英米の倫理思想は、道徳法則はどのような言語上の特色を持つかという形で展開された。ところがムーアの結論は、「善は定義できない。定義すれば自然主義的誤謬に陥ってしまう。倫理学で言えることはこれが全部で、倫理学はこれでおしまい」というものだった。「善は定義できない。これだけが厳密に言えることで、あとは皆さんご自由に」ということになる。善は定義できないが、自由主義の可能性は残る。結局は厳密主義を取り下げる結果になる。厳密主義は取り下げになっても、言語主義は残る。ヘアは「道徳の言葉は、指令の一種で、普遍化可能性をもつものだ」という説を提出している。 

厳密主義とは、「善とか悪とか正義とかの問題に対しても、ユークリッド幾何学のような厳密な証明をしよう」という立場であった。加藤は、ムーアの「善は定義できない」に賛同して、「倫理問題(道徳法則)は、厳密な証明ができない」と言っているのだろうか。それともただ単に、こんなことを言っている人がいますよと紹介しているだけなのだろうか。

「…自由主義の可能性は残る」と言うが、ここで言う「自由主義」とは何だろうか。何を言いたいのか全くわからない。「…言語主義は残る」と言うが、ここで言う「言語主義」とは何だろうか。何を言いたいのか全くわからない。

 

近代哲学の夢は、倫理学の内容を数字や幾何学のように展開することだったが、その夢は消えてしまった。しかし、純粋に形式的に厳密ではなくても、常識的な意味で十分に客観的な倫理学は可能であるかもしれない。ヘアの倫理可能性の理論は、そのような試みのひとつである。

加藤は「近代哲学の夢は、倫理学の内容を数字や幾何学のように展開することだったが、その夢は消えてしまった。」と言う。おや? さきほど「厳密主義の夢はすべて消えたのかと言えば、そうではない。」と言っていたのではなかったか。ムーアの「善は定義できない。定義すれば自然主義的誤謬に陥ってしまう。」で、厳密主義の夢が消えたということなのか。…私は、ムーアの主張を、もう少し詳しく知らなければ、そう簡単に「厳密主義」(が言わんとしていたこと)を否定しさることはできない気がしている。

ヘアの倫理学については、後ででてくるようなのでその時に考えよう。

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「正義の原理を、純粋な形式で決める」「ユークリッド幾何学のような厳密な証明をする」というとき、私は、上図のようなイメージを持つ。

 

*1:分析判断と総合判断…一般に知的活動の過程、方法、成果を特徴づける対(つい)概念であり、複雑な現象を単純な成分へと解体する手続が分析、逆に分析された結果から元の現象を再構成する手続が総合である。とくに哲学および論理学では、真偽を決定する手続に応じて判断の種類を区別する概念として用いられる。カントは、主語概念のなかに述語概念が含まれるような判断を分析判断(「馬は動物である」)、そうでないものを総合判断(「馬は足が速い」)と名づけた。ライプニッツの「理性の真理」と「事実の真理」の区別もほぼこれに対応する。現代では論理実証主義者が、分析判断を論理法則または定義に基づいて真なる命題、総合判断を経験的検証が可能な命題として解釈し直し、それ以外の命題を無意味なものとして退けた。しかしクワインは、分析的と総合的の二分法を「経験主義のドグマ」とよび、その区別は言語体系の選び方によって定まる相対的なものにすぎないとして批判した。(野家啓一日本大百科全書)