浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命はいかにして誕生したのか?

木下清一郎『心の起源』(2)

今回は、「心が生まれてくるまでの道のり」で、「核酸の出現」、「細胞の誕生」をとりあげる。以降、「個体の誕生」、「心の誕生」、「利己的遺伝子」と話が続く。

本書の記述に従い(生物学の専門的なことに立ち入らないで)簡単にみていくことにしよう。

 

核酸の出現

遺伝子が生物を支配していると言われる。それはどういう意味か。

太古の時代、原始地球は物質のみからなる物質世界であったが、太陽から程よい距離におかれたという偶然から、液体としての水が豊富にあり、そこにさまざまな物質が溶け出して化学反応が進んでいった。やがてその中に核酸という高分子があらわれる。核酸は長い鎖状の分子であるが、鎖から分子の構成分子である4種類の核酸塩基が突き出ており、その並び順が分子ごとに独特である。分子がそれぞれに独自の塩基配列を持っていることは、言い換えると分子ごとに個性を持ったということになる。分子が個性を持つとは、これまでにはなかったことである。

この核酸は今でいえばRNA(リボ核酸)に近いものであったらしいが、現在のRNAとはまったく違った性格をもっているので、ここでは「原初の核酸」と呼んでおこう。原初の核酸は独特の能力を持っていた。即ち、分子が他からの助けを借りずに、自身の手で自身とまったく同一の分子を合成するという能力である。これを自己触媒による自己複製と呼ぶ。そこに至るまでの過程はいまでもすっかりわかっているわけではないし、あまりに生物学の議論になるのでここでは深入りしない。

核酸という高分子が、それぞれに「独自の塩基配列」を持っている。木下は、これを「個性」と呼ぶが、「物の個別性」(他とは異なること)の意味だろう。この「原初の核酸」が、「自身の手で」(自己触媒)、「自身とまったく同一の分子を合成する」(自己複製)という能力を持っていた、という。この「自己複製能力」が「個別性」の条件だろう。なお、自身とか自己とかの擬人化用語に気をつけよう。ここはあくまでモノの世界である。

「そこ(自己複製能力を持つ)に至るまでの過程」は、今でもよく分かっていないという。これは「生命」以前の「物理」のテーマだろう。

生物物理学は、生命の根元を理解しようとする学問です。生命は物質に担われています物質科学の原理から、どのように生命現象が引き起こされるのでしょうか。 また、生命には特徴的な階層構造が見られます。生命らしさが現れる最も小さい単位は、生体高分子です、生体高分子が自己組織化して超分子集合体が、さらにその有機的な集まりにより細胞が、 そして細胞の組織化により器官や個体が、出来上がります。さらに、生態系が生命の階層構造の最上位に位置しています、生物物理学の目的は、これらの各階層における生命現象の物質科学的基礎を理解し、 その階層をつなぐ原理原則を見いだすことによって生命現象を解き明かすことです。

http://www.biophys.jp/highschool/explain.html

 生体高分子の自己組織化→超分子集合体→細胞→器官・個体という流れである。ここでは「自己複製」ではなく、「自己組織化」という言葉が使われている。どちらが適切かはよく分からないが。

 

強調しておきたいことの一つは、自己触媒という不思議な性質が先々で重要な意味を持ってくることで、これについてはあらためて議論する機会がある。もう一つは、自己複製によって再生産しようとしているのは、自己としての個性であり、他の個性ではないということである。これは将来に個性同士のせめぎ合いを招くことになる。いうまでもなく、このときにはまだ生命は誕生していないが、この個性的分子が自らの個性を存続させるための活動は、やがて生命活動に発展していき、原初の核酸は幾多の変遷を経た後に、遺伝子として生命活動のなかで大きな役割を演ずることとなる。遺伝子となった後も、分子が自らの個性を存続させようとする性質には変わりがなく、それが生命というものの性格に大きな影を落としているというのが、生物学としての主張の根本にある。

「個性(独自性ある高分子)同士のせめぎ合い」がどういうものかはまだ分からないが、意味深長である。また「遺伝子」については後で説明があるだろう。

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http://boundbaw.com/world-topics/articles/8

 

細胞の出現

核酸分子の自己複製は地表にできた水溶液のなかで始まっていたが、やがて原始地球の環境は長い時間の間に徐々に移り変わって、それまで核酸分子の周辺には贅沢であった自己複製のための素材やエネルギーが、環境の中で次第に乏しくなっていく。このとき、現在ではまだ十分には解明されていないある偶然から、溶液の一部分がある種の膜によって区切られることになった。それは恐らくある種のコロイド(膠質)としての反応から生じたものであろう(コアセルベート形成)。この膜の内部では核酸の複製の条件を満たすような仕組みを保つことができたが、外部では複製の条件は失われてしまい、そこでの核酸の複製は不可能になった。核酸の複製という過程から囲い込みをみるなら、それを許している内界とそれを許さぬ外界の二つが峻別されたことを意味している。内界に設けられた仕組みは、やがて核酸の複製を支える物質代謝とエネルギー代謝に発展していく。こういう役割を担った囲い込みの現れた時が、とりもなおさずの誕生の瞬間であり、それが原初の生命の誕生の瞬間である

「現在ではまだ十分には解明されていないある偶然から…」という。これは「よく分からいが…」と同義だろう。コアセルベートとは、

親水性コロイド溶液中の粒子が集合して、濃厚なコロイドゾルとなり、小液滴として他の部分から分離したもの。他の物質を付着させたり取り込んだりする性質をもつため、生化学者オパーリンはこれを地球上での生命発生の初期段階と考えた。(デジタル大辞泉

溶液の一部分がある種の膜によって区切られ囲い込まれること(自己触媒による自己複製機能を持つ)を細胞と呼び、生命と呼ぶ。これを「生命」というのは、木下による「定義」だろう。「生命」というと、「物質」ではない何かが加わった響きがある。ここで、「コアセルベートは生命なのか」という疑問がわく。そこでいろいろ検索していたら、次のような記事[言いがかり高校生物]が見つかった。

生命の起源に関する研究のパイオニアはアレクサンドル・オパーリンでしょう。彼は、「原始地球で単純な分子から複雑な分子ができ、それが蓄積してやがて生物になった」という化学進化説を唱えました。化学進化によって生じた複雑な有機分子が膜に包まれることによって細胞へと変わっていったと考えられています。その原始的な細胞のモデルとしてオパーリンが候補に挙げたのがコアセルベートです。…コロイド溶液の中に粒子の密な部分と疎な部分ができて、やがて密な部分が凝集し、水に浮かべた油滴のような界面ができた物をコアセルベートと呼ぶ……であってるかな。

小生が知りたいのは、コアセルベートに細胞のような膜があるのかどうかです。小生のイメージでは、コアセルベートは液滴であって、嚢状[のうじょう、袋状]の構造物ではありません。コロイドに富む層と乏しい層の間には界面がありますが、リン脂質のような分子が並んだ構造にはなっていないと思っていました。…岩波の生物学辞典には、「二次的変化として・・・透明嚢胞(膜形成)などを示す」と書かれています。最初は界面を持つ液滴だが、浸透圧差により物質を取り込むうちに膜が形成されることもある、ということなんでしょうか。う~ん、どうもスッキリしない。

オパーリンはコアセルベートが原始的な細胞へ進化したと推測していました。しかし、コアセルベートが細胞へと形を変えたとするには数多くの問題が残されており、現在では、コアセルベートが細胞の祖先だという考えは否定的です。…コアセルベートは物質が出入りしたり増殖したりと、生物に似た特徴を示しますが、これらの特徴は外部からエネルギーを与えなければ進みません。自律的な反応ではないためこれを生物と考えるのは難があります。コアセルベートが生命の起源に関わっていると考えている科学者も、コアセルベート自体を生命だとは考えていません。

では、どうやって細胞ができたのか、というとこれまた決定的な証拠は何もありません。現在様々な説が提唱されていますが、どれもそれなりに説得力があるのですが、決定力は欠けると言ったものです。…ともあれ、生命の誕生というのは科学上最大の謎なのです。

http://mayorofsimpleton.seesaa.net/article/377248314.html

どうやって細胞ができたのか? それは「現在ではまだ十分には解明されていないある偶然から」としか言いようがないのであろう。

 

新しく生まれた細胞という構造の中に含まれている核酸分子は、これからは「遺伝子」と呼び変えても良いであろう。すると、細胞という構造も、そこで行われる物質代謝やエネルギー代謝も、まず何よりも遺伝子の複製を目的として現れたと見ることができよう。つまり、原初の生命の誕生それ自体が、遺伝子の複製のために起こったということになる。これは最初に挙げた生物学としての主張、すなわち個性的分子の自己複製が生命活動の根元にあるという主張、を言い換えたものとなっている。

生物学の勉強をする気はないのだが、基礎的なことは確認しておいたほうが良いかもしれない。以下は、NHKの高校講座「生物基礎」より。

DNA は化学的な構造や性質を調べると、「デオキシリボースを含む、核の中の酸性を示す物質」なので、「デオキシリボ核酸」と名付けられた。英語で書くと「Deoxyribonucleic acid」となり、これを略したものが「DNA」である。DNA は非常に細くて長い糸状の物質なので、核の中でもつれてしまわないようにヒストンと呼ばれるタンパク質に巻きついている。染色体は、DNA がタンパク質に巻きついたもので、核の中ではさらに集まって塊のようになっている。

DNA は核の中に存在し、ヒトの場合、体細胞1個に 46 本の DNA がある。それを全部つなげると 2m 近くにもなる。遺伝子は、その長い DNA のところどころにあって、「背を伸ばす」や「二重まぶた」などということを決めている部分(タンパク質を決めている部分)で、生物の設計図になる情報がある。ヒトの場合、タンパク質を決めている DNA の遺伝子部分は全体の 1.5%程度で、残りの部分は遺伝子ではない。その DNA の遺伝子ではない部分には「DNA のはたらき方を調節する情報」があることがわかってきた。しかし、機能がよくわかっていない部分もまだ多く残っている。つまり、「DNA はデオキシリボ核酸という物質」そして、DNA の一部が遺伝子で、遺伝子は生物の設計図になる情報」である。

ヒトに限らず、ある生物がもつ遺伝子と、遺伝子ではない部分を全部含めた遺伝情報の全体を「ゲノム」という。DNA は物質だが、「ゲノムというのは DNA にしまわれている内容、つまり遺伝情報のすべて」である。ゲノムは今、薬や医療、品種改良などわたしたちの身近なところでも利用されている。ヒトの遺伝子数はおよそ 22,000個で、カーネーションの 43,000個より少ない。しかし、ゲノム全体の情報量で比べればヒトゲノムはカーネーションの5倍もある。ヒトゲノムには遺伝子ではないが、遺伝子のはたらき方を調節する部分がたくさんあるので、ヒトはいろいろと複雑な調節をしながら、からだづくりを行うことができるのである。

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/seibutsukiso/archive/seibutsukiso_08.pdf

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インフルエンザウイルスが細胞に感染して増殖し,細胞外に放出される(出芽する)までの過程。インフルエンザウイルスは,遺伝物質としてRNA(リボ核酸)をもつことから,RNAウイルスと呼ばれる。

http://www.tsukuba.ac.jp/notes/009/

 

木下は、「細胞という構造は、遺伝子の複製を目的として現れたと見ることができる」と言っているが、果たしてどうか。この「目的」という言葉には、どうにも違和感がある。意識なき生命?(集合体?)が、なぜ「目的」を持つと言うのだろうか。ただ単に、「同じものが形成される」という事実があるだけのことではないのか。しかし、「なぜ」同じものが形成されるのかは分からない。

 

生命の誕生とその存続についてのこういう見方は、あまりに核酸分子に重きを置きすぎていると思われるかもしれない。いま私たちが目にする細胞をその機能からみれば、ほとんどはタンパク質の活動として現れているし、その構造からみれば、脂質とタンパク質からなる膜の集積であり、その間を占めるコロイド原形質である。遺伝子は単なる設計図として、表舞台の役者たちの背後に控えているに過ぎないのに、それを主人公とするのは主客転倒ではないかという印象を受ける。

核酸分子もタンパク質その他の分子も、いま私たちが知っている生命にとって、いずれも必要であり重要である点では変わりはない。しかし、決定的な違いが一つある。それは情報の流れからすると、核酸分子(つまり遺伝子)が常に上流の側にあって、逆には流れないことである。核酸によってタンパク質の構造は規定されるが、逆にタンパク質によって核酸の構造は規定されないのである。この情報の根源性が遺伝子に独自の地位を与えた。また実際、そのことがこれから長く尾を引いて、遺伝子をつねに優位に立たせることになる。

 「核酸(遺伝子)によってタンパク質の構造は規定されるが、逆にタンパク質によって核酸(遺伝子)の構造は規定されない」これはいい。しかし、「この情報の根源性が遺伝子(遺伝情報を持つ核酸)に独自の地位を与えた」とは、どういう意味だろうか。「情報の根源性」とは何だろうか。「独自の地位」とは何だろうか。言葉のあや以上の何かを意味しているのだろうか。