浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

タバコを吸うという愚かなことをする権利

加藤尚武『現代倫理学入門』(26)

今回は、自由主義の原則の第4番目、「④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも」についてである。

ある行為をすること、または差し控えることが、彼のためになるとか、あるいはそれが彼を幸福にするであろうとか、あるいはまた、それが他の人の目から見て賢明であり、あるいは正しいことであるとか、という理由で、このような行為をしたり、差し控えたりするように、強制することは、決して正当ではない。(ミル)

だから客観的に見て、「どうしてあんな馬鹿なことを白昼堂々しらふでするのか」というような、馬鹿げたことをする権利[愚行権]が人間にはある。例えば、宗教上の理由で輸血を拒否する、タバコを吸う、命がけの危険なスポーツをする、仮装して歩行者天国で踊る、大きな建造物を梱包してみせるなどなど、合理的でない、自分の不利益になることをする権利がある。しかし、そのような行為に対して、他人は説得する権利はあるが、強制する権利はない。

これらの理由は、彼に諫言し、彼に理を分けて話し、彼を説得し、または彼に懇願することのためには、充分な理由であるが、彼に強制し、また彼がそうしなかった場合に何らかの害悪をもって彼に報いるためには充分な理由にならない。(ミル)

自由を認めるということは、愚行権を認めるということである。愚行権がなかったら、どんな行為だって「それは愚行だ」という口実で止めさせられてしまう。

 どうだろう? 私は、「愚かなことをする権利(愚行権)がある」というのは、「権利」という言葉の濫用であるように思う。誰もが意図して「愚かなこと」をするはずがない。そうしたいと思い、そうすることが正しいと考える(信じる)からこそ、そのような行為をするのである。「愚かなこと」と評価するのは、他人である。「私には愚かなことをする権利があるから、愚かなことをする」などと、「愚かなこと」を言う者は誰もいないだろう。であれば、「愚行権」なる用語は適切ではない。

正しくは、「他人は愚かなことと言うかもしれないが、私はそうしたいのでそうする。私は何も犯罪行為をしているのではないから、ほっといてくれ」と言うのに対し、「私は君のその行為は愚かなことと思うが、何も犯罪行為をしているのではないから、私はとやかく言わない」ということであろう。

問題は、「ほっといてくれ」を「自由」と観念し、「とやかく言わない」を「そのような自由を認める」と解することである。…この話を続ける前に、加藤の話を聞こう。

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「大きな建造物を梱包する」という愚かな行為?

Wrapped Reichstag/Christo and Jeanne-Claude

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なぜ愚行権を認めるのか。加藤/ミルは4つの理由をあげている。

まず、①自己関心という理由がある。

自己への最大の関心を持つのは自己である。いかなる人も、またいかに多数の人々も、すでに成年に達している他の人間に向かって、「あなたの利益のために、あなたが自分で処置しようと欲しているようにあなたの生活を処置してはならない」と言う権利は持っていない。その人こそ、彼自身の幸福に最大の関心を持っている人なのである。深い個人的愛着で結ばれている場合は別として、他人が彼の幸福に対して抱きうる関心は、彼自身が抱く関心に比較すれば、取るに足りないものである。(ミル)

「自分が自分に関心を持つ」という言い方は「私が私の身体を持つ」というのと同じぐらい不合理である。私の身体の外に私がいるわけでないのと同様に、私の外部に私が存在して、それを私が所有しているというのは、一種のレトリックにすぎない。そのレトリックに基づいて、私に対する私自身の関心と、私への他人の関心とが比較されている。一見するともっともらしいが、この関心の比較というレトリックを取り去ると、「エゴイズムを認めてよい」と言うのと同じことである。…「私が私自身に最大の関心を持つ」と言うことは、「私はエゴイストである」と言うことの比喩的な表現である。

 「人は自分の幸福に最大の関心を持っている。他人は口出しするべきではない」というのがミルの主張か。

 

次の論点は、②自己理解が最大であるというものである。

社会が一個人としての彼に持っている関心は(他の人々に対する彼の行為に関しては別であるが)、微々たるものであり、また全く間接的なものである。しかるに、最も普通な男や女でも、彼自身の感情と境遇とに関しては、他のいかなる人の持ちうる理解の手段よりも、測り知れないほど勝った理解の手段を持っている。(ミル)

自己を最もよく知る者は自己である。従って、自己の生命の質については、自己決定が最善の決定である。生命の質に関する自己決定というバイオエシックスの原理は、この点に根ざしている。

「他人の感情や境遇はなかなか理解できるものではない。人は自分の感情と境遇とに関して、最もよく理解している」というのがミルの主張だろう。加藤のコメントはいささか飛躍しすぎの感じがする(自己の生命の質や自己決定は、感情や境遇だけの話ではない)。

 

ここから第三の論点として、③誤った干渉の危険という理由が出てくる。

彼自身のみに関係のある事柄について、彼の判断と目的とを破棄させようとする社会の干渉は、一般的な推定を根拠としているに相違ない。だがこのような一般的な推定は、全然誤った推定であるかもしれないし、また、たとえ正しいとしても、個々の場合にこれを適用するにあたって、その場合の事情に関して単に外から傍観している者と同じくらいの知識しかもたない人々によって、誤って適用される場合があることもあろうし、ないこともあろう。(ミル)

これは「自己について他者は自己以上によく知ることはない」という前提で語られる論点である。しかし、これと全く逆のことも実際には真である。自分とは自分自身について最もよく知らない存在である。だから「人の振り見てわが振り直せ」と言われる。他人の方が自分よりも自分のことをよく知っているということは、実際にたくさんある。…「自分のことは自分がいちばんよく知っている」という前提は決して自明な真理ではない。

 加藤の言うように、ミルの主張には「自己について他者は自己以上によく知ることはない」という前提があるようだ。また「誤った推定の危険があるから、あるいは誤った適用の可能性があるから、干渉すべきではない」とはならない。

 

第四の総括的な論点として、④個性と自発性の尊重という理由が出てくる。

それ故にこそ、人間関係の事柄のうち、この部分において、個性はその本来の活動領域をもつ。人間相互間の行為においては、各人が何を予期せねばならないかを知り得るために、一般的規則が大部分遵守されなくてはならない。しかし、各人自らに関する事柄については、彼の個人的自発性は、当然に自由なる活動をする資格がある。彼の判断を助けるための様々な考慮や、彼の意志を強固にするための様々な勧告が、他人から彼に与えられるかもしれないし、また彼に対して強要されることさえあるであろう。しかし、最後の断を下すべき者は、彼自身である。彼が、他人の注意と警告とに耳を傾けずに、犯す恐れのあるすべての過ちよりは、他人が彼の幸福とみなすものを彼に強制することを許す実害のほうがはるかに大きい。(ミル)

ミルは自由の存在理由として、一方では、正しい認識が正しい判断を生むという主知主義的な前提で自己決定を正当化するが、他方では、愚行権を含む個性と自発性の尊重という非合理主義の論点で、自己決定を正当化する。また自由の尊重にはもう一つの理由もあって、それは言論の自由の場合に使われる「批判的吟味・自由競争によってはじめて真理に到達する」という論点である。この場合には多数の人間の反復される判断が自然淘汰されて真理に到達するという、経験への信頼が下敷きになっている。これは経験主義的合理主義の立場だと言える。要するに自由を正当化する合理主義的論点と非合理主義的論点とが、重なり合っている。

 ミルは「彼自身のみに関係のある事柄」という限定をしたうえで、「彼が愚かな行為をするとしても、他者は干渉すべきではない」と主張しているようだ。

 

ここで先ほど保留した、「ほっといてくれ」を「自由」と観念し、「とやかく言わない」を「そのような自由を認める」と解することについて、話を進めよう。これを考えるにはタバコの例が良いだろう。

 

タイのたばこパッケージ

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1 たばこを吸うと肺水腫で死にます

2 たばこの煙は近くにいる人を殺します

3 たばこを吸うと肺がんで死にます

4 たばこを吸うと頬粘膜がんになります

5 たばこを吸うと口腔がんになります

6 喫煙は口臭の原因になります

7 喫煙は足壊疽の原因になります

8 たばこを吸うと喉頭がんになります

9 たばこを吸うと脳血栓で死にます

10 たばこの煙は人を死に追いやります

http://dout.jp/1171

 

タバコを吸うということは、(私には)実に「愚かな行為」に思える。しかし喫煙者は、ストレス解消等のメリットが健康被害のデメリットよりも大きいと考えてタバコを吸う。それは個人的な事柄であるから、禁止できないというのがこれまでの考え方だった。ここで受動喫煙の被害はなく、喫煙者のみの健康被害があると仮定して考えてみよう。「自由」を主張する者は、本人が望むなら(健康被害は自己責任だから)自由に吸ってよい、他人に迷惑をかけているのではないから、他人は干渉するな、と言うだろう。一方、お節介焼きは、健康を害するから吸うべきではないと「干渉」する。放置すべきか、干渉すべきか。(なお「干渉」には程度がある。「忠告」から「犯罪者として処罰」するまでいろいろある。)

この問題について(現時点で)私がどう考えているか結論を述べると、喫煙者に正確な情報を提供して、喫煙者の判断に任せるというものである。「情報提供」を確実なものにするためには、タバコを購入する者に、「喫煙者講習受講済証」の提示を義務付けるという法律が考えられる。運転免許証みたいなものである。

自由か強制かの二者択一で考えるのではなく、具体的な問題に即して、考えるべきだろう。