気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

「自己労働→自己所有」というおかしな論理

立岩真也『私的所有論』(2) 

第2章 私的所有の無根拠と根拠 第2節 自己制御→自己所有の論理

私的所有を正当化しようとする言説はどういうものか。

ロック(1632-1704)をはじめとする論者達が持ち出すのは、自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては、その者が権利・義務を負うという。…ロックは身体を予め彼のものとしている。

ヘーゲル(1770-1831)の考えも、同じ図式であるという。(カントやマルクスノージックやエンゲルハートへの言及もあるが、下記が理解しやすい)

私が私の身体を占有して、私が心身分離を克服する。身体が私に固有の身体となる。その身体を用いて私は土地を囲い込む。土地が私の財産となる。その土地を利用して、羊を飼う。羊毛が私の生産物となる。根源的な占有は自分の身体の占有である。根源的な労働は、自分の身体の精神化である。(加藤*1

立岩は、この論理を、「多くの論者が、生産・制御→所有という主張をしている。だが少しでも考えるなら、これは随分おかしな論理である」と批判する。

(1) 誰もが、一見してこれを随分乱暴な議論だと思うはずである。基本的にこの論理は、結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。しかし、この世にあるもののどれだけを私たちが作っただろうか。例えば、私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を搾った。…しかし、その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。もちろん、このことはその「製品」がもっと「手のかかった」ものであっても言いうることである。つまりここでは、「作り出す」「貢献する」と言う時に、そもそも人間による営為しか考えられてはいない。…この論理が成立するためには、単に労働→取得というのではすまず、世界中のものが人間のものとして予め与えられていなければならない。あるいは、この労働とは(馬や牛の労働ではなく、人間以外の全てのものの活動・作用ではなく)人間の労働でなければならないのである。

いかに単純そうにみえる「製品」であっても、それが出来上がるまでには、数多くの人の、多大な労力が必要なことは(たぶん)容易に理解されるだろう。とすれば誰か特定の個人が作り出したとは言えないことは明らかである。しかし、立岩がここで言おうとしていることはそういうことではない。

天然資源(自然資源)…人間に利用される自然のなかの物質および物質生成の源泉となる環境の働きをいう。土地,水,鉱物などの無生物資源と森林,野生鳥獣,魚などの生物資源がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

無生物や生物が、なぜ人間のものであるのか。人類が出現する以前の地球上に存在した無生物や生物が、人間のものであるとは誰も言わないだろう。では、そのような土地を囲い込んだら、なぜ人間(とりわけ囲い込んだ人)のものになるのか。鳥獣や植物や魚を狩猟したら、なぜ人間(とりわけ狩猟した人)のものになるのか。生存競争という言葉が浮かぶが、それは「囲い込んだ人・狩猟した人が、他の人の利用・消費を、武力で排除する」ということであって、その人のものである(所有物である)ことを正当化するものではないだろう。

(2) 仮に世界が人間のためのものであるとしよう。それでも問題は残る。世界中を個々人の作為・制御によって実際に埋め尽くすのは無理がある。そこで、そのものに最初に触れた人がそのものを取得し処分する権利があるということにする――「先占」というカント後期の主張がこういうものである。ともかく最初にその地に乗り入れた人がその土地を取得する権利があることになる。何にせよ先に手をつけた人、唾をつけた人が勝ちになる。だがこれに私たちは説得されるだろうか。

先占(せんせん)とは「他人より先に占有すること」である。土地については、元々は誰のものでもなかったが、それが「最初にその地に乗り入れた人」(土地を囲い込み、他者の無断侵入を武力で排除することが出来た人)が、「所有者」となった。これを正当なこととして認められるだろうか。「国家」が、それを「権利」として認めると言うとき、何かがおかしいと感じないだろうか。私たちの知らない誰か(遠い祖先)が武力で土地を占有し、それを承継したものが、「所有権者」として保護されるということに、疑問を感じないだろうか。

(3) この論理は「私」が因果の起点であることを要請する。もし、私が「始まり」でなく、私の行為を起動した別のものがあるなら、そのものに結果の取得の権利と義務があることになってしまう。ゆえに、この条件を厳しくとれば「自由意志」といった決して経験的には存在を検証されないようなものを存在させなくてはならない。自由意志は存在するかといった終わることのない論争が引き起こされることになる。

ここを詳しく議論するためには、「神」や「自然」や「生物」について言及しなければならないだろう。

(4) 行為についてはのようなことが議論の対象となる。だが、その論争にかかわらず少なくとも一つ確かなことは、身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。私が作り出したものはこの世に何もないのだとさえ言える。それにしても、手足なら制御することもできよう。しかし、私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。すなわちこれは、制御されないもの(身体、そして能力の少なくともある部分、…)については、かえってその私的所有(処分)をさらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも、否定してしまうことになる。以上では因果関係における因果関係の度合い、「貢献」の度合いが問題にされる。貢献(度)についての疑問が当然生ずるということである。人間はこの世界があることにどれだけ貢献しているのか。ただ、このことより、ここで指摘したいのは次である。

「私の身体の内部器官[脳を含む]は私が作り出したものでも制御できるものでもない」。この意味で、私は身体[脳を含む]を「生産・制御」できない。したがって私は身体を所有できない。私は外部にある物のようには、私の身体を所有できない。身体[脳を含む]は、「私のもの」ではなく、「私」である。

f:id:shoyo3:20180105164447j:plain

https://cdn02.nintendo-europe.com/media/images/10_share_images/games_15/wiiu_download_software_5/SI_WiiUDS_AxiomVerge_image1600w.jpg

 

(5) とても単純で、より基本的な問題がある。この主張は、それ自体で完結する一つの主張・信念としてしか存在することができない。「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。

 ①Aはaを生産する。ゆえに②Aはaを取得する。(図式)

①を一つの事実としよう。自分の精神が自分のものである。これはまあよいとしよう。その精神が肉体を制御し、肉体が外界を制御する。これも――自由意志はあるかないかといったかたい話をしない限りは――事実といえば事実である。②も一つの可能性としてありうる。だが問題は、①と②のつながりである。その制御されるもの、生産されるものがどうしてその人のものになるのか

aを生産するのに、Aだけで可能ということはありえないが、問題を複雑にしないために、この図式で考えていこう。…私(自分)が制御し生産するものは、私のものである。なぜそんなことが言えるのか。疑問に思ったことはないだろうか。この問いは、原始取得[ある権利を、他人の権利に基づかず、新しく取得すること]の場面での問いかもしれない。しかし、承継取得[売買・相続などのように、他人の持っていた権利に基づいて、ある権利を取得すること]の正当性が原始取得の正当性に帰着するなら、この問いは極めて重要な問いであろう。

ここでAとは誰であり、制御し生産するとはどういうことなのかを明確にしておかなければ、本当に理解したことにはならないだろうが、いまは保留しておこう。

この「ゆえに」が根拠づけられない。なぜ①ゆえに②なのかと問われる時に、返す言葉がないのである。これは事実ではなく、そうなるべきである、そうなるのが正しい、という一つの規範命題、一つの主張である。そして、ここにその理由が示されているわけではない。つまり、「自分が制御するものは自分のものである」という主張は、それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは、結局のところ、「自分が作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。

図式は、①Aはaを生産する。ゆえに、②aはAのものである。と言い換えてもよいだろう。これが正しいと考えられるか否かは、A、a、生産する、のものである、といった言葉の意味に依存する。ここでは、「生産」を「狩猟採集」と考え、「のものである」を「自由に使用・処分する」という意味にとらえる。そうすれば、「私が狩猟採集したものは、私が自由に使用・処分する」という「生存のための行為」(力ある者が取る。そして仲間内に限って、力なき者に収穫物の一部を与える。)を合理化するために、「私が狩猟採集した」ゆえに「私が自由に使用・処分することができる」とルール化したもののように思える。

もちろん、あらゆる原理(何が正しく何が正しくないかを決める基準)には、どこかで行き止まりになる、それ以上遡れない地点がある。どんな原理・原則も、最終的にはそれ以上根拠づけられないような場所に出てしまう。私たちはただ、ある原理を、正しいもの、受け入れるべきものとして承認するのである。だから論理が行き止まりになっていること自体をやり玉に挙げても仕方がない。問題はこれが基本的な原理なのだろうかということである。

このような原理をしばしば「公理」と呼ぶが、「基本的な原理」といったほうが分かりやすい。立岩は問う。「これは基本的な原理なのだろうか」と。私が上に述べたことは、「力ある者が取る。そして仲間内に限って、力なき者に収穫物の一部を与える」という生存のための行為を正当化するために「規範命題」としたものであり、「基本的な原理」たりえない、というものである。

*1:加藤尚武、『ヘーゲルの「法」哲学』(1993)