浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

コモンズの悲劇(2) ウンコな議論?

立岩真也『私的所有論』(7)

共有地(コモンズ)の悲劇とは、「多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則」*1Wikipedia)であった。例えば、牧草地とか漁場が、共有地(コモンズ)である。ではどのように対処すればよいのか。経済学者は、「共有」がいけないという。「私有」にすれば、その土地(資源)が良く管理されるという。何故かというと、その土地(資源)から得られる収穫物を彼のものとすることによって、その土地(資源)が枯渇するような行動をとらなくなるからである、という。そこには、経済人=経済合理的に行動する人間=利己的に行動する人間という人間観がある。

立岩は次のように述べている。

資源を管理する人がいないと、その土地は荒れ放題になってしまう。そして形式的に管理する人がいても、管理し、より生産性を高める努力をするその見返りとして対価を払わないなら、やはり人は管理をさぼってしまうから、その土地を私有させ、その土地から収穫される生産物の売上をその人のものにさせた方が良いと言う。

何故、「私有」という話が出てくるのだろうか。歴史的事実を踏まえた上で、理論的な考察が必要だろう。

第1に、確かに「私有」は有効である場合があることを認めよう。④[欲求の関数:f=(生産,対価)*2]を前提するなら、農地であれ工場であれ、生産のための資源を誰か特定できる人(達)の管理下におくべきこと、単に管理者を任命するだけでなく、その資源を使って生産された生産物をその人(達)のものとした方が、管理がよくなされる場合もあるだろう。…資源・環境の保全が目標とされる場合も、まず保全が生産に結びつくなら生産の維持・拡大のために保全が行われることもある。また、直接生産に結びつかないにしても、自分の庭は自分の庭だから大切にするかもしれない。別の所有形態、別の規制のあり方を置く場合に比べて、これらをどの程度当てにできるかどうかは全く場合による

確かに、「私有」というのは一つの選択肢かもしれない。その際、「別の所有形態、別の規制のあり方」(他の選択肢)があり得ることを考えたかどうか。メリット・デメリットを考慮した上での選択問題として考えたかどうか。

だが第2に、以上で確認されたことは、誰に配分するのかという問いに答えるものではない。労働の成果を私有させることが効果的であるとしよう。しかし農地や工場は条件①[所有資源を移動することができない*3

を満たさない。これらについても、(頻繁に)所有権の変更を行うことは、意欲を低下させるから、(あまり)行うべきでないとは言えるかもしれない。変更が予期されることによって、所有物に対する配慮をせず、それを適切に管理しようとしない、生産財を増やそうとしないといった場合である。

歴史的にこういうことがあったのかどうか知らない。理論的にもこういうことがあり得るのかどうか明快ではない。

けれども、以上は所有の割り当てそのものを指示しないし、現在の割り当てを正当化するものでもない。財が誰かのものであった方が良いということは言える(言える場合がある)としても、誰のものであった方が良いのかということは言わない。例えば、土地のどの部分に各人が労働を加えてよいのかを言わない(別言すれば、土地をどのように私的に分割しても有効であるということだけが言える)。

ある「力ある者」に土地が割り当てられ、資源の枯渇を招くことなく良好に管理されればそれでよいのか、ということである。誰が、どのように割り当てるのか。

このことが見えにくいのは、私的所有に共有を対置させるからである。実際にこの社会にあり、この章で検討してきたのは、正しくは特定の私的所有の体制、自己の生産物の自己所有の体制である。共有地の悲劇」論は、各自の手持ちの資源でやりくりせよという主張、個々人について言うだけでなく、各国がその国の内部で資源の問題、環境の問題を処理するようにという主張につながった。しかしこの論は、国境による線引きと固定化、(移民を受け入れないこと、援助しないこと…)すなわち既得権益の固定化を正当化できるものではない。

ここで立岩が言わんとしていること(国レベルの話)は、もう少し詳しい説明がないとよく分からない。

私には、経済人(ホモ・エコノミクス)前提の議論は、胡散臭い議論に思えてしようがない。個人を国家に置き換えた議論、国益を第一とする議論も、軽薄な人間観=経済人(ホモ・エコノミクス)の発想に基づくものだろう。

この節で見てきたことは、自らの生産物の私的所有について、その「効能」による正当化が、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の身体を働かせることができないという事実に依拠しているということであり、この条件を満たさない一切のものについては、仮に共有より私有が有効であると言えたとしても、それをどのように、誰に配分すべきかは一切指示しないということである。さらにここから議論を進めていくことができる。

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http://www.jayhanson.us/e

 

「共有」、「私有」の話は、まだ始まったばかりである。本書はまだ10%ほどしか読んでいない。

できるだけ頭を柔らかくして、読み、書き、考えていきたい。

*1:2018/04/17の記事、「コモンズの悲劇」参照。

*2:2018/03/22の記事、「人間の敗北である単なる事実を正義と言いなす」を参照。

*3:同上