浮動点から世界を見つめる

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人工授精・体外受精等の生殖技術は、富裕層のためのものなのか? From Russia With Love

立岩真也『私的所有論』(12)

第3章 批判はどこまで行けているか は、人工授精・体外受精等の生殖技術への批判の言説を検討している。今回は、第2節 公平という視点 である。本章は、「人工授精・体外受精等の生殖技術」について議論しているが、これは、遺伝子治療/遺伝子操作につながる議論であろう。そのことを念頭に置きながら読んでいこう。

公平という視点をとることができる。現実に行われていることがこの原則[公平の原則]に反しているとする主張があり得るし、実際にしばしばなされている。

ここで、このような主張がいくつか紹介されているが、これは省略する。

 

富者しか利用できない?

お金や時間がかかることは、お金や時間に余裕のある人でないとできない。こうして格差・選別が生じる。問題になるのは、かなりの費用とそして何より時間を要する体外受精と、代理母を「雇用」することによる経費がかかる代理母契約である。例えば、裕福な層だけが体外受精を行うことができるといった指摘がなされる。

金持ちにしか利用できないから問題だという批判である。この批判は成立するか。

(生殖技術が)利用できてよいとすれば、それが実現されていないことが問題だと言えるが、そうではなく、本来望ましくないのであれば、この主張は成立しない。だから、こうした指摘は、利用されてよいことを前提して始めて意味をなす。ならば、それを多くの人に行き渡るようにすればよいではないかという議論があるだろう。

人工授精・体外受精等の生殖技術(以下、生殖技術という言葉が出てきたら、遺伝子治療/操作に置き換えてみるのが良いだろう)の利用がそもそもあってはならない(望ましくない)と考えるなら、「金持ちにしか利用できないからダメ」というのは、「皆が利用できるようになれば良いのか」という反問を生む。

(1) まず、贈与も売買も認めずそのままにしておく方が公平だと言えるのか。不妊という状態にあることに当事者は責任が無い。…譲渡を禁止することは現状維持にしかならず、かえって不平等である、社会的に公正でないと批判することもできる。こうして、平等の原理から技術の制限の不当を言うこと、この技術そのものはむしろ平等を達成する、少なくとも平等の原理により適ったものだと言うことも十分に可能である。

生殖技術(遺伝子治療/操作)を認めないことは、現状維持を意味する。不妊や遺伝子欠陥が当事者の責任ではないとしたら、これは「公正ではない」のではないか。

金銭が介在する(売買)ことによって不平等が生ずるのであれば、「贈与」の場合はどうか。

(2) 贈与においても、相対的に供与を受けやすい地位があるだろう。…例えば、腎臓移植が家族・親族間に限られるとすれば、移植を受けられるのはそうした家族・親族がいる場合に限られる。とすると、売買の場合に比して贈与の方が有利だとは必ずしも言えない。自発的な行為によっては得ることがより困難であるかもしれない。とすればかえって金銭を介在させた方が良い場合があるかもしれない。

実際に誰が贈与を受けられるのかを考えたら、「公正」とは言えないだろう。これは相続を含め、財産贈与に当てはまる。

(3) 以上(1)(2)に述べたことを認めたとしてもなお、経済的な格差によってこの技術に接近できない人が出ると言う現実は確かに残る。だが、ならば公的な医療保険制度の中に組み入れるなりして、その不平等を軽減し、すべての人が利用できるようにすればよいではないかという主張が成り立ちうる。…さらに、検査・「治療」に時間がかかる等の問題についても、例えば育児休暇をとることができるのと同じように制度を整備するなら、ある程度の解決が可能かもしれない。不妊は「病気」ではないのだから、生殖技術の適用は医療行為ではないと言う主張もあるが、私たちの社会は狭義の医療だけに限らず、種々の公的な援助を行っている。子を持つことについても税金や保険料が使われてよいと考えることは出来る。医療保険で扱うかどうかはともかく、公的な援助が認められてよいと言いうる。

医療保険に関しては、2018/09/01の記事「不妊治療 生命倫理」で見た、「不妊治療費に関する保険適用と保険適用外について」の図を参照。現在保険適用外になっているものについても、保険適用にしようという議論が出てくるかもしれない。但し、保険適用等の公的な援助が認められたとしても、その後の「養育費」が高額になることが考えられる。そうなると、話は公的な援助(社会保障)だけにとどまらない。不平等を拡大することにもなりかねない。

(4) また、特に強く批判されているのが代理母の斡旋機関、特にそこから利潤をあげている企業である。…[しかし]もし各自が利用できる資源が公平に確保されるなら、ある程度の利益を上げる機関の存在は、技術への接近の公平性の確保という点から、有用だとされることになるかもしれない。利益を上げ過ぎていることが問題なのだろうか。…また適正な媒介活動を行う機関は成立しえないものなのか

代理母の斡旋機関」と聞くと好印象を持たないが、「技術への接近の公平性の確保」という観点から、営利企業ではない公的な代理母の斡旋機関が要請されるのかもしれない。

以上のように考えるなら、この論点[金持ちしか利用できない]は、技術を基本的に批判し得るものではなく、むしろ利用のあり方の不備を指摘するものと見るしかない。社会的負担、売買を許容、贈与だけ許容、禁止の順に好ましさが減じることになる。

不妊治療が望まれることならば、利用のあり方を整備すべきということになる。

 

貧しいものが搾取される?

もう一つの指摘は、売却者・譲渡者に即してのものである。売買、特に有償での代理母契約について問題にされるのは、困窮者が譲渡する側にまわるだろうということである。これはその行為が自由な行為ではなく強いられたものだとする批判に連続している。…お金がないから、お金を得るために、自身の持つものを譲渡しなくてはならない。ここでは個々に配分されている財の初期状況が問題にされるのである。 

 困窮者である(お金がない)がゆえに、金を得るために代理母となることは問題ではないか。

格差の拡大も指摘される。…例えば、専門的な訓練を受け専門職につき相対的に高い賃金と地位を得ている女性が代理母契約によって子を持ち、妊娠期間も仕事を継続することによって自らの賃金と地位を確保し高めていけるのに対し、自分の身体しかない女性は代理母契約に応ずることになる。こうして一定期間ある程度の賃金をその仕事によって得られたとしても、結局のところ彼女は多くを得ることはできず、貧困のうちにとどめられる。これは性の商品化についてもよく問題にされることである。…例えば代理母になる者が貧困層に偏っているという指摘があり、批判がある。さらにこれは「南北問題」として捉えられる。これも、第三世界の女性や臓器提供者の問題が指摘されるのと同じである。これはもっともな指摘だと思える。しかし、何に照準した批判なのか、何を問題にしているのか。

代理母など非現実的な話だと思うかも知れない。しかし、有名人の代理母出産のニュースが時折流れてくる。最近では、キャスターの丸岡いずみと映画コメンテーターの有村昆夫妻が、夫婦の体外受精卵をロシアの代理母の子宮で育て出産した。(生殖技術の問題を考えようとする場合、次の動画は必見だろう。*1

 

代理母出産]丸岡いずみさん ミヤネ屋


*祝*[代理母出産]丸岡いずみさん ミヤネ屋❶

f:id:shoyo3:20181028091258j:plain

https://www.youtube.com/watch?v=O4ByWGHV3rU

https://www.youtube.com/watch?v=PesLCqDBF3k

https://www.youtube.com/watch?v=jlAPEvPjwIY

https://www.youtube.com/watch?v=pqPgcZfA7mQ

https://www.youtube.com/watch?v=UEQAvxMFUIo

 

立岩は問う。貧しいものが搾取される? しかし、これは、何に照準した批判なのか、何を問題にしているのか、と。代理母貧困層に偏っているから問題なのか。

(1) 社会に広く存在する不公平それ自体が問題だと言うのだろうか。…例えば譲渡したくないものを譲渡しなければ生きていけないその悲惨さ一般が問題にされねばならないのだとすれば、その批判は、やはり財の不平等な布置それ自体に向けられるべきではないか。ここで、これ[代理母]だけを禁止することは、一つの収入源を奪うことでしかなく、格差の縮小には結びつかないのではないか。 

 悲惨さ一般を問題にしているのならば、代理母を禁止したところで問題は解決しない。

(2) 社会的な不公平の集約的な現れとしてこの問題があるということだろうか。…ある者にとっては、ある仕事[代理母や売春]が唯一得られる仕事であるのかもしれない。…これに対しては、まず事実としてそういう状況になっているのかという問題があるだろう。そして、仮にそのような状況であるとしても、やはりそのものの譲渡[売買]が固有に問題であると言えて、初めてそれを生じさせている状況を問題化しうるはずだ。だからここででもまず問われるべきは、なぜこの譲渡[売買]が問題なのかである。こうしてやはり、譲渡・売却一般ではなく、生殖に関わる場面での売買が、また例えば性の商品化や臓器の売却が特別に問題にされるべきだとすれば、それはなぜなのかという問いが残る。なぜ、他の商品化されるものとは別に、それらの譲渡が問題なのかという問いに答えなくてはならない。

3K職場(きつい、汚い、危険)*2で働かざるを得ないとすれば、これは問題ではないか。これは代理母や売春の仕事と同じようなものではないか。代理母や売春がことさらに問題視されるのは何故か。

本来は誰もが等しく負わなくてはならない負担なのに、その負担が特定の人にかかることが問題になっているのではないだろう。では、それを特定の人が(貧困故に)担わなければならないから貧しい者にとって否応の無い選択としてあるから、問題なのだろうか。だが、私たちは多かれ少なかれ嫌な仕事をその対価をゆえに引き受ける。そしてそれは、ともかく当人が引き受けたことなのだから、仕方のないこととされる。譲渡する者はそれによって得るものがあるだろう。だから譲渡する。譲渡するものは大切なものであるかもしれない。ある条件があれば譲渡する必要が無かっただろうが、その人は譲渡によって得られるものにより大きな価値を認めた。一般に私たちは、こうしたことを良いことだとは考えないとしても、仕方のないこととして認めている。これもまた自発的な譲渡[売買]であると考えている。…とすれば、結局のところ全てを認めざるを得ないことになるのではないか。しかし、生殖技術の応用のあり方に疑念を抱く人は、譲渡を禁止すべきだと主張するかどうかは別としても、このような帰結をそのまま受け入れることをためらうであろう。とすれば先に出した問いはまだ答えられていない。

いろいろな仕事がある。肉体的・精神的につらい仕事も多々ある。現代では、強制労働はまず無いだろうから、それらの仕事は自ら選んだ仕事なのである(失業中でなければ)。生きるために、仕方のないことだと観念しているのである。代理母もそのような仕事であるとしたら、これを禁止するとどういうことになるか。それでも代理母を認められない何かがあるとしたら、それは何だろうか。

それは第一義的には不公平を発生させるからではないはずだ。公平の問題を無視して良いと主張しているのではない。商品化が問題化[問題視?]されるのなら、それを担わねばならない状況に置かれることの悲惨が問題にされる。生殖が商品化されたときに、その商品を提供する側に置かれやすいのは貧窮のうちにある人々であるのは間違いない。しかし、その悲惨は、商品化されるべきでないということを前提とした悲惨なのである

 「商品化されるべきではないとは言えない」(報酬を得て代理母になることを禁止しなくても良い)ということであれば、貧窮者が代理母になることは「悲惨」ではない、のではないか。

こうして確認されたのは、第一に、富めるものしか利用できないという指摘はこの技術に対する根本的な批判にはならず、むしろその適用の拡大を求めるものとなること、またこの問題は少なくとも原理的には解決不可能ではないということだった。第二に、貧しい者が専ら譲渡する側に回るという指摘にしても、実は(不)公平自体が最初の問題ではないということ、譲渡自体に、しかも譲渡(売買)一般ではなくこの技術に関わる譲渡に対して特に否定的な価値が与えられて初めて、譲渡せざるを得ないことが問題になるということだった。

問題は、生殖技術に関わる売買を、全面的に肯定し難い何かがあるのではないかという感覚である。臓器移植や遺伝子治療/操作の場合はどうか。上述の議論と同じ点、異なる点は何か。

*1:丸岡が東日本大震災で見たものは何か、詳しくは語られないが、そこにおける「死」と、有村との間に生まれた新たな「生」との繋がりが、心に留まった。

*2:新3Kというのもある。「きつい」「帰れない」「給料が安い」(特にIT業界?)。他に、次のようなKがあるらしい。休憩が取れない、休暇が取れない、臭い、きもい、結婚が遅くなる。