浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

主権国家システムの形成

久米郁男他『政治学』(16)

今回は、第7章 国内社会と国際関係 第2節 国民国家システムの形成と拡大 である。

本書における「国家」の定義とは、

近代ヨーロッパが生みだした近代主権国家に限定した場合の近代国家を次のように定義する。

第1に、国境というかたちで明確に区切られた固定的な領域を確保し、[領域]

第2に、その領域内において一元的な法律の権威を確立し、その法律を制定し、強制するための排他的組織を備え、[主権]

第3に、メンバーの間に言語・文化・民族に関して相当程度の共通性が存在することが期待される組織[国民(民族)]

端的に述べるなら、近代国家とは、領域・主権・国民(民族)からなる存在である。

(第5章 国家と権力 第1節 三つの国家観)

この定義を念頭におき、本節の文章を読んでいこう。私の関心は、国家(共同体、コミュニティ)とは何かであるが、本節で論じられているのは、「国家」の成立についてではない。あくまで近代西欧の「主権」国家の成立についてである。

次の文章がポイントではないかと思われる。

中世ヨーロッパの階層的な国際関係を変化させ、西欧的国家システムという新しい国際関係の特徴を誕生させる直接的な契機とみなされるのが、1618年に勃発したドイツ(神聖ローマ帝国)の宗教内乱に周辺諸国が武力介入した三十年戦争と、それを終わらせたウェストファリア条約(1648年)であった。…ウェストファリア条約を契機として、諸国家は中世的な宗教的・普遍的階層秩序から離脱し、主権と領土と国民(領土に属する人々)を備えた国家、即ち主権国家の並立という認識を共有するようになったのである。

ウェストファリア条約を契機として、諸国家(主権国家ではない)は、「中世的な宗教的・普遍的階層秩序」から離脱し、「主権国家が並立」したという。この意味を理解するために、(私は「歴史」の素養がないので)少し「歴史」の勉強をしよう。

 

封建制度

中世ヨーロッパでは、国境で明確に区切られた政治的共同体は存在せず、土地支配を介在した封建的な人的契約関係(封建制度が形成されていた。このため、人的な契約関係が変化すると国王の勢力範囲も変化した。即ち、国境で区切られた国王の領土というものは明確に存在しておらず、地域的な領邦国家という国家の形態をとっていた。このように領域的にあいまいな勢力範囲がある一方で、ローマ教皇が宗教的権威の頂点に立ち、皇帝、国王、諸侯などよりも上位の権力を持っていたため、中世ヨーロッパにはローマ教皇を頂点とした階層的な国際関係が存在していた。

このような教皇を頂点とする中世の宗教的な権威体制は、14世紀頃からフランスやスペイン、イギリスなどで、王権による領域的な国家統合(国王による中央集権的国家化)が進むにつれ、次第に世俗的な権力に侵食されていった。しかし、領域的な国家統合が進んだといっても、当時の国家では、人々も領地も国王の財産として捉えられているに過ぎなかった。

封建制度、宗教的な権威体制の話題は興味深いが、これは別途ということにしよう。領邦国家については、後でふれる。

 

古城(本章担当)は、簡潔に(的確に)三十年戦争ウェストファリア条約について述べている。

三十年戦争は、カトリック教会の権威に対するプロテスタントの蜂起という宗教的側面と、教皇の権威に対抗する国王・領主たちによる権力闘争という世俗的側面を併せ持っていた。ウェストファリア条約によって、各国王はその領地における排他的な権利とともに、その領地内の宗教を決定する権限を持つことが認められ、対外的に国家は主権の平等が認められた。

三十年戦争

ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる。当初は神聖ローマ帝国内[ドイツ国内]で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマークスウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。(Wikipedia

ここで宗教戦争についてコメントしようと思ったが、やめにする。「宗教」や「戦争」については、もっと根本的に考えることにしたい。

 

ウェストファリア条約

ウェストファリア条約の]枠組みによって、プロテスタントローマ・カトリック教会が世俗的には対等の立場となり、カルヴァン派が公認され、政治的にはローマ・カトリック教会によって権威付けられた神聖ローマ帝国の各領邦に主権が認められたことで、中世以来の超領域的な存在としての神聖ローマ帝国の影響力は薄れた。…神聖ローマ皇帝立法権・条約権は帝国議会に拘束され、帝国内の約300におよぶ諸侯の主権が皇帝と帝国に敵対しない限り、完全に認められた。…ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国の内部においてさえ、皇帝に代わって世俗的な国家がそれぞれの領域に主権を及ぼし、統治権と外交権を行使することとなった。そのことにより、ヴェストファーレン体制は、しばしば「主権国家体制」とも称される。すなわち、国家における領土権、領土内の法的主権および主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立されたことである。…ヴェストファーレン条約の原則を基礎とする国際法は以後も継続されたため、現在の主権尊重の国際法そのものの現在のあり方を「ウェストファリアシステム」と呼ぶことがある。(Wikipediaヴェストファーレン体制)

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現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷Wikipedia神聖ローマ帝国

 

「領邦」という言葉が出てきたので見ておこう。

領邦(Territorium、縄張り)は、中世ヨーロッパに成立した君主を中心とする半自立の支配圏。…領邦国家という語は、神聖ローマ帝国を構成する地方国家(諸侯領・帝国都市を指し、中世後期(13世紀ごろ)以降、神聖ローマ帝国の解体(1806年)までの時期について用いるのが一般的とされる。

13世紀前半、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖職諸侯と世俗諸侯に対して上級裁判権、貨幣鋳造権、築城権などの諸権利を承認するに至った。さらに、13世紀半ばに皇帝不在の大空位時代に入ったことは、各地における諸侯の自立を決定的なものとし、領邦国家の形成が進んだ。1356年の金印勅書はさらに帝国の分権化を促進し、各地の領邦君主は領邦ごとの集権化を進めていった。この時期に領邦の数は300以上にのぼった。

16世紀、ハプスブルク家が強大化して領邦の自立性が脅かされたが、幾度かの宗教戦争を経てアウクスブルクの宗教和議が成立したことで、領邦は領内における宗教選択権を獲得したこうして領邦教会体制が成立したことは、皇帝・教皇の干渉から領邦を一層自立させることになった

1648年、ヴェストファーレン条約において、各領邦の主権が一応は容認され、およそ300の領邦国家が成立した。これはあくまでも理念上の話であり、実際に主権国家としての地位を固めたのはごく少数の大諸侯領のみであったが、彼らは領内貴族の勢力を抑え、財政を安定させて官僚制と常備軍を養成した。こうして、隣国フランスが「絶対王政」下で中央集権化を進めるのに対し、ドイツでは各地の領邦国家ごとに集権化が進められたため、近代において統一的な国民国家を形成するのが遅れることになった。(以上、Wikipedia

また「諸侯」とは、

主君である君主の権威の範囲内で、一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のこと。…中世ヨーロッパの封建制において、王権によって領域支配を認められ、王から封土(ほうど)として授けられた所領を支配する貴族のこと。(Wikipedia

冒頭の近代国家の定義では、近代国家とは、領域・主権・国民(民族)からなる存在であった。領域とは、「国境というかたちで明確に区切られた固定的な領域」であったが、上記に言う「領邦国家」の「領邦」(王から封土として授けられた所領)がその前身であると考えてよいだろう。

今日、「王が封土として授けることの根拠」が失われているとしたら、国境はヤクザの縄張り(Territorium)と何ら変わりないだろう。

 

ボダンの主権概念

主権とは、16世紀に主権概念を定義したボダン[1530-1596]によると、国家の絶対的、永続的、不可分の権力であり、国家より上位にあると考えられた教皇の普遍的な権利を否定するものとして位置づけられた。主権国家は、国境によって他と区分された土地、すなわち領土を備え、自国の領土内における統治については何ら制約を受けない排他的な統治権対内的主権)を持ち、また国際関係においては、自国より上位の主体の存在を認めず、各国の平等が認められた(対外的主権)。

冒頭の近代国家の定義では、近代国家とは、領域・主権・国民(民族)からなる存在であった。そして、主権とは「その領域内において、一元的な法律の権威を確立し、その法律を制定し、強制するための排他的組織を備える」ものとされた。この定義では、ボダンのいう対外的主権がどのように考えられているのか明確でない。