浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

領域と境界 自己と他者

立岩真也『私的所有論』(21)

今回は、第4章 他者 第2節 境界 の続きである。

第2節 境界 の小見出しは、1.境界という問題、2.境界線は引かれる、3. β~その人のものでないもの、4.α~その人のものであるもの、5.α/β である。前回は、1,2を見たので、今回は3以降なのであるが、順に見ていくことはやめて、5を中心に見ていくことにする。というのは、5が本節「境界」のまとめ的な記述になっていると思われるからである。

次の図は、P.125の図4.2を少し簡略化したものであるが、これを見ながら立岩の話を聞こう。

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(0) 「私的所有」に積極的な根拠はない。(第2章)

本ブログでは、立岩真也『私的所有論』(1)~(9)で、第2章を取り上げている。

 

(1) 他者が在ることを認める。(第4章)

本ブログでは、立岩真也『私的所有論』(14)~で、第4章を取り上げている。

 

(2) Aのもとにあるもので、Aから切り離されないa2は、Aが他者として在ることの内容をなす。

(3) a2の譲渡をBは求めてはならない。

Aから切り離されないものa2、Bの制御の対象としないものa2の存在が、Aが他者として在り・享受されることの中核をなす。(p.125)

a2とは何だろうか。次の記述のxがa2に相当するのではないかと思う。

私たちの現実において、いくつかのもの・ことは、既に、特定の人との関りを持っている。「Aがxを思う」「Aがxをする」「Aが生xを生きている」「xがAに宿っている」「Aがxに宿っている」、これらのことを、Bがとって代わること、取得することはできない。xそのものはAを離れることができるにしても、カギ括弧内の事態をBに移動することはできない。その意味で、これらのxはAを離れてあることができない。(Aの歯が痛い時、Aが歯痛を経験しているのと同じくBも歯痛を経験しているとは言わない。Bは、「Aが歯痛xを経験している」という状態をBが知っているという経験をしている。この時に、xはAのもとにある)。ここまでは私たちが生きており、知っている素朴な事実である。そして先に臓器の移動について考えた時にも最後に私たちに残ったのはこの単純な事実だった。(p.119)

このようなxは、Aと切り離しがたく在り、Bはそれを制御することはできず、仮に制御できたとしても、制御の対象としない、BはAを享受する。

また、次のようにも言われる。aがa2に相当しよう。

Bのものになることによって、Bによって制御する、制御しつくすことによって、そのもののAにとっての意味、そして私たちにとってのAの意味が失われてしまうようなAのもとにあるものaを、Bは制御してはならない。それはAのもとに置かれなければならない。そこにBが介入すること、aを奪うこと、aの譲渡を求めることをしない。(p.122)

私なりに、簡単に言えば、BはAの人生を奪ってはならない、ということである。Aの人格を認めるならば、共に生きる(Aを享受する)ということである。

 

(4) Aが自ら切り離そうとする対象a1は、Aが他者であることを構成するものではない。

(5) a1はAに帰属しない。

Aが切り離しの対象とするものa1は、Aに排他的に帰属しない。

Aが切り離しの対象とするものa1は、分配の対象になり、交換の対象になる。(p.125)

 a1とは何だろうか。狩猟採集物や農作物を考えるとわかりやすい。狩猟採集物や農作物は、Aの労働生産物かもしれないが、Aを離れて存在することができる。自分(や家族)の生存に必要なものが確保されるならば、余剰は分配・交換可能となる。

 

(6) 手段x1(a1…)は、A・Bが在ることの条件である。これは事実である。

(7) 在るための手段x2は、各自に確保されなければならない。

(6)の手段とは「生存手段」の意味か。(7)のx2は、x1の誤りか。手段が、生存のための手段であるならば、当然だろう。

生きていくための手段として人が必要なものについては、生きていくのに必要なだけが分配されなければならない。それを用いてどのように生きていくのかは各々の人が決める。(p.126)

 

(8) 双方が互いに手段として接する場合にも、それは最低限の範囲に留めなければならない。

これはどういう意味か、よくわからない。

 

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領域越境の切り口  ー分野を超える統合をどう作るのかー/三浦祥敬 

 

αとβの境界について

αは、a2の領域、つまりAから切り離すことのできないものの領域である。そこはBが制御できない・制御しない・他者として享受する領域である。

βは、a1の領域、つまりAから切り離すことのできるものの領域である。制御可能な領域である。そこはBとの間で、分配・交換が可能な領域である。

わかる(と思う)こと、同じとすることによる他者の消去、自己の拡大、このような事態が起こってしまうなら、むしろ、人が人を手段として扱うことのできる境界をはっきり定めておいた方が良い。つまり、制御しないことを(貫くことはできないが)まず置き、その上で、制御を仕方のないこととして、また必要なこととして認め、制限しようとする。(p.126)

Bには本来a2が「わからない」はずのものである。また「自分と同じはずだ」とすることができない領域である。切り離すことができないのだからそう言える。だから「わかること」、「同じとすること」は、「他者の消去」「自己の拡大」を意味する。これは、立岩の独特の言い回しであろうが、私の俗な解釈では、他者を自分の道具として使ってはならないということである。

このようなa2とは何か。先ほど、「Aがxを思う」「Aがxをする」「Aが生xを生きている」「xがAに宿っている」「Aがxに宿っている」とか「歯痛」の例があったが、もう一つ釈然としない。①Aは中国との防衛戦争を主張している。②Aがピアノを弾いている。③Aは胎児を宿している。④Aはアルツハイマー病を患っている。⑤Aは身体(目)を使って監視作業をしている。これらはa2か。①Bは反論してはいけないのか。②Aはピアノ演奏で対価を得てはならないのか。③Aは出生前診断をしてはいけないのか。異常があっても、中絶はしてはならないのか。④アルツハイマー病は不治の病であるとして治療を考えてはならないのか。⑤監視作業は監視カメラに置き替えてはいけないものなのか。

具体的な物・事を考えた場合、a1とa2の境界は不分明である。したがって、「切り離すことができる・できない」の基準ではなく、「手段として扱って良い・良くない」の基準の方が妥当であるかもしれない。

つまり、αは、「わかりあう」ことによって問題が解決され、人が仲良くやっていけるような社会を構想する立場とは別の立場に立つ。私はあなたを全面的に理解することを不可能だと、そのような関係が社会のすみずみを覆うことなどあるはずがないと、そして(少なくともそのような気になることを)危険だと、考えるのだ。(p.126)

「わかりあう」が、「全面的に理解する」ことではなく、「部分的に理解すること」だとしたらどうだろうか。それでも「仲良くやっていける」のではないか。

そんなわかり方は本当のわかり方ではないと言うかもしれない。しかし、本当にわかるとはどういうことか。それがわからないのだとαは言う。「わかる」という契機がないのではない。ただここで「わかる」とは、他者の何かがわかることではなく、他者がいることがわかるということである。だから、αは、他者に何かの内容を認めることではない。つまり、その者が、例えば労働力商品として現れる以外の何か充実した内容を有しており、それが理解されることによって他者であると認められるのではない。(pp.126-127)

先ほど、「わかる(と思う)こと、同じとすることによる他者の消去、自己の拡大」という話があった。ここで「他者がいることがわかる」と言うのとどういう関係にあるのだろうか。

「わかること」「同じであること」による他者の破壊、それを人は本当になくすことはできないのか。良いわかり方なら、本当に同じであることがわかるなら、人々はもっと幸福になれるのか。それはわかからない。しかし、わかかること、同じと思うことによる抑圧は実際によくあることではある。わかること、同じことの全てを否定したいのではない。ただ、「関係の透明性」、等々から出発し発想することが正しいのか、殊に十分な注意を払われずにそのように考えることが良いのか。ただ、確かなのは、他者を意のままにすることを欲望しながらも、他者性の破壊を抑制しようとする感覚があることである。この欲望を消すことは無理だと思いながら、しかし抑制しようとする時に、ここで述べたような主張の仕方になる。(p.127)

以前、次のような話があった。

その人が「在る」ことを受け取る。私ではない者としてその人が在るということ自体が、苦痛であるとともに、苦痛をもたらしながら、快楽なのである。確かなのは、他者を意のままにすることを欲望しながらも、他者性の破壊を抑制しようとする感覚があることである。この欲望を消すことは無理だと思いながら、しかし抑制しようとする時、ここに述べた感覚があり価値がある。(p.107)

「他者を意のままにしたいが、他者を破壊することまでは望まない」というのが、「知性と力」のある者の「力の行使のしかた」であるように思われる。