浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「正義よりも平和を」の意味

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(2)

井上は、「正義」に対して嫌悪を抱くような感情の3つの要因を挙げていた。

  1. 「正義よりも平和を」というスローガンに要約される発想。諦観的平和主義
  2. 正義に関するあらゆる思弁は、その本質において、支配階級のそれを代弁するイデオロギーに他ならない。階級利害還元論
  3. 何が正義であるかの判断は、客観的基礎を持たず、主観的・恣意的なものである。相対主義

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今回は、第1章 正義論は可能か 第2節「正義よりも平和を」(p.5~)であるが、これは、上記1.に相当する。

諦観的平和主義は、人類史上正義の名において流された血の量に鑑みて、正義が必然的に人をして狂信と暴力とに導くと断定する。この立場によれば、正義は闘争を解決する理念であるどころか、むしろ正義こそ闘争の原因であり、また妥協と互譲による闘争の解決を困難にするものなのである

「正義よりも平和を」という標語、あるいは「最も正しい戦争よりも、最も不正な平和を私は選ぶ」というキケロの有名な格言によって定式化されるこの立場は、法的安定性と正義を対立的に捉え、前者を後者に優先させる法実証主義の精神とも相通じているが、法実証主義の立場を自覚的に採ってはいない人々にも根強く支持されている。

 

戦争には常に理由があり、戦争当事者にとっては、自らの正義がある。

「正義よりも平和を」という標語は、戦争の非当事者に、「正義の名で行われる悲惨な戦争よりも、いささか問題はあっても平和な社会を望む」(戦争よりも平和を)と素朴に解釈されることによって支持される。

私たち(戦争の非当事者)は、自分がどのような立ち位置にあるのかを考えてみる必要があるだろう。

 

井上は、この諦観的平和主義が、「首尾一貫して準拠することの不可能な立場である」という。

素直な解釈に従えば、「正義よりは平和を」は、現状がいかに不正に感じられようと、実力によってそれを変更することをいかなる主体(個人および国家)にも許さない立場を意味するであろう。この立場を徹底させるならば、いかなる名目の下においてであれ、現状の実力による変更を試みる行為は不正とみなされ、それに対する制裁が正当化されることになる。

この例として、フォークランド紛争*1において、イギリス帝国主義を弾劾するアルゼンチンの軍事行動が挙げられている。

この立場では、植民地住民による帝国主義*2に対する戦いは不正とみなされ、それに対する制裁が正当化されるのである。

植民地住民が武力弾圧されても、なす術がないのだろうか。だからといって、武力弾圧には武力で対抗するしかないのか。

 

この解釈の下では、諦観的平和主義は「正義よりも平和を」と言いながらも、実は一つの正義原則を支持していることになる。許容可能な制裁が経済制裁や、他の非軍事的制裁に限定された場合でも、同じことが言える。しかも、かく解釈された諦観的平和主義は、現状への異議を実力行使によって表現することを禁止することの代償として、不服申立てとその裁定のための公共の手続の設定を、論理的に要請しており、何らかの手続的正義の理念にコミットしているはずである。要するに、諦観的平和主義者も、平和を守らるべき一つの積極的価値として措定する限り、その標榜するところに反して、正義を求める営みに参加せざるを得ないのである。

「正義」は一つの価値である。「平和」も一つの価値である。とすると、諦観的平和主義者は、「平和」と言う価値を選択しているのであり、それは「平和な状態であることが正義なのである」とも解釈される。

井上は、「諦観的平和主義は、現状への異議を実力行使によって表現することを禁止することの代償として、不服申立てとその裁定のための公共の手続の設定を、論理的に要請している」と述べているが、これは非常に重要な指摘であると考えられる。

これは「諦観的」平和主義というよりは、「積極的」平和主義の主張ではないかと思う。実力行使が禁止されるのならば、「不服申立てとその裁定のための公共の手続の設定」が必要なのである。これなくして、実力行使を禁止・弾圧するならば、独裁国家と言わなければならないだろう。問題は、独裁国家に対してどう対処するのかである。武力(実力行使)が唯一の解であるとは思えない。

 

もっとも、諦観的平和主義者はここで、「正義よりも平和を」の思想は一切の価値の暴力性を主張しており、まさにそうであるが故に、平和の価値化・規範化をもそれは拒否しているのだと反論するかもしれない。この反論に関しては、一切の価値への訴えを廃棄するならば、共通のルールの形成も不可能になり、平和の実現・維持も不可能になるのではないかという、ごく当たり前の疑問が先ず提起されよう。しかし、その根本的な難点は、平和の価値化・規範化を拒否するならば、諦観的平和主義は「なぜ正義よりも平和を選択しなければならないのか」(「なぜ正義に代えるに、平和ではなく無規範的闘争状態を選んではいけないのか」)や、あるいは「なぜ正義よりも平和を選択しなければならないのか」(「平和が正義に対抗し得る価値でないならば、なぜ正義を犠牲にしてまで平和を守る必要があるのか」)という決定的な問いに対して、もはや答える術を持たないというところにある。

諦観的平和主義者の「平和の価値化・規範化をも拒否している」という反論は、検討に値するような反論(詭弁)とも思えないが、井上は丁寧に再反論している。

 

「正義よりも平和を」なる格言を、文字通り正義理念の全否定と受け取って、ムキになってこれに反論するのは、あるいは粗野なふるまいなのかもしれない。この言葉は本来、他者と共有し得る正義原則の発見への努力を放擲し、自己の特殊利害や特殊な信仰を、正義の名において一方的に他者に押し付けようとする独断的な徒輩に、冷水を浴びせるためのレトリックにすぎないのかもしれない。

確かにそのような修辞としてならば、この言葉は効果的である。しかし、この言葉を、レトリック以上のものとして受け取って信奉してしまう人々が少なからずいることも事実である。彼らに対しては、部分と全体が区別さるべきであることを強調しておかなければならない。

確かに「レトリック」なのかもしれいが、効果的であるとは思えない。

他者と共有し得る正義原則」の発見への努力こそが肝要なのだが、「正義」一般なるものがあろうはずもなく、抽象的に考えていても始まらない。例えば、領土紛争、一国主義にどう対処するか等々の諸問題に一つ一つ取り組まなければならない。「正義」なる言葉一つで解決するようなものではない。

 

一歩間違えれば殺し合いかねないほど、鋭い利害の対立や信仰・世界観の対立を抱えた人々が、共生の道を歩み続けるための条件、即ち「平和の絆(the bond of peace)」として正義を模索する道も、また開かれているのである。この道が結局は行き止まりに通ずることが決定的に証明される――このような証明が可能だとは私は思わないが――までは、正義と平和との単純な二項対立図式を振りかざして、冷笑を浮かべながらディケーの像を穢すことを、我々は慎まなければならない。

「正義の戦争」か「不正義の平和」か、という二者択一なのではない。正義の戦争しか考えられない者、不正義の平和という現実を見ようとしない者、そのような思考停止に陥った者が、「冷笑を浮かべながら、ディケー[正義の女神]の像を穢すのであろう。

 

冒頭の写真は、YouTubeの動画:持続可能な開発のための実効的かつ信頼できる包含的な制度を構築する (https://www.youtube.com/watch?v=VTgYnP3Avac) からのスクリーンショットです。

*1:フォークランド紛争(Falklands War)…大西洋のイギリス領フォークランド諸島の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争。(Wikipedia

*2:帝国主義…一般的にはある国家が権威を背景とし、国境外の人々に対して支配権を及ぼそうとする膨張主義的政策をいう。15~18世紀の西欧諸国によるアジア、インド、アメリカでの領土獲得や、19世紀後半から激化した植民地政策は帝国主義的な支配といえる。(ブリタニカ国際大百科事典)