浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

正義定式と「理想的男性」

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(13)

今回は、第2章 エゴイズム  第3節 正義とエゴイズム の続き(p.47~)である。

正義定式の平等主義的性格と抽象主義的性格

正義定式(等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし)は平等主義的である。それは前回見たとおりであるが、次のような意味においてであった。

3人兄弟のチョコレートを巡る争いの例において、B(次男)が「弟は兄に逆らってはいけない」という規範をもって、C(三男)のチョコレートを取り上げるならば、A(長男)が「弟は兄に逆らってはいけない」という同じ規範でもって、Bのチョコレートを取り上げることが認められなければならない。Bがこれを拒否するのに「僕が食べたいから」(個体性)という理由は正当化されない。正当化されるのは、他の個体と共有することが論理的に可能な属性を理由とする場合のみである。

正義の固有の関心は、個人そのものにはなく、何らかの属性によって定義される個人の集合にある。偶々(たまたま)、その集合に属する個人が一人しかいないときでも、ことは変わらない。

井上はこれを抽象主義的といっている。

この抽象主義的態度において、正義は愛と対照をなす。ある女がある男を、彼が彼女にとっての「理想的男性」の基準をすべて満たすが故に愛しているとしたら、彼女が愛しているのは「理想的男性」の集合(彼一人であっても)であって、この男ではない。彼がその基準の一部またはすべてをもはや満たさなくなってからも、なお彼女が彼を愛し続けたとき、初めて、彼女の愛はこの男への愛となる。真正の愛は愛される者の個体性への関心を要求する。しかし、正義は個体性への関心を単に要求しないだけでなく、むしろ禁止する。この抽象主義的態度はすべての正義観が共有している。

井上は、「個体」と「属性の集合」を区別する話として、「理想的男性」の例を挙げている。言わんとすることはわかるが、この例が適当であるか否かは後で少し考えてみよう。

正義の平等主義的性格と抽象主義的性格は同じメダルの両面である。個体的相違が道徳的にレレヴァントな[適切な]相違であり得ることを否定する普遍主義がこのメダルを形作っている。この普遍主義が個体と個体との関係に即して見られるとき、平等主義として、個体とそれが包摂される道徳的にレレヴァントな[適切な]範疇ないし類型との関係に即して見られるとき、抽象主義として、現れてくる。

普遍主義は、「個体的相違が道徳的にレレヴァントな相違であり得ることを否定する」という言い回しを覚えておこう。

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個体性と「理想的男性」の集合

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時事通信社 2017年エランドール賞授賞式での、星野源さんと新垣結衣さん(2017年2月2日撮影) https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60a4c39de4b014bd0cb297d9

 

「普通の人と結婚したい」という婚活女子さん

www.youtube.com

 

「理想的男性」とはどのような人だろうか。いくつかの条件をあげて、これを満たすならば「理想的男性」である。そのような人(Aさん)が現れたとしても、彼女はAを愛しているのではなく、「理想的男性」を愛しているのであると井上は言う。条件の一部またはすべてを満たさなくなってもAを愛し続けたとき、彼女の愛はAへの愛となる。真正の愛は、「理想的男性」への愛ではなく、個体Aへの愛である。容姿が衰え、白髪や禿になっても、収入が激減しても、病気になっても、個体Aを愛するとき、それが真正の愛である。井上が本当にこれを「真正の愛」と考えているかどうかわからないが、「理想的男性」の曖昧さ、時の流れとともに変化すること等を考えてみれば、複雑な現実を単純化しているように感じる。

とはいえ、これは「正義は愛と対照をなす」ということに疑問を呈しただけで、正義定式の平等主義的性格と抽象主義的性格という本筋の主張に異議を唱えるものではない。