浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

遊びとスポーツ、 人生を準備する

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(22)

今回は、第4章 競争はもっと楽しいものなのだろうか-スポーツ、遊び、娯楽について(p.131~)である。

コロナ禍のオリンピックということで、開催の是非、観客の有無などが大いに話題になったが、いまではすべて忘却の彼方にある。(私はあまり注目していなかったので、よくは知らないのだが)どのように評価されたのだろうか。

コロナとの関連を除けば、私の関心は「スポーツの意義」そのものであるが、今回、本書第4章を読み、考えを深められたように思う。

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気晴らし

職場において、地位、威信、利益をめぐって行われる気違いじみた争奪戦を楽しいものだという人は、そんなに多くはない。この章で取り上げるテーマは、ほぼ一貫して気晴らしの追求である。競争の擁護は、いわば週末に場を移すわけである。

「地位、威信、利益をめぐって行われる気違いじみた争奪戦」、これは「競争」であり、昔も今も変わることが無い。「競争の擁護は、週末[休日]に場を移す」とは、どういう意味か?

アメリカで人気のある気晴らしのほとんどが、個人やチームが、他人や他のチームに勝利しなければならないというように設えられていることは否定できない。特にスポーツは、定義上は競争的なものだが、実際には、スポーツの競争意識がどの程度のものなのかは、レオナードが述べているように「勝利に対する過剰な、制度化され、コード化*1された崇拝によるのである」。

「気晴らし」とされている「ゲーム」(スポーツのみではない)が「勝利」に結びついているということ、言い換えれば、「勝利」に結びつかない「気晴らし」があり得ないとされていることが問題なのである(「敗北」にフォーカスされることがほとんどない)。もっとも「勝利」に対する執着(競争意識がどの程度か)は、法律や慣習に依存するところ大である。

先ほどの「競争の擁護は、週末に場を移す」とは、競争的な「気晴らし」が週末(休日)でのみ可能という意味だろうか。

 

遊び

遊びは、本質的な満足をもたらすものであり、遊びそのものが一つの目的なのである。

ある活動を行うことそのものが好きだとすれば、結果は問題ではないのである。遊びは「過程指向」を意味しており、「結果指向」とは違って、行為そのものに対して関心を持つことである。「結果指向」は、活動がほかの何らかの目標に貢献するという理由で正当化される。遊びは、まさに仕事とは正反対のものと捉えることができるが、遊ぶこと以外には何の目標ももっていないのである。

仕事は結果が重要である。プロセス(過程)が申し分ないものに見えても、結果を伴わなければ評価されない。慰め(結果を伴わなくても「努力を評価する」と言う)は、次回に期待するということであって、結果が最重要であるということに変わりはない。それに対して、遊びとは、遊びそのものが目的である、つまり結果指向ではなく、プロセス(過程)指向である。この違いは大きい。結果がどうあろうと関係がない。

遊びが結果指向になってしまうか、外部から動機づけられるようになった途端に、遊びではなくなってしまう。

遊びとは、…目を輝かせながら、挑戦するものを追い求め、それをかちとろうとすることである。(遊びの自由内発性

遊びの「自由と内発性」と抽象的に表現してもわかりづらい。それは「目を輝かせながら、挑戦するものを追い求め、それを得ようとすること」であると理解したい。

人間の行動は、何らかの意味でルールに支配されており、一定の構造の中で遊びを行うことができる。

しかし、ルールは、遊び[という行動]が純粋に表現されるための妨げになるかもしれない。ある活動が遊びに近いものになるのは、それがルールに拘束される度合いに反比例する場合だと言えるだろう。

直前で、遊びの自由と内発性を見た。ルールという規制は、明らかにこれに反する(あるいは制約を課す)。故に、「ある活動が遊びに近いものになるのは、それがルールに拘束される度合いに反比例する」と言える。

 

鳥人間コンテスト

笑える動画2つ。…鳥人間コンテストは、「遊び」か「スポーツ」か?

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気晴らし(遊び)と競争

気晴らしが、仕事に似ている主なる理由は、気晴らしがますます競争的になってきていることである。しかしスポーツは、定義上はいつでも競争的なものであり続けた。スポーツは本当の遊びの資格を最初から持っていない。

「遊び」は「気晴らし」と思うかもしれないが、(週末の)スポーツとか諸々のゲームを思い起こせば、「気晴らしが競争的になっている」ことを実感できよう。とりわけスポーツは競争的であり、「遊びの資格を最初から持っていない」と言っても過言ではない。(プロ・スポーツはもちろん「仕事」であるから、ここでは「アマチュア・スポーツ」を指す)。

ここで、「競争」とは、

  • 競争は、いつでもルールに支配されている。
  • 競争を動機づけるのは、承認を求めようとすることである場合が多い。 (p.136)
  • 競争は、卓越したものを求める目標指向を持っている。

これに対して、遊びはルールに支配されていない、承認を求めようとしない、目標指向(結果指向)ではない。だから、ノバックは次のように言う。「遊びは、生真面目なものではないからこそ、行うことができる。生真面目さから解き放ってくれるのである」。遊びは「気まぐれで、いたずら好きで、他人を思いやり、ほんの思い付きが喜びをもたらしくれる」。

スポーツが外部から報酬を受ければ受けるほど、「ますます仕事ということになってしまい、遊びらしくなくなってしまう」。競争にこのような報酬の構造がある限り、遊びとしては不適格である。

オリンピックを見れば「まさにその通り」と言えよう。なお、報酬とは、金銭のみならず「栄誉」を含む。

 

スポーツは、人生を準備する

以下のサドラーの言葉は重要である。

「スポーツ選手は、自分のしていることが遊びではないことをよく自覚している。彼らが実践においてつらい思いをするのは練習試合である。そしてゲームに勝つためには、もっと一生懸命に練習しなければならない。スポーツは、アメリカ流の生活様式からはずれた活動として経験されることはないのである。スポーツは、アメリカ流の生活様式にとってなくてはならないものなのである。……言い換えれば、「スポーツは、人生を準備するのだ」という使い古された文句は正しいのである。……「どんな人生なのか」という問いが投げかけられるに違いない。アメリカの状況を前提にして答えるなら、スポーツは、競争だらけの人生を準備してくれるのである」(W.A.サドラー)

アメリカだけではない。日本はもとより、中国やロシアであっても、「競争だらけの人生を準備してくれる」ものとして「スポーツ」はある、と言っても間違いではないだろう。

「準備してくれる」という言い方では肯定的な響きがあるが、この文脈では否定的な評価をレトリックとしてこのように表現しているように思われる。(原文は知らないので、訳文からそう思った)。

競争を伴う気晴らしは、決して目標指向の活動を中断するものではない。それは、内的な目標を持っている。その目標というのが勝利なのである。そして外的な目標も持っている。それは参加者を鍛え上げることである。鍛え上げて何をさせようというのだろうか。目標指向モデルを受け入れさせるのである。このように、スポーツは遊びとは違うものなのである。

先ほど、「気晴らしがますます競争的になってきている」とあった。従って、「競争を伴う気晴らし」とは、「競争的になってきている気晴らし」の意味だろう。

ここで重要な点は、そのような気晴らしの外的な目標が、「参加者を鍛え上げて、目標指向モデルを受け入れさせる」という目標であるという点である。

スポーツを擁護する人は、スポーツがほかの生活の部分を「中断」させてくれると主張している。スポーツがどんなに不合理なもので、どんなに権威主義的なものだとしても、社会的な空隙[すきま]のところで発生するものだということはわかっている。

ここは(アマチュア)スポーツが、権威主義的であったとしても、仕事の合間の気晴らしの要素を持っているということを言いたいのだろう。

スポーツは、アメリカの社会において支配的な慣習を反映しているだけではなく、それらを永続させていくのである。慣習は、社会化の媒介者として機能し、ハイアラーキーをなしている権力の配置がもつ価値を教え込み、現状を受け入れるように促していく。

ここは最重要な部分である。チームスポーツは、アメリカにおいて(のみならず、ほぼすべての国において)「支配的な慣習」を反映しているだけでなく、「それらを永続させていく」。すなわち、ハイアラ-キー(階層構造)を反映し、永続させる機能を果たしている。階層構造というのは、(ここでは簡単に)上意下達の命令組織、上司と部下の関係と理解しておこう。それは組織メンバーを教育・指導し(鍛え上げ)、「利益」(勝利や栄誉)という「目標」を達成させるための「合理的な」組織である。他企業や他国(他チーム)と競争し、勝利を得なければならないのである。

 

体育教育

子供の競争的なスポーツにおいて強調される価値は、企業の価値と似ている。

スポーツを擁護する人びとが、政治的には保守派に属するのは決して偶然ではない。また、スポーツに対する関心は、アメリカの政治的により保守的な地域ほど高いというのも、偶然ではない。

チームスポーツが、「支配的な慣習を反映し、それらを永続させていく」ものだとすれば、スポーツ擁護者が保守派に属するのは偶然ではない。

若者の教育計画からプロまで、組織的なスポーツは、娯楽、よろこび、自己満足といった遊びの楽しさとは全く関係が無い。逆に、人びとを意識的に社会化させ、……支配的な社会構造を受け入れ、官僚組織における労働者としての運命を受け入れさせる社会的な媒体の役割を果たすのである。興行主がでっちあげる神話とは裏腹に、スポーツは、人間性を表現するための道具などではなく、社会の均衡状態を断ち切ってしまうための手先の役割を果たしているのである。(ジョージ・セイジ)

反論を招きそうな表現ではあるが、若者の教育(小中高の「体育」の授業)が、多かれ少なかれ「支配的な社会構造」を受け入れさせるようとする目的を持っていると言えよう。「娯楽、よろこび、自己満足」を重視する「体育教育」は聞いたことが無い。

アメリカの社会的な(経済的な)システムから見ると、つまり、そのシステムから恩恵を受け、そのシステムを管理している人たちから見れば、そのシステムは人々を互いに競争相手と思い込ませるのに役立つのである。

スポーツ選手は、団結し、みんなで力を合わせて努力する代わりに、敵対的な関係の価値や自然さを受け入れるように極めて意図的に導かれているのである。

チームスポーツを行っているスポーツ選手なら、協力を単に勝利を獲得するための手段とみなすようになり、敵対心や攻撃も正当なものだとみなすようになり、服従権威主義を受け入れるようになってしまうのである。

チームスポーツの選手は、「団結し、みんなで力を合わせて努力」しなければならない。そして他チームとの競争に勝利しなければならない。協力=「団結し、みんなで力を合わせて努力」することは、勝利獲得のための手段である。他チームに対する「敵対心や攻撃」は正当化される。ここに「服従権威主義」を見ることはたやすい。

 

「数値化」という単純思考

競争はランク付けの過程である。1位が誰で、2位が誰というようにランク付けされていく。…競争は、普通どれくらいの重さのものをあげたかとか、何点入ったとか、金額がどれ位だといった一定の尺度と結びついているのである。

競争することによって、ますます量化に依存するようになり、物事を、数で数えたり、計測できるものに還元するというような過程を経て、ある思想家が「単調な心性」と名付けるものを身につけていくのである。こうした現象は、明らかに遊びの領域の向こう側に膨大に広がっている。

遊びは、量化とは関係が無い。遊びは、量化されるような行為ではなく、記録されるようなスコアなど存在しない。

ここで「量化」とは数値化と考えてよいだろう。競争の結果が数値化され、その数値で行動が評価される。しかし、遊びは数値化とは関係ない。

以上は、個人スポーツの非競争的な部分の議論をしていないので、次回に検討したい。

*1:コードとは、法律や、慣習など、人を規制するものである。最初、大地(農地。狩場)の周りに原初的コードができる。次に、外から、強い政治権力が、専制君主国家のコードを押し付けにやってくる。最後に、成熟した国家の内部で、脱コード、つまり取り決めが有名無実化され、細分化され、地域分権や、個人の権利の尊重の方向に、物事が流れてゆく。(Wikipedia)