浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「競争」と「心理的な健全さ」について

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(31)

今回は、第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうかー心理学的な考察 第2節 勝利、敗北、自尊心 の続き(P.180~)である。

「協力は自尊心を高めるのに役立つが、競争はそれとは全く逆の効果をもたらす」と思われるのは何故か?

協力には能力を共有することが含まれるので、より生産性のあがる仕組みになっている。協力がより大きな成功をもたらせばもたらすほど、それぞれの参加者は、自分自身についていい感じを抱くようになる。

協力し合えば、互いに相手に対してより大きな魅力を感じるようになる。自分の成功と他人の成功にプラスの関係があるならば(競争の場合のようにマイナスの関係ではなく)人々は、自分には価値があるのであり、尊重されていると感じるのである。

「協力」すれば相手の良さが見えてくる。そのような経験をしたことがあるだろう。同様に、相手にも自分の良さが見えてくる。「自分には価値があり、尊重されている」、つまり自尊心を高めるのに役立つ。

一般的に言えば、競争においては、たった一人のチャンピオンとたくさんの敗者が生みだされるような構造になっている。他人を打ち負かすことによって自分の存在を証明するように強いられていると感じているならば、他人が勝利した場合には屈辱感を抱いてしまうだろう。他人に負けるというのは、大勢の前で行われるイベントにおいてならばなおさらのこと、最も健全な精神の持ち主にとっても、心理的に大きな打撃を与えてしまいかねない。

「他人を打ち負かすことによってしか、自分の存在を証明できない」と考える(感じる)のは何故だろうか。それは、おそらく幼少期からの「教育」(洗脳)によるものである。そのような教育は、家庭、学校、会社、チーム等、ほとんどあらゆる組織において見られる。

競争の構造とは、少数の勝者と多数の敗者が生みだされる構造ということである。しかし、勝者が優れており、敗者が劣っているということを意味しない。

アメリカのような競争社会においては、何らかの競争に負けてしまい、恥ずかしさと自分に対する懐疑で頭がいっぱいになってしまった覚えのない人など誰もいないのだ。…他人との競争的な出会いには、屈辱感を味わう可能性、自分がダメな人間としてさらし者になってしまう可能性が秘められていることが明らかになってくる。(p.180)

その社会の一定の状況において、あるいはそれぞれの人間によって、勝利することが重要視されればされるほど、敗北することがよりおおきなダメージと破壊的な効果を持つことになるだろう。

自分が「ダメ人間」だと思ったことのない人はまずいないだろう。それは私たちが競争社会の真只中にいるからである。

スチュワード・ウォーカーによれば、「賭けるものが大きければ大きいほど、負けた時の悲しみはより大きい」のである。「成し遂げたことではなく、人々に認められたということが重視され、能力を発揮することではなく、勝つことに重きが置かれる」とき、やがて競争者は「自分が欠陥のある人間であり、負けるのは当然だと思い込んでしまうようになる」。ウォーカーは、失敗が内面化され、負けた自分を敗北者であると認めるようになるプロセスについて語っている。それはゆっくりとしたプロセスではあるが、遊び場においても、競争においても、会社においてもさらには家庭においても絶えず生じているのである。

「能力を発揮することではなく、勝つことに重きを置く」、これが競争社会である。会社(公的組織も同じ)では「出世競争」に勝った者が「勝ち組」であり、地位と名誉とカネを得ることができる。「社会貢献」で評価されることはまずない。「負け組」の屈辱そして諦め。負け組は、自尊心がなくなる。

心理的な健全さというのは、無条件性、即ちどんなことが起ころうと自分が優れた人間なのだという確信が揺るぎないことを意味している。逆に競争においては、自尊心は不確実な競い合いの結果に左右されるのである。こうなると自尊心が持てるかどうかは条件的なものだということになってしまう。せいぜいのところ、自分を再確認し、自信に満ちているという気持ちを持てることが時折あるだけである。心理的な健全さという概念は、何の条件も付けられないで自尊心が存在するということなのだから、「時折得られる」というのでは何にもならない。

自分が優れた人間だと思えなくても「自尊心」は持てるだろう。競争社会において勝者になることが「自尊心」を得る方法ではない。そうではなく、競争社会を超えることによって「心理的な健全さ」を保持し、「自尊心」を得ることが出きる。競争社会を超えるとは、「成し遂げたこと(成し遂げようとすること)」、「能力を発揮すること」に価値を認めるということである。

勝つということは、精神的な健全さを強化するような高い自己評価をもたらしてくれるのだろうか。勝利者にとっては、勝利を手に入れることが、負けた時の悪い影響を相殺することができるものなのだろうか。

勝利により、心理的な健全さが強化されるだろうか。コーンはこのように問うている。

競争的な活動にしたところで、勝利が永遠に続くようなものはないのだから、勝利が本当の安らぎを提供してくれることなどないのである。役員会の議長であれ、スーパー・ボールのチャンピオンであれ、最も強大な軍備を備えた国家における極めて重要な地位であれ、ナンバー・ワンになれば、すぐにでもライバルの標的になってしまうのである。お山の大将は、子どもの遊びだけのものではない。あらゆる競争のプロトタイプ[原型]なのである。…まわりの人々から見れば、その人が再び敗北するのは時間の問題に過ぎないというのが現実なのである。

勝利者(ナンバー・ワン)は、「お山の大将」であり、一時的なものである。一時的に勝利者(ナンバー・ワン)になったところで、安らぎを得られるものではない。

状況によっては、問題は、来年もまた勝たなくてはならないということだけではなく、新しい人々の中に混じって競争していかなくてはならないということでもある。ハイスクールの卒業生総代をつとめた人でも、大学に入った途端に、その地位がほとんど何の価値も持たなくなることに気が付く。プレッシャーを伴った競い合いは、再び最初からやり直されるのである。

勝利は永遠に続くことはない。勝利を目指す競争は永遠に続いていく。

ハーベイ・ルーベンのような競争を狂信している人でさえ、次のように認めざるを得ないのだ、「自分がそれまであこがれていたトップの座についてしまった途端に、……社会的にも、経済的にももっと高い地位にのぼれば、その分だけ目標が遠のいていくことが分る。結局『やり遂げる』というのは、虚しさを得るだけのことが多いことを発見するのは、競争において成功した人が経験する最もショッキングなできごとのひとつなのである。」

かつての勝利者が心の安寧を保つのは、「過去の栄光」にすがることである。しかしそれらが「成し遂げたこと」の証明ではなく、ただ単に「順位」を証明するものでしかないと気付けば、虚しさだけが残るだろう。賞状やトロフィーや辞令を飾り眺めて満足している姿は哀れである。

 

動画「差別について(後編):競争社会を賢く生きる技:必要なのは劣等感ではなく向上心」より

 

動画「差別について(前編):なぜ差別が生じるのか?:差別社会=競争社会」より