浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命倫理学(3) 重度の意識障害者は「人間」か?

加藤尚武『現代倫理学入門』(10)

生命倫理学は、「人工妊娠中絶、重度障害児の出生直後の安楽死(または治療停止)、苦痛回避のための安楽死脳死者からの臓器摘出」といった問題を扱う。「人間とは何か?」が問われている。 

 

加藤は、生命倫理学で主流となっている人格概念を次のように要約している。なお、ここで「人格」という言葉を、「人間」という言葉に置き換えた方がわかりやすい。上記の問題は、「人間とは何か?」が問われているのであって、「人格とは何か?」が問われているのではない。

  1. 生物としてのヒトの生命と、人格の生命とは異なる。
  2. 厳密な意味での人格は、道徳的対応能力をもつ者に限られる。
  3. 可能的にのみ「厳密な意味での人格」である乳児・幼児は、だからといって人格としての権利を有するわけではない。*1
  4. 乳児やある種の老人には、恩恵の原理に基づいて「社会的な意味での人格」が認められるが、彼は権利を有しても義務の負担から免れている。
  5. 人格の範囲の決定要因には、功利的観点も含まれる(重度の障害を持った新生児の場合に、手術や養育の費用が非常に高額になり、家族に重い負担がかかるということも、人格の範囲の決定要因となる)。

 

加藤は、この人格概念(人間観?)の問題点を4つ挙げている。第1、第2の問題点は前回取り上げたが、次のようなものであった。

第1の問題点…現在、能力がないから、権利を認めないというのはおかしい(胎児や乳児やある種の老人)。…加藤は、「権利を能力の現存によって規定するという観念は権利概念の本質に反する」という言い方をしている。(これに対する私見は、前回記事参照)

第2の問題点…決定者が被決定者になり、被決定者が決定者になる循環がある。*2白人/男性/非障害者のみが決定者となり、被決定者となる。黒人/女性/障害者は除外される。

 

今回は、第3の問題点である。

第3の問題点として、「決定の功利性」がある。これは功利性の成り立つ範囲を狭く限定すれば、役に立たないヒトを人格から排除することになり、エゴイスティックな動機の殺人を正当化することになる。しかも、もっとも重要なことは功利性と言う概念と人格の概念とは、もともと関係がないということである。重度の障害児の治療を停止する時、治療を停止するほど症状がひどいから人格を認めないという論理は成り立たない。人格の範囲の決定そのものは功利性から独立に下されなければならない。

対応能力を獲得ないし回復する可能性があれば、高額であるからという理由で治療を拒否することはできない。重度の障害児の場合、人格としての成長の可能性が判断の根拠になるべきであって、治療費の問題は人格か否かの判断の基準にはならない。つまり、治療費が高額であるがゆえに人格性が認められなくなるというのは不合理である。

「社会的な意味での人格の地位をこうした関心に基づいて決定することは、功利主義や結果主義の立場からの配慮によって正当化されなければならない。」(エンゲルハート)

この文章には重大な問題が含まれており、批判的な吟味が必要である。

伝統的な功利性の概念は、人格の範囲は功利性によって決定できないという前提で成り立っていた。人格の範囲そのものは神さまが決定するのである。最大多数の最大幸福という概念は、算定の基準になる「平等な国民」から誰も除外されてはならないという要求を含んでいた。功利主義は「一人の幸福を一人として数える」ことで成り立つのであって、「一人の個人をゼロと数えること」を禁じている。もともと功利主義死刑廃止論と結びついて生まれたもので、生存権の範囲の制限という思想は、功利主義にはなじまない。

「最大多数の最大幸福」という概念は、誰が「最大多数」に数え入れられるかという問題を、元来は含んでいなかった。死刑廃止論者のベッカリーアによって刺激を受けたベンサムの場合には、老いも若きも、大まかな意味でのヒトが、そのまま「最大多数」に算定されていた。「最大多数」の範囲そのものが、「最大多数の最大幸福」によって規定されるから、論理的な循環が生じる。

 

植物状態にある人(以下、植物人間という)を例に考えてみよう。なお、植物状態とは、

思考や運動を司る大脳皮質の働きは失われるが、呼吸、循環など生命維持に必要な脳幹部が機能している状態。正しくは遷延性意識障害。脳外傷、脳卒中などで、年間7,000人も発生。日本脳神経外科学会は、自力では動けず、食べられず、意味のある言葉をしゃべれない、意思の疎通ができないなどの状態が3カ月以上続く場合と定義している。(知恵蔵)

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http://hallyufanclub.up.n.seesaa.net/hallyufanclub/image/new_3C1K8130.JPG?d=a0

 

功利主義は「ある行為なり規則が、社会的に望ましいか否かを、社会全体の幸福によって、決定する」というものであるが、その場合の社会にはどういう人が含まれるのか。植物人間は含まれるのか。もし植物人間が含まれるとしても、その人自身の幸福は測定できない。そこで、仮に植物人間の生命維持装置を外すことが、関係者の(とりわけ配偶者や親族の)幸福を増大させるものと想定される場合、功利主義の観点からは、生命維持装置を外すことが肯定されるだろう。その際、植物人間は、人格(自律的に行為する主体ないし自己意識を持った存在)とはみなされないと解釈することが、罪悪感を持たないための方途である。簡単に言えば、「もはや人間とは言えない」とみなすことである。

加藤は、「重度の障害児の治療を停止する時、治療を停止するほど症状がひどいから人格を認めないという論理は成り立たない」と言っている。しかし、「症状がひどいから人格を認めない」などと言うものはいない。もはや自己意識を持っているとは考えられないからこそ、治療を停止しようというのである。自己意識を持たなくても「生命」である限り、「殺してはならない」と言うのであれば、一切の動物や植物も殺してはならず、人間の生命維持が成り立たない。こう考えてくれば、「自己意識を持った生命」なる概念の意味を明確にすること、意味のある言葉をしゃべることができ、意思の疎通が図れるということが、どういうことであるのかを明確にすることが必要であろう。

加藤はまた、「対応能力を獲得ないし回復する可能性があれば、高額であるからという理由で治療を拒否することはできない」と言っている。「対応能力を獲得ないし回復する可能性」は誰にもわからない。わからないときにどうするのかが問題なのである。

「治療費の問題は人格か否かの判断の基準にはならない」というが、治療費を人格(人間)の判断基準にしている者など、どこにもいないだろう。治療費の問題は、そんなところにはなく、「誰が治療費を払うのか」の問題である。医療技術の進歩により将来治療可能になるかもしれないが、そのような将来の不確実な「可能性」を根拠に、「植物人間」の治療費を「親族」に強制することが妥当なのか、という問題である。もし社会が「可能性」を根拠に、治療すべきというルールをつくるなら、「社会全体」で治療費を負担して(つまり全額「税金」で)治療にあたるべきではないのか。

 

*1:この文章は、日本語がおかしいのではないか。「乳児・幼児は、可能的にのみ「厳密な意味での人格」である」というなら理解できる。

*2:前回記事で、「決定者」とすべきところ、「決定者」と間違っていたので、訂正しておきました。