浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

所有論(1) お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(1)

本書は、稲葉振一郎(1963-)と立岩真也(1960-)の対談(2005)をもとに構成されており、次の章からなる。

 第1章 所有の自明性のワナから抜け出す

 第2章 市場万能論のウソを見抜く

 第3章 なぜ不平等はいけないのか

 第4章 国家論の禁じ手を破る

 

話は、立岩の著書『私的所有論』に対する稲葉の解釈から始まる。(引用は、ですます調から、である調に変更した。)

稲葉の話がわかりにくければ、後半の立岩の話から入ってもいいだろう。

 

所有という根本問題

稲葉 国家や社会を考える上での基礎工事[所有論]をやりたい。所有の話をしておかないと、市場の議論ができない。所有ということなしに市場というのはありえないが、市場のない所有というのは十分考えられる。『私的所有論』では、「人格の同一性*1」とか「自己決定*2」というような言葉で語られるテーマ(生命倫理、医療倫理)が扱われている。議論のしかたとして、私的所有ということの前段階に、より基礎的・根本的なレベルとして、自己決定だとか自己同一性といったものがあって、まずそのレベルの問題を解決した上で、そういう人格の同一性だとか尊厳だとか自己決定といったものを支える私的所有について論じる、というようなタイプの議論をしていない所有というものが根本的なカテゴリーとして議論されている。

「自己決定/自己同一性 → 私的所有」という議論の進め方ではなく、「私的所有 → 自己決定/自己同一性」という議論の進め方らしい。所有が根本的なカテゴリーだというのだが、おそらくここでいう所有とは、「財産の所有」ではなく、「自己の所有」のことだろう。もしそうなら、その自己所有論は、自己決定/自己同一性論と同じことを論じているような気もする。(私は立岩の著書を読んでいないので、稲葉の話からの推測である)

 

いまある仕組みを批判する

稲葉 今日び、全面的に市場というものはダメだ、私的所有という仕組みがあるからダメなんだということはできないというところに我々は来てしまったと思う。そこでどういう批判がなされるかというと、全否定はしない。市場という仕組みは不可欠なんだけれど、人間はそれだけではやっていけない、社会は成り立たないと言ってみたり、人っていうものは本来もうちょっと多様で柔らかいあり方をしているのに、市場とか所有っていう制度は、人をある型(ブルジョワジーとか合理的経済人とか)にはめて、ディシプリン(規律化)してしまうというような議論、つまり市場とか所有の「外部」を強調して、そこを批判の根拠にする。*3

「外部」として代表的なものは2つ挙げられる。①自然環境の問題、②共同性*4(人間というのは共同的存在である)。立岩さんの議論が面白いのは、いわゆる共同性という足場から私的所有の限界や市場の限界を言わない、別の議論に立て方をしているところだ。それはまた逆に、私的所有とか市場というものの全面的な否定はできないということを受け入れているわけだから、批判であり限界づけであると同時に、別のタイプの基礎づけ、普通に行われているものとは別のタイプの私的所有だとか市場経済の正当化論にもつながりうる。

ここでは、立岩が「共同性という足場から私的所有の限界や市場の限界を言わない」というとろを押さえておこう。「共同」を無条件によいものとして、私的市場や市場を批判していないということである。しかし、稲葉の言い回しには若干違和感がある。立岩の議論は、「別のタイプの私的所有だとか市場経済の正当化論にもつながりうる」と評価しているところ。そうなのかもしれないが、立岩の言いたいことはそんなところにはないのではないか。

 

他者から始まる所有論

稲葉 立岩さんのオリジナリティはどこかというと、議論が所有する能動的な主体から始められるのではない、というところが第一のポイント。先取り的に話せば、その議論の仮想敵はジョン・ロックだ。ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』におけるような(日本では森村進)、雑駁に言えばロック的な所有論が一つの所有論であり、所有の正当化の理論である。所有する能動的な主体から始めて、なぜ所有という仕組みができてしまうのかというメカニズムの議論をやるし、また所有という仕組みは基本的には良いもの、正しいもの、あるいは不可避なものであるというふうに正当化する。立岩さんの議論は違うベクトルを持っていて、意表を突いたかたちで出してくる。理論の主人公は、所有の主体(所有者)ではない。働いて何かを得る、獲得したものは自分のものであって、自分のコントロール下に置く、というのがロック=森村流の所有理解だが、こういう所有の主体が理論の中心ではない。理論の語りの主体は、ものが落ちてるときに、「拾ってラッキー」じゃなく、「誰の?」って考えちゃうような主体である。所有の主体というものが、理論の主人公としてではなく、まずは理論の主人公にとっての他者として現れる。理論の主人公が所有の主体となるのは、そこから反射的に、つまり「他者にとっての他者」と位置付けられることによってである。

「所有する能動的な主体から始める」とは、財産なり能力を所有する主体が、市場に参加するところから始める、ということだろう。財産なり能力がどのように獲得されたのか、そこを不問にするのは、おかしいのではないか。

 

政治経済の基本要素

立岩 市場経済云々の前に、所有が先に考えるべき問題としてある。市場に参加するとして、みんな手持ちのものがないことには交換できない。問題は交換する手前のところで各自が何を持っているかである。誰が、最初に、どういうものを、持っていて良いということになっているのか、という問題こそが基本的な問題である。市場に参加する時に、各自手持ちに何をもって参加するか。社会というか、経済というか、あるいは政治に関わる部分で、基本的な要素として、所有というものがある。

立岩は、はっきりと言っている。「誰が、最初に、どういうものを、持っていて良いということになっているのか、という問題こそが基本的な問題である」。市場での交換を「経済」と呼ぶなら、経済以前の所有がまず問われなければならない。この所有の話(「能力」の所有を含む)を、経済学とするか、政治学とするか、倫理学とするか、生物学とするか、どうでもよい。でも、ここをスルーしちゃダメでしょうというのは、直感としてある。

 

私有に対する別の私有

立岩 所有に対して所有のない状態とか、私有に対して私有じゃない共有であるとか、そういうふうに考えなくてもいい。所有に関する規則がない社会状態…物がかなりふんだんにあって、皆があまり欲張りじゃなくて、それで「これ欲しいんだけど」と言ったら、「まあいいんじゃないの」みたいな感じで、なあなあで物事が決まっていって、それで何となく流れていく社会というのは、ありえなくはないわけで、あったっていいし、それはそれなりにいい。だけど、それはいくつかの条件によって支えられて、そういう条件がちょっとずつ厳しくなるとそうも言ってられない。これは誰のもんだってことを決めなきゃいけない。決めないと喧嘩が起こる。喧嘩より決めた方がいい、そうだろうか、といった話になってくるんだけど、そういうごちゃごちゃした話は今は措きます。これはAさんのもの、これはBさんのもの、と世界のものを分ける決まりはたぶん要るだろう。問題はその分け方だ。別の決まりの方がいいんじゃないか。

ぼくは一人一人がある範囲の財について、不可侵のというか、この財についてはぼくにまかせといて、他の人はあんまり何か言わないでっていう、そういう意味で、一人一人に財が属することを否定していない。ぼくが批判しているのは、我々の社会における私有のあり方だ。もう一つ、私有に対する国有だが、今ある所有の決まり[私有]じゃないものはすぐ国有ということになるかというとそうじゃないだろう、そうじゃないいろんなアイディアが考えられるだろうということ。

「なあなあで物事が決まっていって、それで何となく流れていく社会」って、ホント理想的な社会に思える(空想的社会主義?)。「物がふんだんにあって」という前提条件があるのだろうが、私たちが考えなければならないのは、「物がふんだんになくても」、皆があまり欲張りにならなくて、みんな仲良く暮らしていける方策を考えることだろう。

立岩は「そういうごちゃごちゃした話は今は措きます」と言っているが、私はそういう「ごちゃごちゃした話」が聞きたい。後で出てくるのか、それとも別のところで言っているのか。

「世界のものを分ける決まり」というときの、「世界」に何を含めるかによって、おもしろい議論ができるような気がする。

私は、理念としては「国有」を重視しない。それは「共有」の一種だ。私有と共有の概念を深化させること、それが「所有論」の課題であるように思う。

 

「みんな」を起点にした議論の限界

立岩 共同性という「みんなの」というところから、「私の」というものを批判するという視座というか起点として、「みんな」「共同」というものをどう考えるか。

かつて――歴史的な過去というより、むしろ理論的に想定される部分でもあるが――みんなが一緒に働いていて、その中で「これが私」「あれが私」といった観念がない、そんな状態のもとでは、みんなのものがみんなのものという状態であった。…[このような]共同性みたいなものを唯一の起点としてものを始めるという議論はしないほうがいいんじゃないか。もしかすると本当は別様にぼくらは考えてるんじゃないか。

みんながみんなのために、みたいな状況って、まああるかなと思うんだけど、でも人間が一人ひとり個別の身体を持っていて、少なくとも見かけ上、AさんとBさんと身体が分かれている。例えばみんな一緒に狩りに行ったって、Aさんは早く走れて槍を投げるのもうまくって、獲物を取れたり、でもBさんは身体が動かなくて、やっぱのろまでって、見ればわかる。そうすると、そこの中にも個別性ってあるわけだし、みんながみんなで、だからみんなのものはみんなのもの、っていう話って、そんなに最初からそこからいきましょうっていう話はできない。

例えば「みんなのおかげ」とか、ぼくはあんまり言いたくない。みんなのおかげで生きていく人もいるだろうけど、みんなのために死んでいく人もいる。そういうことを考えると、「みんな」「みんな」って言ってていいのかな、という気がする。

歴史的な過去ではなく、「理論的な過去」という考え方が面白い。「原初状態」とほとんど同じ意味なのかもしれないが、「理論的な過去」というほうが分りやすい。

立岩は、共同性(みんなのものはみんなのもの)から議論を始めるべきでないということを、非常にやさしい言葉で説明していて説得力がある。

 

批判・否定のしかた

立岩 ぼくらの社会ってどういう社会なのか。どういう所有のあり方をよしとしているのか。結局、生産した人が生産したものを取って来てきていいということになっている。実際は複雑だが、ベースの部分として、そういう決まりというか、そういう観念があって、それでいいのだという価値がある。なぜ社会がそういうふうに組み立てられているのか、なんでそれが正しいということになっているのか。それは誰が言っているのか。

ロック(『市民政府論』)を読んで、ああここに書いてあると思った。ロックの話はものすごくシンプル。私の身体は私のものである。私の身体を使って生産したものは私のものである。概ねそれしか言ってない。

ぼくが言ってることはシンプルなこと。私の身体は私のものであるということと、私の身体によって生産したものは私のものであるということは命題として違う、ということである。その二つをつなぐロジック、根拠が示されないと、それは正当化にも何にもなっていない。ロックは根拠を示していない。初期のカントやヘーゲルも同じ。ノージック森村進も同じ。論理として穴が開いているし、正当化に成功していない。

シンプルである。下図のように、A→Bは言えない。私は、ノージック森村進も読んでいないが、この穴を埋めていないのだろう。

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分けてしまえばよいもの/分けられないもの

立岩 直感的に言えば、たくさんできる人がたくさん取れて、少ししかできない人が少ししか取れなくて、全然できない人が全然取れない社会よりも、だいたい暮らすために必要なものを、みんなが一人一人受け取れた方がいいなと思う。同時に、ではあらゆるものをみんなで分ければいいのかと言えばそうでもないわけで、譲渡できない、あるいは譲渡すべきでない、分割したり分配したりするのでもないものもまたあるだろう。生命とか。何を分けるという話と、何は分けちゃいけないんだという話と、両方うまい具合につなげて、不整合がないように一つの話の中でどう言えばよいのか。

自分にとってどうにもならないか、どうにもなるんだけどどうにもしないか、そういうものの方が人間にとっては大切であって、考えてみれば私たちの身体もそういうものである。だから、その身体はその人のものであると。ちょっと何かひっくり返ってますけれども、そこから考えていったら、例えば私たちの社会であれば、自分が自分から切り離して市場に供するようなものっていうのは、逆にむしろ誰のものであっても良い。私のものであると言わなくても良いようなものだ。つまり、その部分については分配が可能であり、またなすべきでもあると言えるんじゃないか。

だいたい暮らす、このフレーズいいねぇ。あくせくしない、虚栄を張らない、贅沢をしない、他をはねのけない。…「市場」がそこにあって、そこに参加する「経済人」の活動がすべてであるかのような錯覚を抱いているとしたら、これは不幸なことだ。

 

ふと、こんな言葉が浮かんだ。

お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの ジャイアン

 

類型

  • スネ夫に漫画を返してくれないと抗議され)「いつおれが返さないと言った? 永久に借りておくだけだぞ!」
  • (どちらの主張が正しいか考えずに)「正しいのは、いつもおれだ!」
  • 「この町で俺にかなうものはいない。俺は王様だ。さからうものは死刑! アハハ。いい気持ちだ」 (以上、wikipedia

 

歴史上のジャイアニズム

  • 織田信長…武将や大名が良いもの(茶器、鷹、刀、時には配下まで)を持っていると、横取りした逸話に事欠かない。
  • 新政府軍…「江戸幕府のものは元々朝廷のもの」と主張して明治維新を引き起こした諸勢力。どうみても勝者サイドの一方的な言い分なのだが、建国神話を引き合いに出して自分達こそ絶対善だと正当化した。その価値観を未だに崇敬する者も多い。
  • スターリン共産主義の名の下に他国を支配下に置き、中央アジアや東欧を皮切りに、極東では北朝鮮やモンゴルなどを服属して各地で粛清と称した大虐殺を行った(北朝鮮が今の状態になった一因ともされる)。大東亜戦争終結のドサクサに紛れて北方領土を日本から奪い取って未だに返還しない。
  • 中華人民共和国…台湾、チベット内モンゴルなどを「自国領」と主張し続けている。(以上、ピクシブ百科事典

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*注釈は本書の編集部が作成

*1:人格の同一性…人が生涯を通じて同一人物であり、ほかの人とは違うのはなぜか。…その根拠を身体の同一性に求める「身体説」と、記憶に求める「記憶説」とが対立しあい、様々な思考実験が生み出されている。

*2:自己決定…近代社会の基本的な原理といえるもので、「自分自身にかかわる事柄を自ら決定すること」。倫理学の世界で問題になるのは、とりわけ自己の生命・身体(安楽死、臓器売買、売春など)や家族の形成(出生前診断、選択的妊娠中絶など)に関する自己決定の当否である。

*3:外部の問題…例えば、環境経済の分野での汚染という問題に関しても、炭酸ガス排出税とか、ゴミに関してもチケット制にするとかいう議論で、市場の外部にあるものを内部化しようというタイプの議論がメインストリームである。それに対して、内部化しきれない外部ってあるんだよという形で、市場の限界、所有の限界ということを指摘する議論が多い。

*4:共同性…物質的富や精神的価値を共有すること。一方には生産者としての人間の共同性を掲げる共産主義があり、他方では民族など個を超えた集合的価値への帰属を強調するナショナリズムがある。