浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

疑うべきか、はたまた、疑うべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(12)

文脈主義の考え方の続きである。文脈主義とは何であったか。

文脈主義とは、あることを知っているかどうか、ある主張が妥当かどうか、といったことについての判定は、その判定を下す文脈(何のために判定するのか、判定が間違っていた時はどうなるのか等)によって変わりうる、という立場である。言い換えれば、同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でもないとも判断できる、と言う可能性を認めるのが文脈主義である。

この文脈主義には2つのタイプがあって、

  1. 関連する対抗仮説」型…ある問題についての複数の対抗する主張の中で、ある主張が最も優れているということが示されれば、その主張を妥当なものとみなす。[対抗仮説のより分け]
  2. 基準の上下」型…要求される確実さのレベルを文脈によって上げ下げし、それに見合った証拠が得られればその主張を妥当なものとみなす。[基準のレベル設定]

 

伊勢田は、この文脈主義の考え方にたいする疑問に答えている。

Q:そもそも文脈主義を採用することに意味があるのだろうか。結局疑わないのだったら、最初から疑わないのも、デカルト的懐疑を経て文脈主義にたどり着くというコースで疑わないのも同じではないだろうか。

A:文脈主義を経て疑わないという決定をした場合、「自分が何を疑わないことにしたか」に自覚的になることが出来るという大きな差がある。夕立の例で言えば、「その瞬間だけ夢を見ていたのではないか」といった極端な対抗仮説は、確かに日常の文脈では疑う理由はない。そんなことまで疑うと何も話が進まないので、いったん検討しても放棄されることになるだろう。しかし、何かの理由でこの仮説を疑ってみる必要が出来たときには、こうしたプロセスを経ておけば、この仮説を疑わないという決定をすぐに覆して柔軟に対処することができる。

これはつまり、文脈主義を意識的にとれば、文脈の選択そのものについても、CT(クリティカル・シンキング)ができるようになるということである。普通は文脈の選択はまったく無意識になされる。どういう仮説が関連する対抗仮説なのか妥当だと認められるのにどの程度の基準をクリアする必要があるのかといったことについては、われわれは日常的には考えたりしない。しかし、だからといって対抗仮説のより分けや基準のレベル設定を意識下においてしていないわけではない。そして、ここが大事なところであるが、一歩下がってよく考えてみたら、本当は排除すべきではない対抗仮説を排除してしまっていたり、本当はもっと厳しい基準が必要な時に甘い基準で判断してしまったりしているかもしれない。無意識にやっている間は、そもそもそういう問題設定をすることすらできないが、文脈主義をとることでこれが可能になるのである。 

 「文脈の選択」というと難しい感じがするが、「関連する対抗仮説」と「基準の上下」というキーワードを覚えておけばいいだろう。

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シリア北西部イドリブ県の反政府勢力地域で4日(2017/4/4)に毒ガスによって多数が死亡したことをめぐり、ロシアは反政府勢力が所有する化学兵器から生じたものだと主張した。(http://www.bbc.com/japanese/39499388) 

日本人が日本政府の発表を信用するのと同程度には、ロシア人はロシア政府の発表を信用するのではなかろうか。各々の政府の発表を疑うべきか、はたまた、疑うべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ。*1

 

文脈主義によって得られるのは、一言でいえば、懐疑主義が提供する「疑う技術」を補完する「疑わない技術」である。不毛な懐疑主義を避けるためには、「何を疑わないか」という決定が重要である。しかし、疑わないという決定にもそれ相応の理由がいる。例えば、「それを疑うとCTの生産的な作業そのものができなくなる」とか、「それについては皆の一致がとれているので疑う必要がない」といった理由がこういう場合に使えるだろう。文脈主義という立場を背景に据えるなら、そうした理由で何かを疑わないと決めてもデカルトに対して引け目を感じる必要はない。こうして疑わない技術を駆使した懐疑主義こそ、「ほどよい懐疑主義」である。

疑うことは重要である。しかし、不毛な懐疑主義に陥る可能性がある。そこで「何を疑わないか」という決定が重要になる。そして「なぜ疑わないのか」の理由を提示できるようにする。そうすれば、伊勢田の言う「ほどよい懐疑主義」は、有効なテクニックであるように思う。但し、これで合意が得られる保証はない。

 

次回から、第4章「価値観の壁」をどう乗り越えるか である。実は、私が本書をとりあげたのは、この章があったからである。伊勢田の考えに賛成できるかどうかは、読んでみなければわからないが…。

 

(注)タイトルは、To be, or not to be, — that is the question  の矢田部良吉訳:ながらふべきか 但し又 ながらふべきに非るか ここが思案のしどころぞ より

*1:「ほどよい懐疑主義」の議論で、このような事例は適切ではないかもしれない。ただ、マスコミの報道は、偏向することがありうるので、ある程度の「疑い」を持ってかかることが必要だろうという(単純な理由で)とりあげた。次のNHK NEWSWEBの記事(米のシリア攻撃受け国連安保理が緊急会合 米ロが対立)を参照されたい。