浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

国家の責任

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(24)*1

稲葉は、「国家には、社会的に不利な状況に落ちた人、社会的弱者に対する責任はない」という。

本当に国家に責任はないのか

立岩 例えば、誰かが脚を折ったとか、その結果これこれがあって、というレベルで言えば、確かに誰もその意味での加害者がいないようなことって多々ある。それはそれで事実その通りだ。ただ、分配なら分配の規則がこうあっていいだろうという状態というか、こうあっていいだろうという原則というか原理をいったん措いた場合に、ここまでの暮らしはできるはずなのに、実際にはそういう仕掛けになっていない、あるいはそういう仕掛けを作っていないということが言えたりする。そのことにおいてそれは不正であるというか、ある意味危害を加えているということは出来る。

 「社会的に不利な状況に落ちた人、社会的弱者」に対して、「それは、あんたの自己責任だ」(野垂れ死にしようが知ったことではない)といって突き放すのか、それとも「私たちが共に生きるこの社会において、そういう不利な状況に落ちた人、社会的弱者に援助の手を差し伸べる。そして、不利な状況に落ちる人や社会的弱者が生じないように、社会のしくみを変えていく」ように努める。どちらが望ましい態度であろうか。私は、後者を採るが、それは、「不利な状況に落ちる人や社会的弱者が生じないように、社会のしくみを変えていくことが、私たちの責任である」と言い換えることができる。そして「国家」が、「独裁者の国家」ではなく、「私たちの国家」(民主国家)であるならば、「私たちの責任」は「国家の責任」であるといってよい。

「責任」という言葉に引っ掛かるならば、使わなくても良い。要は、不利な状況に落ちる人や社会的弱者が生じないように、社会のしくみを変えていきたいと考えるかどうかである。私には、そのように考えない人というのは、他者を人として認めない倫理的欠陥人間のように思える。

 

稲葉 やっぱり国家には、個別の人の不幸には責任を負えない場合も当然ありうるということですね。但し、確率論的にある種の人々が不幸に陥ってしまうことに対しては、しばしば責任を負っている、それは連帯責任で何とかカバーしようというロジックに、ドゥウォーキンの議論は解釈していくしかないのかな、と。個別のことに関しては誰も責任を負っていない、だから国家が負っているわけではないのだが、しかし、そういう不幸な人たちが大勢いる社会はよくないよと思っているからこそ、国家はこういうスキームを作っているはずである。あんまり不幸な人がたくさんいるんだったら、責任はやっぱり国家あるいは国家を作ったみんなに、その限りでは個別に自分の不幸には責任がないその人でさえも、自分をも含めたたくさんの人が不幸に陥っている社会にほんのちょっとの連帯責任の一端を負っているということになるのかしら。

私は、稲葉を「倫理的欠陥人間」であるとは考えていない。稲葉は、「不幸な人」を何とかしたいと思っているからこそ、「保険組合」の話を持ち出しているのだろう(たぶん)。…「不幸な人」を生みださないように、社会の仕組みを何とかしたいという思いがあれば、そこから出発すべきではないだろうか。

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https://e-hinseiri.com/blog/7075

 

立岩 ただ保険組合の正当性の根拠をどこから引っ張ってくるかというのはいくつかあって、それは一つの論点だと思う。でも今の話は、個別とか、そういう人がたくさんいるとかそういう話には直には関らないはずである。そういう人が一人しかいなくたって、その人がこういうシステムのもとではこういう暮らしができるはずなのにそれができないことは不正だっていう言い方は依然として成立し得る。

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。(憲法25条)…国が、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなかったとしたら、国には「不作為責任」があるとは言えないか。

稲葉 ただそうなんだけど、やっぱり不正だっていうだけで投げちゃわずに、だからその人には補償を請求する権利があるし、補償する義務がなんだかしらないけど、国家だか共同社会にはあると言わないとドゥウォーキン的な議論には意味がないわけで、そのときに責任の意味に横滑りが生じていないか、その横滑りをきちんと腑分けした上で、じゃあ横滑りじゃなくて何とかいくよというふうにしないと、みんなが納得する議論にならないなあと。

「ドゥウォーキン的な議論」とか「責任の意味」とか、そんなことを言っていてもしようがないと思うのだが…。

立岩 横滑りっていうのは、いまいち分かるような分からないような……

稲葉 だから、国家がその人を少なくとも個別的にはひどい目にあわせていないと。でそこをうまくクリアーする理屈として今のところ思いつくのは、その人個別の不幸に責任がないとしても、そういう人たちがたくさんいるとしたら、そういう人たちがたくさんいる社会環境を作ったことには責任があるというか、国家はできるだけそういう不幸な人が少ないようにするし、たまたま自分の責任なしに不幸に落っこちゃった人にできるだけのことをするという責任は、まあ当然帰せられるだろうというくらいには言えるだろうと。しかもそういう国家を立ち上げるというふうにみんなが共同事業として関わっているんだったら、一人一人には連帯責任があって、その連帯責任には、個別には自分の不幸に責任のない人もその一端は背負っていると。ただ背負っているんだけれども、短絡すると危険なことは、例えば「その不幸はお前が注意したら避けられたことだ」というのは筋違い。犯罪の場合はまさに自分に責任がない例としてあるわけだが、犯罪の被害にあうことには当然その被害者は定義上責任があったら困るわけだ、法的には。あんた注意したら避けられたじゃないという類の議論は可能なんだが、そのときにその人が負っている責任というのは全然意味の違う責任であって……。

 同じ話を繰り返して、稲葉は結局何が言いたいのだろうか。…「不幸な人たちが何故生まれるのか? 不幸な人たちが生まれないようにするにはどうしたら良いのだろうか? 不幸な人たちが生まれたら、私たちはどのように手助けすればいいのだろうか?」といった問いをなぜ発しようとしないのだろうか?

 

責任を問うことの不毛さ

立岩 言っていることはわかるけど、それはやっぱりさっきのドゥウォーキン流の話に戻っていく。自分に責任がないから請求する権利があるということに関して言えば、論理的にそこに飛躍があるんじゃないかという指摘は可能である。自分に責任がないことについて自分がその結果を背負わなくてよいということは一般にわりわい了解されうる話だとは思うんだけれども、ただ、ぼくの議論は、その人に責任がないから請求できるというような仕組みの話を積極的にしようというようにはなっていない。

本人に責任があろうが無かろうが、人間として「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことが困難な状況にあれば、助けようと思うのが、社会のなかで生きる人間として当たり前のことではないか。

立岩 責任があるかないかって、結局わかんないっていうことになるじゃない。…結局本人の有責な部分と、そうじゃない部分と分けて、その結果本人に有責でない部分に関しては社会がっていう話をしていくわけだ。 

 「本人に責任がなければ社会が助ける。本人に責任があれば助けない(自己責任」というのが、稲葉の主張なのだろうか。

立岩 ぼくはそういう話の組み立て方をしなきゃいけないとは思わない。その理由の一つでもあるんだけれど、それをどうやって仕分けるのと言ったときに、何かしらの恣意性が起こらざるを得ない。本人の責任なのかそうじゃないのか、こいつは働きたいんだけど働けないのか、働けるのに働いていないのかみたいな、今のニートがらみの議論とも関係するような、ある意味せせこましいというか気詰まりな議論になってしまう。だから自分の責任でないがゆえに請求する権利があるという話をベースのところでは取らなくてもいいんじゃないかというところがぼくにはある。ドゥウォーキン流の、あるいはもっとたくさんの人々がそういう議論をしていると思うけれど……。

「働けるのに働いていない。そんな奴にはカネをやるな」という意見に賛成する人は多いようだ。こういう意見をどう考えるか。私は、こういう意見にいきなり賛否を問うのではなく、「働けるのに働いていない」ようにみえる状況(事実)の解明があるべきだと思う。そのような事実の究明とその評価の議論なしに、安直な自己責任論で片づけるような話ではない。

稲葉 例えばピーター・シンガーなんかも明らかにそう。責任があろうがなかろうが、ひどい目にあっている人のことは、何とかできるものなら何とかしたほうが良いのは当然だろう、という理屈である。シンガーのような功利主義者は「権利」にこだわらないから、「責任」にも縛られない。

今度はシンガーか。

立岩 だから、ぼくから言わせれば無駄な労力というか、こいつのせいなのか、こいつの努力が足りなかったせいなのか、はたまた社会のせいなのか、そういうようなことはベースの部分で言えば問わないほうがいい。それを社会的な分配を正当化する議論の根っこのところに置く必要はないだろう。

社会的な分配の正当化の議論に、自己責任論は採用しない。

稲葉 似たような話は福祉国家の問題だけじゃない。…イギリスの民法学者のアティヤは、…事故でひどい目にあった人を救済する仕組みとしての損害賠償には根本的な問題があって、むしろそれだったら広い意味での社会保険、犯罪だったら犯罪被害者の保険があると。社会的事故一般に対しても責任のある奴に対しては責任を取らせることが大切だけれども、それと被害者、ひどい目にあった人の救済とは分けて考えていい、むしろ分けて考えていいんじゃないかということを、よりによって民法学者が言っているってのも面白いなと思う。

今度はアティヤを引き合いにだして、同じ話を繰り返している。

 

法的に呼び出される国家

立岩 悪いことをした、加害行為をした、それに対して何かしらの罰というか責任の取らせ方は必要だろう。それと、それによって生活の困難が生じることと、生活に困難が生じない方が良いということは分けて考えたほうがいいと思う。相手からの加害行為によって生活が困難になった人であれ、はたまたそうでない理由で生活が困難になった人であれ、理由を問わずにというか、あまり詮索せずにそこの部分でやればよろしいと。悪いことをした奴は、悪いことをしたことに関して何かしらの制裁を科せられる。

例えば、労災認定(労働者の失敗によるケガでも労災と認められる)と会社の責任(安全配慮義務違反等)追及は別物である。

 

稲葉 それはそれで非常に意味のある発想で、だからこそ例えば民事と刑事が分離してきたということがあるんだけれども、そしたら逆に、今度は刑事裁判の対象になるような領域において、それこそ被害者救済ではなくて、犯人とされている者をとっ捕まえて、制裁を加えることに焦点があって、被害者救済は刑事司法の範囲外だという逆の問題も生じてきている。そういう問題状況を見たときに、一つ非常に素朴な問題として次のことがある。やっぱり我々責任という言葉で物事を理解してしまい、それこそ責任がないのにひどい目にあってしまった人を救済しなければというのは道徳感情の根本にあるわけだが、しばしば責任を取る相手がいなかったり、いたとしても責任を取らない、取る能力がないということがある。我々がイメージの中で国家に求めるニーズの一つに、誰も責任を取らないときに責任をとってほしい主体として求めてしまうということである。そこのところに往々にしてやってきちゃうのが国家かな、というイメージが一つある。

稲葉は「責任がないのにひどい目にあってしまった人を救済しなければというのは道徳感情の根本にある」というが、私は「責任があってもひどい目にあってしまった人を救済しなければというのは道徳感情の根本にある」と思う(例えば、労災)。

稲葉は「誰も責任を取らないときに、国家を責任をとる主体として求める」というが、私なら「責任があろうがなかろうが、ひどい目にあった人がいれば、私たちは、彼を手助けするようにルールを定める」と言う(例えば、労災)。

 

立岩 だけど、それに関しては、ぼくは、誰も引き受け手のない加害の最終的な罪の担い手としての国家という議論は採らなくてもいい。その感情はわからんでもないけど。例えば、公害病であるとか、これこれしかじかの仕掛けを作っておけば加害は防げたはずなのに、しかじかのことをしなかったことについてそれは責任があるだろうということは言える。それ以外に、本当に誰にも責任の取りようがないことっていうのはある。それはあるとしか言いようがない。

立岩は公害の例を出している。私は水俣病の検討で、国と県(公務員)の責任についてとりあげているので参照ください。(「水俣病」でブログ内検索してください)

 

稲葉 理不尽な悪というのは明確にあって、それにも我々は責任や救済を求めてしまう。

立岩 被害者の感情としてはあり得るのかもしれない。けれど、そのときに、残りの一切合財の袋みたいなもの、サンドバッグみたいなものとして、国家みたいなものを作っておくというか想定しておくというのは、かえって何かしらの実体というか妙な存在としての国家というものを……。

稲葉 それはわかる。それは国家を神格化することになる。理由のない悪というものの根拠を求めるとしたならば、それは神か悪魔にいきつかざるをえない。逆にそれを裏返しにして理不尽な理由のない善ってあるわけであって、それは宗教的には恩寵というかたちで語られてきたものである。子どもが生まれてくる……

 理由のない悪??? その根拠??? 理不尽な理由のない善??? 恩寵???

 

国際秩序について

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https://fbreporter.org/2015/07/07/genocide-the-british-dont-want-you-to-know-about-they-systematically-starved-to-death-over-60-millions-of-eastern-indians/

 

稲葉 そうすると国際秩序の問題はどうなるっていうことが出てくる。国際秩序の世界で有責な国家が責任を取ろうとしなかったら誰に責任を取らせるかといったら、国際共同体かと。国際社会という謎の主体が立ち上がらざるをえないけど、国際社会の立場を体現する超国家は今のところ存在していない。 

 「有責な国家」で何を想定しているのだろうか。国際連合やさまざまな国際機関、さらには「条約」についてどう考えているのだろうか。「国際社会という謎の主体」という言い方で、これらが全く存在しないかのような物言いは果たしてどうなんだろうか。何を問題にするのかを抜きにして、一般論で語ることはできないだろう。

立岩 実際の機構が存在しないだろうというのはもちろんその通りである。そして例えば世界政府とか言うと、なんかひどく間抜けな感じだが、やっぱり話は、そこはきちっと分けて考えるべきだろうと思う。少なくとも分配のことに限れば、世界全体を見たときに、この位の状態でオッケーだというのは言える。それでいいだろうという状態と、現実とを比べていったときに、これだけの差があるといったときに、その差をよりマシにできる人々、と漠然と言うが、世界の中のどのくらいの割合かはともかくその人びとは、そのことに対して有責である、義務があるということは言えるはずだ。もちろん、実際にはそんな法はないけれども、義務と責任が存在するということは言えるはずである。

格差と貧困の話は、もちろん一国内だけの話ではない。世界政府が存在しないから何もしなくても良いということにはならない。国家エゴを良くないものと認識するところから始めなければならないのかもしれないが……。

立岩 分配の域・範囲を限ることは正当化もされない。…限ることで分配はうまく作用しなくなる。そうすると、広いシステムがあったほうが良いという話に必然的になる。一気にやろうたってできることではないだろうが、国家単位ではなくて国際的な範囲で医療保険をやったほうがいいじゃないという案がある。けっこういいかも、とかぼくは思っているんだが、例えばそんなことも考えられなくもない。 

 何でも「国家単位」で考えるクセは改めたほうがいいだろう。さまざまなレベルのコミュニティを考えた場合、国家は一つの中間段階のコミュニティであるにすぎない。

立岩 そして財の分配の話と、個々の固有の生活の流儀であったりは、分けられない、分けるのが難しい面も多々ありながら、当座分けられると思う。分配と文化の多様性というか生活の流儀の多様性というのは、ほとんどの場合、両立させられるだろう。なおかつこの場面では、国家は大きすぎるかもしれない。そしてまた、地理的な境界として区分けをするべきかどうかという問題も出てくる。そういう意味で言えば、分配する単位としては小さすぎるし、それ以外の部分においては大きすぎるか少なくとも不適切だと言えるはずだ。国家に対してはそういうところからものを考えていくのが良いだろう。

立岩は「分配と文化の多様性(生活の流儀の多様性)というのは、ほとんどの場合、両立させられる」と言うが、分配と文化の多様性の関連がよく分からないので、両立すると言われてもどういう意味であるかよく分からない。

少なくとも原理的な話としては、「国家」と言う単位で物事を考えない方がよいだろう。

なお、「生活の流儀の多様性」という言い方は、「文化の多様性」というよりも、はるかにいい。

*1:稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(13)の(13)がダブっていましたで、1ずつずらして、今回は(24)にしました。