浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

相互了解と合意の形成

平野・亀本・服部『法哲学』(38) 

今回は、第4章 法と正義の基本問題 第6節 議論 の続きである。議論の理論は、民主主義を考える場合の最重要なテーマである。なお、今次衆院選により改憲勢力自民党公明党希望の党日本維新の会)が、国会発議に必要な3分の2(310議席)を上回った結果、改憲の動きに拍車がかかるだろう(自民党憲法改正草案発表済)。こういった状況を念頭に置きながら、「議論」について、今後も考えていきたい。

前回(理性的議論の条件-理想的発話状況、原理整合性、普遍化可能性)は、次のような話であった。

  • 単に話し合い(議論)をすればよいというものではない。相互了解合意の形成をめざして話し合う(議論する)ことが大切である。
  • 話し合うということは、「正しい」と言えることを見出していく共同の試みである。
  • できるだけ公正な仕方で議論を尽くし、共同して得られた結論としての合意内容を、暫定的に正しいこととして受け入れる。
  • 合意による暫定的な「正しさ」は、状況の変化により、あるいは同種の別のケースにおいて形を変えながら、引き続き繰り返し議論される。[議論されねばならない]
  • 議論は、相対立する見解が共有できる理念なり正義観なりにまで下り立って[遡って]一致できる点を探し求める過程であり、そこには、架橋し難い溝を埋め、克服し難い対立を克服する可能性が秘められている。[架橋し難い溝、克服し難い対立があるようにみえても、真摯に(相互了解と合意の形成をめざして)話し合うことができれば、共有できる理念なり正義観を見出すことが出来る]
  • 外部からの作用によって議論が妨げられたり、内部的に強制があってはならない。
  • 議論参加者が各々独自の利害関心なり人生目標を持っていること、それぞれが等しい判断能力・責任能力を有する自律的人格の主体であることを、相互に認め合い尊重し合うこと。
  • 主張は、できる限り共通の論拠ないし共有の知に基づいて行うべきである。
  • 共通論拠としての原理に依拠することにより、議論に共通の地盤ができ、その解釈に争点が絞り込まれることによって、合意に向けて、議論の前進が図られうる。
  • 自らの主張が単に自己中心的な主張ではなく、また特定の利害関係にのみ関わる主張でもなく、普遍化が可能であれば、理性的な議論として、相手にそれを受け入れることを求め得る。
  • 理想的発話状況(理性的議論のための理想的な条件、ハーバーマス

  ① いつでも討論を開始したり、継続したりできること。

  ② 主張について、説明や正当化、あるいは異議の申立てや反対論証がなされること。

  ③ 各人が自ら正しいと思うことを、偽りなく誠実に述べること。

  ④ 主張と反論の完全に対等な機会が保障されていること。

さて、話し合いは(議論)は、いろんな場面で行われるが、ここでは「政治・経済・社会」問題に関する議論に限定して考えることにする。自然科学や芸術や宗教や哲学に関する議論(真理や美に関する議論)は考慮しない。それゆえ、ここでの議論は「相互了解と合意の形成」をめざす。また「正しいと言えること」を見出していこうとする。

 

法的議論

以上のように、相互了解合意の形成に向けて理性的に議論がなされるためには、議論プロセスを公正にするということと議論内容をより合意に近づけうるものにするということが、必要条件として説かれていることになる。こうした理性的議論の条件、そしてその背後にある手続的アプローチの考え方、これらは、法に関する私たちの理解にどのような視野を開くであろうか。まず、法制度がさまざまな議論のルールを定め、理性的議論の制度化を図ってきていることは事実である。立法や裁判の手続、行政上の政策決定の手続など、手続的な規範はもちろんそうであるが、憲法民法、刑法などの実体的な法規範も議論の拠り所として、また国会法や裁判所法など、いわゆる組織規範も議論の場と機会を定めるものとして、等しく議論のためのルールであるとみなすことができる。手続的なルールは、法の支配の下で、権力的な歪曲にさらされることなく可能な限り、議論に参加する当事者の対等性を保障しようとする。実定法とその解釈論は、法原理を明らかにすることによって、法原理という共通の基盤の上に公共的な議論を成り立たしめると同時にそうした議論に重要な資源を提供している。また、法的議論の機会を定める組織規範は、例えば議会や裁判に見られるように、公に対して開かれた公式の公共的議論の場を設定し、理性的議論がなされうる環境条件を創出していると言えるであろう。

政治・経済・社会に関する公共的な議論を、理性的に行うために、「手続的な規範」、「実定法」、「組織規範」が、議論のためのルールを定めているとみることができる。これをもって、理性的議論の制度化が図られているとするわけだが、これは非常に大切な点であると思う。一般に、コミュニティにおけるルールの制定・改廃を考える場合に、特に「手続」、「組織」がどうなっているかを確認しておくべきであろう。

しかし、法的議論は制度化によって、一定の限界を持っていることも明らかである。理想的議論状況のように十分な合意が得られるまでどこまでも限度無く議論を続けることは出来ないし、議論の過程でどのような主張ないし反論をしても、またどのようなことを問題にしてもよいということにはなっていない。参加者の限定、主題の限定、多数決、あるいは公判期日、事実認定、一事不再理や既判力の及びうる範囲など、制度的限定がある。あくまでも法が許す限りでの議論であり、法が与える枠内での取り扱いである。しかし、他面ではそれが具体的な問題を1つ1つ決着させ、次の議論につないでいくという法的議論のメリットにもなっている。法的議論が「実践的議論の特殊事例」であると言われる理由はそこにある。

(1)「十分な合意が得られるまでどこまでも限度無く議論を続けることは出来ない」…議論の時間が無制限にあるわけではない。十分な合意が得られないままで、結論を出さなければならない場合がある。一方は議論が尽くされたと言い、他方は不十分だという。このような場合、通常「多数決」で採決されるわけだが、少数派にとっては、これは「強行採決」になる。…いま「十分な合意が得られないままで、結論を出さなければならない場合がある」と言ったが、これについても、「いつまでに結論を出さなければならないか」に関して意見が対立する。例えば、予算編成スケジュールにあわせるためだったりする。ということであれば、いつまでに結論を出すという議論がまず必要である。ここでも意見の対立があるかもしれないが、おおかたの問題については合意が得られるのではないかと思われる。

(2)「議論の過程で、どのような主張ないし反論をしても~」…議論は「おしゃべり」ではなく、ある(政治・経済・社会問題に関する)テーマについて、理性的に議論しようというのであるから、「相互了解と合意の形成」をめざそうとしない者は、議論に参加する資格はないといってよいだろう。またそのテーマに関して「ある程度」の知識(判断能力)がなければならないだろう。したがって、参加者を限定しないのが望ましい(理想的議論状況)とは必ずしも言えない。しかし、実際にどのように参加者を限定すべきかはかなり難しい。これも議論のテーマとなる。(この点は、「直接(参加)民主主義」を考える場合には留意しておかねばならないだろう)

(3)「議論の過程で、~どのようなことを問題にしてもよい」…議論は、ある(政治・経済・社会問題に関する)テーマについての議論だから、無関係のあるいは関連の薄い問題をとりあげるべきではない。そうは言っても、問題というのは、孤立して存在しているわけではない(複雑な因果連鎖の一部を特定視点から切り取って問題化したものである)から、問題はいかようにも拡げられ(関連が薄いようにみえても、それは根本的な問題であるかもしれない)、議論に収拾がつかなくなる恐れがある。それを避けるためには、コーディネーター(調整役、進行係)が(いればの話だが)主題を限定する必要がある。ここではコーディネーターの能力(中立性)が問われる。

(4)「多数決」…全員が合意できない場合、多数決で決定しておしまいというものではない。少数意見の取り扱いに関するルールが必要だろう。例えば、「見直し条項」を定めるとか、周知徹底期間を長くとるとか、経過措置をとるとか、少数意見を記録にとどめるとかである。

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議論と法

また、法が様々な形で議論の制度化を図っているということをこえて、法がそもそも議論的なものであるということまで言えるかもしれない。法が議論的なものであるというのは、手続的規範にせよ実体的規範にせよ、本来、利害が対立し討議が行われる議論状況の中から形成されてきたものであり、異論のありうるところに合意の上で一定の線を引いてきたものに他ならないからである。法規の修正なり改廃が必要となる場合は、法規の基礎にある法原理に関する議論によって、社会的必要があり新たな合意が確認されれば、線の引き直しができる。基本的人権として、自律的人格に対する公正な配慮と尊重が定められているのは法的過程に参加し得る主体の確保を目的としている。また判決理由にみられるような法的議論の形式も、重要な争点について相対立する主張を整理し、一定の判断に異議を唱えている、あるいは唱えると思われる主張に対して法的に基礎づけられた説得的議論の試みと理解することができる。これらのことは、法が本来議論的なものであるからだと言っても良いであろう。

単純な例で言えば、消費税8%は「異論のありうるところに合意の上で一定の線を引いたものである」、そしてこれを10%にするというのは、「線の引き直し」である、ということか。

 

法的制度化の問題

少し前に、「法制度(手続規範、実定法、組織規範)がさまざまな議論のルールを定め、理性的議論の制度化を図ってきていることは事実である」という話があった。しかし平野が以下に挙げるような事柄を考えてみると、議論のルールの制度化にはなかなか難しい面があるようだ。

理論的にいかに理想的な議論の状況が描き出されるとしても、実際上それをどのように制度化できるかが大きな問題になる。例えば、理想的発話状況で規定されたような当事者の立場の完全な対称性はいかにして確保されうるか。単に主張と反論、論証と反証の機会が等しく与えられるだけではその条件は満たされない。弁護人依頼権、証明責任の公平分配など、議論能力の平等化と議論に伴う責任分担の平等化が必要になる。また議論の資源の面でいうならば、情報が公開されることが理性的な議論の不可欠の条件になるであろう。

議論の参加者とはどういう人か。先に「議論参加者が、各々独自の利害関心なり人生目標を持っていること、それぞれが等しい判断能力・責任能力を有する自律的人格の主体であること」という話があった*1。なお、ここで「等しい」というのは、「等しく」と解し、「それぞれが判断能力・責任能力等しく有する自律的人格の主体であること」とすべきだろう。しかし、この判断能力・責任能力がどの程度であるべきかは明確ではない。どの程度の能力が必要とされるかは、何が議論されるかによって異なるので、テーマ毎に参加者が限定されることになるだろう。例えば「国債発行」の是非を議論しようという場合、議論の参加者は誰か、誰であるべきか。「いじめ問題」を議論しようという場合、どのような場で、誰がどのように議論するのか、いじめ被害者の親はどういう立場で参加するのか。誰が「判断能力・責任能力」を有しているのか。誰がそれを判定するのか。このような例を、ちょっとでも考えてみれば、「参加者」の問題は決して単純なものではなく、それを制度化することには困難が伴う。

平野は、ここでは「裁判」という場における議論のルールの制度化について述べている。平野は、「議論能力の平等化」から、弁護人依頼権の話にもって行っているのだが、これは当事者が法律知識を持たなければ(能力が無ければ)、議論(裁判)に参加できないので、代理人を立てるという話である。また「議論に伴う責任分担の平等化」から、証明責任の公平分配について述べている。裁判については後述。

 

あるいはまた、議論が理想的に展開されるためには、外的・内的な障害から自由でなければならない。しかし、裁判の独立保障、裁判手続の保障など、制度化によって外的な強制力による障害を取り除くことはある程度できるとしても、内的な障害から自由にすることは難しい。例えば、議論の中に入り込む社会的権力関係や権力構造の影響、同調圧力や異質なものを排除する傾向、あるいは恨みや恥ずかしさなど人間の情念の影響などである。そうした影響が理想的な議論を歪め、本当の意味での合意が得られにくいような状況を作り出すことをどのように防ぐことができるのかが問題になる。

何らかの利害対立が生ずるような議論においては、外的な障害つまり社会的権力関係の影響は避けがたいように思える。人は何らかのコミュニティに属し、何らかのポジションにある。そこには様々な力が働いており、その影響を受ける。だからそれを取り除こうとするのではなく、影響を認めたうえで、議論のルールを考えなければならないと思う(これは今のところ抽象的に考えているだけだが…)。

内的な障害つまり人間の情念の影響も無視できない。いくら理性的に議論しようと言っても(最初は理性的に議論していても)、ちょっとした言葉や態度が相手の怒りを買い、冷静な議論ができなくなることがある。二人だけであれば、ここで議論は打ち切りとなるが、多数であれば誰かが仲裁に入ることが期待できる。先ほどコーディネーターの話をしたが、ここでもその必要がありそうだ。

権力関係にせよ、情念の影響にせよ、コーディネーター(調整役、進行係)=公正・中立な第三者が必要であるように思う。しかし通常このような公正・中立な第三者を確保することは難しい。一方当事者がこのような第三者と契約する(カネを払う)ようであれば、いかに「有識者」であっても中立性は確保できない。

 

手続による正当化の問題

先に述べたように、法的正義の問題を議論プロセセスの問題として考えるところに議論の理論の特徴があった。判断や決定の正しさを実体的かつ直接に問題とするのではなく、議論の過程を公正にすることによって、得られた合意を暫定的ながら正しいこととみなすという、正義問題への手続的アプローチであった。従って、手続あるいは議論のプロセスが定められた通り公正に行われたことをもって、結果の正しさを推認させる。つまり、結果の正当性の問題を、全面的に手続の充足の問題に転換し、結果としての合意内容の良し悪しを不問に付し、批判を免れるという可能性があって問題になるのである。

手続の正しさが結果の正しさを保証する純粋な手続的正義のケースはある。例えば、ケーキを2人で分ける場合に、2つに切った人に後の残りを取らせるといった場合である。しかし法的議論においては、第1の制度化の問題とも関連し、必ずしも完全に公正と言える過程条件を制度化することは不可能である。理性的な議論の制度化が不完全である場合には、結果として得られる「理性的合意」の理性性ないし正しさそのものが、手続の問題とは別個に問われなければならない。手続の正しさは結果の正しさの必要条件ではあっても十分条件とは決してなりえないのである。従って、結果の正しさを問題にする実体的議論が改めて必要になるであろう。

 「できるだけ公正な仕方で議論を尽くし、共同して得られた結論としての合意内容を、暫定的に正しいこととして受け入れる」…これは大事な点だ。しかし、「結果としての合意内容の良し悪しを不問に付し、批判を免れるという可能性」がある。手続が正しいから(例えば、多数決で決めたから)、多数派は「合意内容の良し悪し」を今後一切問題にしないという態度をとる。つまり、合意内容を良い(正しい)ものとして考え、「暫定的に正しい」としたことを忘れる(無視する)のである。したがって、「暫定的に正しい」としたことをルール化する必要が生ずる。

 

以上で、第6節 議論の話は終わりだが、ひとつ飛ばしたところがあり、それについてふれておこう。平野は「議論プロセスとしての法」という項で、「法が議論的なものであれば、法システムそのものを議論の過程にあるものと捉えることが出来る」と述べ、例として「裁判」をとりあげている。

裁判では、公開の法廷において、公正な手続きに則り、公共的関心の高い争点について、当事者が対等に、背景的合意としての法規範ないし法原理に依拠しつつ議論を展開する。裁判官は両当事者の主張に基づき、同様に背景的合意に依拠しながら、当事者および公衆一般に対して、理性的合意として納得してもらえるような内容の判決を下す。判決は合意の所産として、法システムに新たな要素を付け加えることになる。このような理想的な議論の要素を構造化している裁判を法システムの核心部分に位置づけることによって、法システム全体を「対話的合理性」が制度化されたものとみるのである。

私には、裁判が、「理想的な議論の要素を構造化している」とも、「法システムの核心部分」とも思えない。裁判が、相互了解と合意の形成に向けて理性的に議論する場であるとは思えない。したがって、また法システム全体を「対話的合理性」が制度化されたものとみることはできない。それは、あまりにも法システムを美化しすぎており、欠陥に目をふさぐもののように思える。

*1:前回記事(理性的議論の条件 - 理想的発話状況、原理整合性、普遍化可能性)の「理想的発話状況」の項参照。