気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

「自己複製(増殖)に含まれる矛盾」から「生命世界」が開かれる?

木下清一郎『心の起源』(19)

今回は、第3章 「世界」とは何か 第4節 自己矛盾から世界は開かれる である。本節で主張されていることは、「自己複製(増殖)に含まれる矛盾」から「生命世界」が開かれる、ということであろう。これはどういう意味だろうか?

 

3つの矛盾からの帰結

木下は前節で「自己複製に含まれる矛盾」を3つ挙げていた。(おかしな要約かもしれないが、よく理解できていないので、ご勘弁を)

  1. 自己複製が「自分と同じものを作りだす」ということであれば、その始まりはどこまでも遡れるので、「いつまで経っても自己増殖の始まりにはたどり着けない
  2. 系が完全であるとは、いま系がおかれている環境においてであって、不測の原因で環境がわずかでも変動したときには、この系が変化できないというまさしくその理由から、消滅してしまうほかない。即ち、系の完全さは系の存続を保証しない
  3. 生物世界が矛盾を含んだ系であるというのは、それが置かれている物質世界が無矛盾であるとしたときに、はじめて言われる。しかし、物質世界の無矛盾を証明すべき手立てはない。とすれば、自己増殖の由来を完全に説明しきることは不可能である。

この矛盾から、次の帰結が導かれるという。

第1の矛盾→不連続点

第2の矛盾→自己展開の可能性

第3の矛盾→系を公理として理解する

物質世界のまだ前に何があったのかは知る由もないが、少なくとも物質世界から生物世界が生まれてくるときのことを考えてみると、自己矛盾の具体的なあらわれとして、自己増殖がおかれているようにみえる。

即ち、偶発的にあらわれてきた自己触媒による自己増殖というかたちの自己矛盾が、それまでの体系とは不連続な別の体系をつくり出し(第1の矛盾から)、その体系は独自の自己展開の道を限りなく進まざるを得なくなった(第2の矛盾から)と言えよう。しかもこのことは公理として理解するほかない(第3の矛盾)という性格を持っている。

ここまでは、前回までと同じことを言っているようだ。しかし、よく分からない。

「自分と同じものを作りだす」と言うが、「もの」が「素粒子の集合」から構成されているとして、ある「もの」が別の「同じもの」をつくり出すことはありえないように思われる(異なる素粒子だろう)。素粒子の流れがあって、ある集合が、「同型」の別の集合を生成しているようにみえる事態を、「自己複製」と称しているだけではないか。だから、ここに矛盾があるとは思えない。(もっとも、「素粒子」と言い、「素粒子の流れ」とは言っても、物理学の素養が無いので、素人考えで言っているに過ぎないのだが…)。

木下は、解明されない事態(ものごと)を、「不連続点」とか「公理」という言葉に言い換えているだけのような気がする。

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霊・魂(神秘主義・神学)までいくと、ちょっと胡散臭い。

 

入れ子」としての世界

一つの世界とは統一のとれた体系であって、そのなかで矛盾があってはならない。もしそこに自己矛盾が発生したとすれば、とるべき道は二つしかないであろう。一つはそれを切り捨てることであり、もう一つはそれを「入れ子」にして、新しい別の世界として包み込んでしまうことである。いずれの方法によっても、古い世界の安寧は保たれる。万一、新しい世界が崩壊したとしても、それは「入れ子」としての世界の範囲にとどまり、古い世界にまで及んでその秩序が揺らぐことはないからである。

「一つの世界とは統一のとれた体系であって、そのなかで矛盾があってはならない」というのは、一つの観念だろう。なぜ不統一であってはならないのか。なぜ矛盾があってはならないのか。それは、世界を「数学的な無矛盾な世界」であってほしいという願望ではないのか。

木下の言う「入れ子」がどういう意味なのかもよく分からない。「入れ子」としての新しい世界=生命世界が崩壊しても、物質世界が崩壊することはない、というようなことをイメージしているのだろうか。

しかし、新しい世界においても自己矛盾はやはり自己矛盾であるから、新しい世界のなかでそれを説明しようとすれば循環に陥るほかない。従って、これは公理にしておかざるを得ないことになる。生物世界の始まりで、自己増殖を説明しようとしても同義語反復に陥ってしまうのは、この理由からであろう。新しい世界を認めるとは公理系を認めることにならざるを得ないのは、そうしてみれば必然的な要請であったといえよう。

「新しい世界を認めるとは公理系を認めること」とは、「なぜと問うてもわかんないよ。そうなっているのだから、そういうものだと受けとめよう」ということ以上の意味があるのだろうか。

ともあれ、私たちにとって自己矛盾とはふつうには負のイメージがつきまとい、あってはならないもの、少なくともあって望ましくはないものとして受け取られてきた。しかし、このようにみてくると、自己矛盾のないところとは平坦ではあっても、何らの発展もないところになってしまう。物質世界にせよ、生物世界にせよ、いままでみてきた世界は矛盾にみちていた。これから足を踏み入れようとしている心の世界も、恐らくそうであろう。私たちは自己矛盾を避けるのではなく、むしろ自己矛盾のあることのなかに積極的な意義をみいだすことこそ、世界を生きていく道があるのではなかろうか

ここで立てた仮定は次のようなものであった。

(8) ある系が自己矛盾を抱えたとき、そこを基点として新しい公理系が生まれ、その公理系は独自の展開を遂げる。

木下は先ほど、「一つの世界とは統一のとれた体系であって、そのなかで矛盾があってはならない」と言っていた。ここでは「私たちは自己矛盾を避けるのではなく、むしろ自己矛盾のあることのなかに積極的な意義をみいだすことこそ、世界を生きていく道がある」と言う。これは「矛盾」した物言いではないかと思うのだが、それはさておき、「自己矛盾のないところとは平坦ではあっても、何らの発展もないところになってしまう」というところには、木下の価値観があらわれているように思える。「平坦」は望ましくはなく、「発展」が望ましいと言っているように聞こえる。これを「生物世界」に限定したとしても、生物世界の「発展」が望ましいとは、いかなる意味なのかは、自明なことではない。