浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

草履虫に、「心」はあるのか?

木下清一郎『心の起源』(20)

抽象的な話で、言葉遊びに終わらないためには、例えば、「草履虫に心はあるのか?」というような具体的な問いを持っていることが必要だろう。抽象的な説明であっても、そのような問いに答えうるものなのかの観点からみていけば面白いかもしれない。

今回は、第4章 心のはたらく「場」である。

心の世界を取り扱うには、心の働く「場」としての枠組み構造と、「働き」としての情報の処理とを分けて考える必要があるように思う。「場」と「働き」がどういう関係にあるのかは、まず生物世界での両者の関係を見ることから始めて、次に心の世界ではどうなっているのかに進む。

第1節は、 世界の「場」を考える である。

生物世界の枠組み

生物世界が開かれることになった発端は、核酸という個性をもった高分子が出現し、それが自己複製の能力を備えたために(原初の核酸)、それぞれの個性の複製が可能になったことであった。核酸分子の個性とはそれぞれの塩基配列の独自性をいっている。しかし、高分子が出現したことも、それが自己複製能を持ったことも、いずれも物質世界の法則にしたがって起こったことで、それ以上のものではなかった。

「個性」というと、「ある個人を特徴づけている性質・性格。その人固有の特性。」(大辞林)と理解するかもしれないが、ここにいう「核酸分子の個性」はもちろん人間を前提していない。「塩基配列の独自性」である。

ところが、核酸分子の自己複製能がいったん発揮され始めると、それらの間には自然淘汰が働くようになる。自然淘汰とは、核酸分子のある一つの存在様式(つまり個性)が、それとは別の存在様式(別の個性)によって否定されるということで、これは物質世界には今までなかったことであり、ここから新たに生物世界が開かれたとみなすことが出来るというのが、これまでの主張であった。つまり、生物世界が開かれることになった原因は、核酸という高分子が分子の個性という今までになかった特性を持つようになり、しかもその個性を自己触媒によって複製していくという、今までになかった機能を持ったことに胚胎するというのである。 

 ここでは「個性」を「核酸分子のある一つの存在様式」という言い方をしている。

核酸分子の自己複製能がいったん発揮され始めると、それらの間には自然淘汰が働くようになる」という。これは分からない。なぜ自然淘汰が働くようになるのか。核酸分子のある一つの存在様式が、なぜ別の存在様式によって否定されることになるのか。塩基配列Aとは異なる塩基配列Bが存在したとして、A、Bは共存できないというのだろうか。

塩基配列の独自性と自己増殖により、生物世界が開かれることになったというが、分からない。ここに「物質」とは異なる「生物」をみる(考える)のはなぜか。「石ころと生き物は違う。生き物の特徴は、自己増殖にある。」という以上のことを言っているのだろうか。

「物質の流動により、独自な塩基配列と同型なものが生成された」とは言えないだろうか。渦の生成のようなもの。ここでは未だ物質であり、生物は出てこない。

こういう考察から次のように結論付けることが出来よう。即ち、生物世界が開かれるべき場としての「枠組み」と、その場で営まれる「働きそのもの」とをはっきり区別するのはなかなか難しいけれども、あえて分けてみるならば、自己複製能を持った核酸分子(つまり遺伝子)が現れるところまでが「枠組み」の形成であり、自己複製能の発揮から後のことが「働きそのもの」の関わる場面となるというわけである。この位相の移行は極めて微妙なものであって、そこに物質世界の裂け目があることを見過ごしてしまいがちであるが、もし生物世界の始まりを求めるとするならば、その原点となるところはここにしか見いだせない。

よく分からないが、こういう見方もあるのかなとは思う。

 

心の世界の枠組み

この関係をこころの世界に移してみるとどうであろう。心の働く「場」というなら、それは本来なら脳の神経回路を指さねばならないであろうが、残念ながらそれについては現在でもよく分かっていない。従って、この部分をブラックボックスにしたまま少し先へ出て、そのなかで情報が動き出したあたりから検討を始めるより仕方がないのはやや不本意ではあるが、ブラックボックスの解明は将来の問題とするほかはない。これを生物世界でいえば、ちょうど原初の核酸の構造を棚上げにして、それが働きだして自己複製能が現れるあたりから話を始めたことに似ている。原初の核酸の構造も現在のところブラックボックスのままである。

本章の冒頭にはこうある。

心を考えるとき、神経系、なかんずく脳を無視するわけにはいかない。心を脳の中に開かれた世界と考えたとき、脳は心が働く場になっている。ところが、脳は生物の器官の一つであって、発生に伴って遺伝子の設計どおりに作られている。すなわち、脳を心の働く場として見る限り、それは生物世界に属しており、それを超え出ることはできない。

人間の脳をイメージしないようにしよう。生命(生物)のどの段階で、脳(神経細胞)が形成されるのか。

脳の神経回路はよく分かっていない。そこをブラックボックスにしても、何か言えることがあるとすればそれは何であろうか。

草履虫に脳はあるか? 草履虫に心はあるか?

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http://protist.i.hosei.ac.jp/PDB/Images/Ciliophora/Paramecium/caudatum/intactcells/sp_04.jpg

 

心の世界がもし生物世界を超えるとするなら、それは心の「働きそのもの」にこそ道を見出せるのではないか。そういう期待をこの先に残しながら、この章ではまず心の働く「場」の様子をできるだけ探っておきたい。それはつまり、枠組みの限界をまず見極めておいてから、その限界の中で営まれる働きを調べようとするに他ならない。いわば舞台装置を作っておいてから、役者の登場を待とうとするのに似ている。

生物世界は物質世界だとは言えるとしても、心の世界はとても物質世界だとは言えないような気がする。

ところで、もし心の世界が開かれるとするなら、それは記憶の成立を契機としてであろうことは、すでにこれまでの検討であきらかにしてあった。恐らくこの辺りが心の世界の「枠組み」と「働きそのもの」との微妙な接点となっているのだろう。しかしそれを直ちに記憶の成立から解きほぐそうとしても、記憶というだけではあまりに漠然としていて手が付けにくい。こうしてまず手始めとして、記憶が成立するための条件や、記憶の成立によって新たにどういう条件が生じてくるかといったことから、検討を始めねばならなくなった。これは心の働く「場」と「働きそのもの」との境界すれすれの問題で、一部ではすでに「働きそのもの」にもふみこんでいるところもある。

「記憶の成立を契機として、心の世界が開かれる」と言われても、もっと詳細な話を聞かないと何とも言えない。この後に説明があるだろう。