久米郁男他『政治学』(10)
今回は、第5章 国家と権力 第2節 近代国家とその正統化原理 である。
2013年以降、強行採決が以下の通り行われた。(Wikipedia)
特定秘密保護法(2013年)
安全保障関連法案(2015年)
TPP承認案、関連法案(2016年)
介護保険関連法改正案(2017年)
働き方改革関連法案(2018年)
参議院定数6増法案(2018年)
強行採決とは、「国会などで与野党による採決の合意が得られず、少数派の議員が審議の継続を求めている状況で、多数派の議員が審議を打ち切り、委員長や議長が採決を行うこと」(Wikipedia)である。
多数決ではあるが強行採決で成立したこれらの法律には、正当性または正統性があるのだろうか? これらの法律は遵守しなければならないのだろうか?
正当性と正統性とはどう違うのか。大屋雄裕による以下の説明が明快である。(本書には説明がない)
- 特定の判断が「正しい」か「正しくない」かを問題にするのが「正当性」(justness)である。
- 具体的な決定が「正しい」権限に由来しているのか、「正しい」手続きによって形成されたかといった点を問題にするのが「正統性」(legitimacy)である。*1
私はこれを、「内容的正当性」と「手続的正当性」と呼んだほうが分りやすいと思う。(「統」の漢字は、「正しい」権限に由来しているのか否かを重視した漢字であろうが、現代の民主政を問題にするのであれば、「統」は適切ではないだろう)
このように分析の道具を準備するのは何故かというと、民主政の抱える課題をこの《正統性の根拠》という面から考えることができるからである。つまり、民主政とは基本的に多数による少数の支配であり、多数による決定に対して敗れた少数派はつねに不満を抱えることになる。多数派の支える政府の決定を「正当」だと思わない彼らが、しかし政府の命令にしたがう根拠があるとすれば、それは「しかしそれでもこれが政府の合法的な命令には違いない」という正統性だと考えられる。
「民主政の抱える課題をこの《正統性の根拠》という面から考えることができる」とは、「政府の決定が、手続的に問題がなかったかどうか(正統性の根拠)という面から考えることができる」という意味だろう。
政府の決定内容に不満のある(内容的に正当ではないと考える)少数派が、当該決定に従うのは、決定に至るまでの手続が妥当である(手続的に正当である)と考えるからである。
正統性を支える根拠が失われたとき、少数派はそれでも政府にしたがう義務があるとは考えず、穏やかにはサボタージュや市民的不服従、激しくは反乱・革命・独立運動といった実力行動に訴えて自ら「正当」だと信じるところを実現しようとするだろう。
正統性を支える根拠が失われたとき=手続きに瑕疵があるとき、市民的不服従には一定の合理性があると考えられる。
それが正しいかどうかは別にして少数派が正統性を疑う理由のありそうな社会、たとえば法的な人種差別が維持されていた時代のアメリカを考えれば、そこで黒人たちが政府の決定にしたがうべき義務があると考えるかどうかは疑問だということになる。
これは「法にしたがう義務」、遵法責務を支える根拠の議論に等しい。…重要なのは、いずれにせよ《内容的な正しさ》はここに入ってこないということだ。(大屋雄裕、https://synodos.jp/politics/1645)
現在読書ノートでとりあげている『法哲学』のコラム17で、「正当性と正統性」の説明があった。
正当性と正統性とは異なる概念である。…いずれも、規範、または規範に従う根拠に関わる。ここでは、規範とは、命令・禁止・許可を指示するものと考えておいてよい。
正当性は、規範の内容の正しさに関わる概念であり、何らかの観点または基準に照らして、問題となっている規範が正当である、あるいは正当でないという。
正統性とは、規範または規範発令者への服従の根拠に関わる概念であるが、それは規範内容の正当性以外の「正しさ」の根拠に関わるものである。規範が不服従の場合の制裁を恐れるという動機がからのみ服従される場合は、その規範は正統性を欠いている。しかし、それ以外の場合は、規範は、服従者から見た何らかの(規範内容から独立の)「正しさ」の要素を含むものである。…
現代の民主主義社会において最も重要な正統性は、民主的正統性であり、議会の法律が多くの国民の声を反映して制定されたかどうか、少数派を排除することが無かったどうか、また行政や司法は民主的な立法にどの程度拘束されるのか、ということが問題にある。(平野・亀本・服部『法哲学』、pp.100-101)
正統性=手続的正当性を問題とするということは、最後の赤字にした部分を問題にするということである。
さて本書はどういう説明をしているか。最初にヴェーバーの「支配の3類型」について、続いてハーバーマスとルーマンについてふれている。現代の民主政においては、ヴェーバーの「合法的支配」の説明が参考になるのかもしれない。
その結果(ヴェーバーは社会科学の方法論として、可能な限り事実と価値を分離すべきであるという立場にたっていた)、近代社会に顕著な支配の正統性としての合法的支配は、法の内容の正しさを正面から問われることなく、もっぱら形式的・手続的合理性(「目的合理性」)の側面にスポットライトが当たることになる。ニヒリズムの時代の空疎な正統性論である、という批判がなされる所以である。
空疎な正統性論と批判する者は、形式的・手続的合理性の重要性を考慮していない。これは、事実と価値の分離の話とは別だろう。「内容の正しさ」と「手続の正しさ」の両方を追求しなければならない。なお、支配とか服従の用語は、現代の民主政においては適切な用語ではないと思う。支配は、法に基づく業務執行、服従は、法の遵守と言い換えたほうが良いだろう。
ハーバーマスの正統性論は、
手続きそのものをより厳密なものとすることで、手続的正義を実現しようというのが議論の道筋である。具体的には、その意思のある者であれば、誰もが支配から自由に自らの意見を表明できる「理想的発話状況」を備えていることが、支配の正統性の条件だというのである。即ち、理性的なコミュニケーションを通して形成された合意だけが、普遍的に適用可能な法規範を根拠づけ、支配の正統性となるというのである。
「理性的なコミュニケーションを通して形成された合意」こそが、問題の焦点である。言い換えれば、「理性的なコミュニケーションを通して合意が形成されるためには、いかなる手続きが必要か?」を考えることである。
こういったハーバーマスの正統性論にも、批判がないわけではない。そもそも彼の主張するような理想的発話状況が現実に実現可能か、また仮にそうだとしても理性的な討議を尽くせば何らかの合意を生みだすと決めてかっていいのか、といった批判が代表的なものであろう。
これは疑問の提起であって、批判ではない。ハーバーマスのいう理想的発話状況を「理想的」と考えるのか否か、「理想的」と考えるなら、現実に実現可能とするために何が必要かを考えるべきであり、「理想的」ではないと考えるなら、何故なのか理由を説明しなければ、批判にはならない。
ハーバーマスの正統性論に対する批判の急先鋒としては、ドイツの社会学者ルーマンによるシステム論的正統性論がある。ルーマンの議論は、ヴェーバーが合法的支配というカテゴリーを通して析出した形式的・手続的合理性の問題をシステム論的に精緻化したものと見ることができる。それによれば、何らかの決定がなされるとき、それが当事者の利害状況や信条とは無関係に、ただ政治システムの自己正統化のプロセスに則って、いわば自動的に承認されるとき、はじめて社会秩序は安定する。この自己正統化のプロセスとは、まさに近代において確立した法の制定プロセスである。実際、ルーマンは近代の実定法こそ最も完成度の高い正統性調達のためのシステムだとみなす。正統性は、政治システムそのものが法的手続きを通して自己言及的に生み出すものにほかならず、システムの外部(例えば、ハーバーマスのいう「理想的発話状況」における徹底的な討議)から正統性を調達しようというすべての試みは失敗する、というのである。
この説明ではルーマンが何を言おうとしていたのか分からない。最初のアンダーラインの部分の「自己正統化のプロセス」に「法の制定プロセス」を代入すると、「何らかの決定がなされるとき、それが当事者の利害状況や信条とは無関係に、ただ政治システムの法の制定プロセスに則って、いわば自動的に承認されるとき、はじめて社会秩序は安定する」となるが、「政治システムの法の制定プロセスに則る」とは意味不明である。また「何らかの決定が…自動的に承認される」も意味不明である。二番目のアンダーラインの部分も何を言おうとしているのか分からない。「理想的発話状況における徹底的な討議」が、「政治システムの外部」だと言うのも意味不明である。ルーマンの議論を勉強していないので何とも言えないのだが、この説明ではルーマンの言わんとするところを伝えていないように思われる。
ルーマンのシステム論的正統性論にも批判があるという。
ルーマンの議論は、通常の決定プロセスによって形成される政策に不満を持ち、政治システムへの異議申し立てをデモやストライキのような議会外の直接行動で展開することで、政治体制の正統性を根本から問い直そうとする運動を、その理論的枠組みから排除してしまう、と[批判者は]言うのである。
政策内容や政策決定手続きを批判することが、「政治システムへの異議申し立て」に相当するのかどうかは不明である。デモやストライキのような議会外の直接行動が、「政治体制の正統性を根本から問い直そうとする運動」なのかどうかは不明である。それにしても「政治体制の正統性」とは、どういう意味なのだろうか。
今後とも自由民主主義体制が十分な正統性原理を市民に提供し、その支持を獲得し続けるか否かという問題は、相変わらず重要な問題であろう。
と、本書は言うが、「自由民主主義体制が、十分な正統性原理を市民に提供する」とは、どういう意味だろうか。ここまでの説明では、全く理解できない。
https://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/97b7ad9f69839225f9008daf422b53ae
冒頭に「強行採決」の例を挙げた。『法哲学』の引用部分を再掲する。
現代の民主主義社会において最も重要な正統性は、民主的正統性であり、議会の法律が多くの国民の声を反映して制定されたかどうか、少数派を排除することが無かったどうか、また行政や司法は民主的な立法にどの程度拘束されるのか、ということが問題にある。
「強行採決」という言い方は、少数派の言い方であり、多数派は「審議は十分に尽くしたので、採決した」と言うだろう。多数派にとっては「強行採決」ではない。論点は、審議が十分に尽くされたかどうかである。この審議に関して、現在どういうルールになっているのだろうか。
議案に充当させる審議時間の配分や審議の順番など議事日程は、議案ごとの均等割ではなく、議案ごとに議院運営委員会で調整され、ここでの調整が重要な政治上での駆け引きの材料となってきた(国対政治)。
与野党交渉によって審議日程が合意決定されたならば、その日程によって採決されるだろう。この場合、原則として(誠実に審議している限り)、強行採決とは言えないだろう。
しかし、それでも与野党が合意に達しない場合は、与党が単独で採決日を決めて採決を行うべきか否かが与党内で検討される。この際、議院運営委員会での与党側の優勢を背景に、野党の合意を取り付けないまま審議を終了させ、法案を採決することを「強行」とマスコミや野党が表現したのがもともとの語源である。また与党が一方的に審議を打ち切ることから、「与党による審議拒否」とのレトリックが用いられることもある。ただし、法案に反対する野党側が無作為に審議継続を要求し、法案の可決を引き延ばす行為に出た場合に審議を終了させるのは批判の対象とならない。(Wikipedia、強行採決)
与野党が合意に達しなかった場合に、与党(多数派)が一方的に審議を打ち切った場合、「強行採決」の可能性が生じる。この場合、審議打ち切りが妥当か否かは、審議内容に関わってくる。論点に応答しないような不誠実な対応が見られるならば、審議打ち切りは妥当とは言えず、「強行採決」と言わざるをえないだろう。
かかる「強行採決」により成立した法令は、形式的には有効ではあっても、実質的には「手続に瑕疵のある無効な法令」として、少なくとも現代の民主主義社会においては認められないだろう。これは法案の内容の是非には関係のない話である。(ここまでくれば、独裁制にどう対処するのかの話になる)
私は、冒頭の強行採決法案とされているものについて、審議打ち切りに至る事実がどうであったかの情報*2を持たないので、強行採決か否かの判断はできない。