浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法と経済学 コースの定理

平野・亀本・服部『法哲学』(49) 

今回は、第5章 法的思考 第3節 法的思考と経済学的思考 である。

「法と経済学」または「法の経済分析」と呼ばれる法アプローチは、法と経済のかかわりを説くというよりも、法学の内部に経済学的思考を導入しようとする運動である。…「法と経済学」は、ミクロ経済学の知見を法の分野に応用する規範的経済学と見ることも出来る。しかし、「法と経済学」は、法という複雑な現象に対して、極めて理想的な条件の下でのみ妥当する初歩的な経済学の理論を応用する傾向が強いから、経済学の知見を部分的に借用する法学というほうが正確であろう。

この後、「パレート効率」と「費用便益分析」の説明があるが、具体的に法とどのように関わってくるのかよく分からないので、パスする。

続いて「コースの定理」の説明がある。「医者とカラオケ店」の間の騒音問題を例に説明があるが、騒音規制法がある現在、いささか的外れの例のように思われる(まともに考える気がしない)。コースの定理は、騒音規制法など不要だと主張するのだろうか。*1

ここでは、小島寛之のブログ記事、「コースの定理は、非人間的か?」、「コースの定理と経済学のクールさ」により、コースの定理を勉強しよう。

コースの定理のポイントがまとめられているが引用は省略する(小島の記事参照)。この定理の内容をよくある事例に素朴に当てはめると、次のようになるという。(漁業ではなく、農業を考えても良い)

工場がその生産活動によって河川を汚染し、漁業に打撃を与えているとき工場が漁民に賠償金を払っても、漁民が工場に生産縮小のための補償金を支払っても、社会的な帰結は同じだ。

漁業者が工場に生産縮小のための補償金を支払う!?  いったいどういう理屈なのか?

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工場の最適な生産量は5単位であるが、漁業者の損失を考慮に入れれば、社会的に最適な生産量は3単位となる。では、工場が3単位生産するにはどうすれば良いのか。

ここで「既得権」がどちらにあるのかが問題となる。

水源の使用に関する既得権が漁業にある場合…工場の操業にあたって、生産が漁業に与える1単位あたり20万円の損害を工場が賠償するのが筋だろう。そうすると、工場の追加的利潤は、元より20万円ずつ少なくなる。このとき、3単位から4単位へ生産を増やすときの追加的利潤は(15−20=)マイナス5万円になってしまう。だから、工場の(利己的な)最適生産量は3単位となり、これは社会的最適量と一致する。

水源の使用の既得権が工場にある場合…漁業が工場に1単位の生産減に対して20万円ずつ補償をする交渉をすれば社会的な最適性が実現される。なぜなら、工場は当初、利潤が最大である5単位を生産しているが、1単位減産すると5万円の利潤を失うのに対して20万円の補償金が入り、さらに1単位減産しても、失う利潤15万円は補償金20万円で埋め合わせることができるから、3単位まで減産をするのである。

水源の使用に関する既得権が漁業にある場合とは、工場がその地域に後から入ってきた場合であり、こちらは分かりやすい。水源の使用の既得権が工場にある場合とは、漁業者がその地域に後から入ってきた場合と考えられよう(現実にはこれは稀だと思われるが)。後者の場合、上記の論理はあり得ると考えられよう。漁業者が工場に生産縮小のための補償金を支払うのである(漁業者は、それだけの補償金を支払っても利益があると見込んでいる)。

コースはどのように考えていたのだろうか。

コースがこの論文を書くときに念頭にあった事例は、「開拓時のアメリカ中西部の牧畜業と農業との間で起きた利益衝突」であった。当時は、牧畜業が放牧している牛が農作物を食い荒らし、農民が損害を受けることが問題となっていた。このように書くと、悪いのは牧畜業のほうのように聞こえるが、事実関係はむしろ逆だった。なぜなら、牧畜業が既に営まれているところに、後になって東部から移住してきた農民が勝手に農業を始めたからだ。そういう意味では既得権を持っているのは牧畜業の側だったのである。だから、放牧の牛が農作物を食い荒らす、ということをして「公害の加害者」だと断じるのは性急なのである。このようなケースでは、農民が牧畜業者に補償をして、牛の行動範囲を制限してもらう交渉を行うのも、決して理不尽とはいえまい。

「牧畜業が放牧している牛が農作物を食い荒らし、農民が損害を受けている」という記述を、安易に客観的な記述と受け取ってはならない。

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http://www.mblynchfirm.com/2018/05/29/whistleblowers-help-stop-ship-air-pollution/

 

以上の説明で、何かごまかされた気がしないだろうか。

私が第一に思うのは、河川の汚染というような(騒音等でも同じ)公害問題が、加害者と被害者の交渉(賠償/補償の金額交渉)によって解決され、公的な問題とされていないことである。水銀中毒でいかに死者や病気が発生しようとも、当事者同士(力関係に差がある)での賠償/補償さえすればそれでよい、というような非人間性を感じる。

第二に、損害額の算定は恣意的なものとなるだろうということである。病気は一生涯続くかもしれないし、生まれてくる子供にも影響するかもしれない。放射性物質トリチウムを含む汚染水を海洋に放出することや海のプラスチック汚染や宇宙ゴミスペースデブリ)の損害額をどのように算定するのだろうか。

第三に、極めて単純なモデルで貨幣換算し(数値例ではなく、高等数学を使ったとしても)評価していることである。人は「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではない。ミクロ経済学は、経済人という皮相な人間観にたった数学モデルにすぎないのではないか。

第四に、既得権という話があったが、その既得権を無条件に認めてよいのか。所有の初期値を問題にしなくても良いのか。

かかるミクロ経済学の知見は、法の分野に何か寄与するというよりも、悪影響を与えるものでしかないようにも思われる。*2

*1:もちろん、騒音規制法があるから何も問題はないと主張するものではない。基地騒音やマンションの騒音トラブルなど、問題はある。騒音問題を例にとりあげるなら、現に問題となっているような事例を取り上げて欲しいものである。コースの定理を説明する人は、私のこの疑問に答えてほしいものである。

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https://www.env.go.jp/air/noise/souonkiseih-pamphlet.pdf

*2:但し、これは私の無知ゆえの考えかもしれない。後日、訂正すべきところがあれば訂正する。