浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

自由と民主主義

平野・亀本・服部『法哲学』(51) 

今回は、第6章 法哲学の現代的課題 第1節 デモクラシーとは何か の続きである。

亀本(本節担当)は、自由とデモクラシーとの関係を以下のように述べている。

デモクラシーと自由

民主制は、支配者と被支配者の同一性と定義されることがある。これは国民一人一人の平等を含意すると同時に、自らが自らを治めると理解される限りで、自己統治あるいは自律という意味での自由をも含意する。

ここでは民主制とは、支配者(人民/国民)=被支配者(人民/国民)であるとされる。人民/国民は、個人ではない。日本の人口は、約1億3千万人である。自ら(1億3千万人)が、自ら(1億3千万人)を治める。1億3千万人の自己統治とか自律とは何だろうか。このような訳の分からない自己統治とか自律が、「自由」を含意すると言われても、意味不明である。

 

公民的民主主義

古代ギリシアの民主制の理念においては、政治への参加は市民の権利であると同時に義務でもあり、なおかつ上に述べた意味で自由の実現でもあった。そこでの参加は、結果的に公益にかなう法律が制定されるかどうかとは独立に、討論に参加することによってポリスの市民として必要な徳を涵養するという意味を持っていた。これは単なる公益発見の手段としての討論という発想とは根本的に異なるものである。直接民主制下のポリスにおいて政治参加によって培われる徳は、政治的なものであると同時に、参加が市民の義務とされたことからも分かるように、倫理的な徳でもあった。そこでは、政治と倫理は一体であった。このような民主制観を「公民的民主主義」と呼ぶことにしよう。

「民主制の理念においては、政治への参加は市民の権利である」という意味を考えてみよう。ここで「政治」をどういう意味にとらえるかであるが、「人間が共に生きていくうえで、必要なことを決め、実行していくこと」と考えておこう。そのような事項は無数にある(災害対策、治安維持、社会保障、文化振興……)。「市民」(人民/国民)が、このような政治に「参加」することが認められている(意思決定のための話し合いに参加できる)ということが「権利」と称される。話し合いに参加できないということであれば、民主制ではなく、独裁制、王制、君主制、貴族制等と称されるものとなろう。

次に「民主制の理念においては、政治への参加は市民の義務である」という意味を考えてみよう。「市民」は、「人間が共に生きていくうえで、必要なことを決める話し合いに参加しなければならない」のである。すべてにおいて完全な人間はいない。災害対策、治安維持、社会保障、文化振興等々を、どうしたら良いかを話し合うことで、社会の中に生きる人間として成長することができる。この意味で、政治と倫理は一体と言える。ギリシアの民主制に学ぶべき点はこの点にあるだろう。

 

議会主義

議会を国権の最高機関とし、議会における代表による討論を通じて国家の基本方針と法律を定めるべきだとする近代の議会主義は、民主主義と必然的な関係はない。というのは、議会に送られる代表は、全人民からの選挙によって選ばれるとは限らないからである。議会主義はもともと、教養と財産を備えた上流階級による自由な意見表明と討論を予定していた。従って、制限選挙と親和的である。また議会への参加は、古代ギリシアのポリスにおけるように全市民の義務ではなかった。しかし、代表の選出が君主による任命から、制限選挙を経て、普通選挙に向かうにつれて、民主制と議会主義は、外見上しだいに重なるようになる。

「近代の議会主義は、民主主義と必然的な関係はない」というのは、よく考えるべき点だろう。

災害対策、治安維持、社会保障、文化振興等々を話し合うのに、何らかの知識が無ければ話し合いにならない。「教養」が必要なのである。無知蒙昧な(知識がなく物事の道理を知らない)人間が、寄り集まっても何も出てこない。そしてかつては、そのような無知蒙昧でない人は、「教養と財産を備えた上流階級」であったということだろう。しかし今日、「市民」(人民/国民)は、必ずしも無知蒙昧ではない。

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http://www.engineofimpact.org/resources/discussion-guide/

 

討論によるデモクラシー

最近では、民主主義における討論の意義を重視する立場が有力になりつつある。そのような立場も、政治の現実が利害の妥協や駆け引きに陥りがちであるという事実を認めないわけではない。だがそうであるからこそ、

規範的な理想としては、自己の利害を捨象し、権力や財力の差に由来する交渉力の差を無力化した理想的な状態を反事実的に想定した上で、自由かつ平等な条件の下で、参加者の討論を通じた普遍化可能な利益の実現がめざされる

のである。人間の社会的行為全般に適用されるべき「討議理論」の立場からデモクラシーに接近するハーバーマスは、そのような立場の代表である。

 いま青色にした言い回し、これは覚えておいていい。これは「~した方が良い」、「~するべきである」、「~することが望ましい」を、言い換えたものと言えよう。「あなたの仰ることはわかります。しかし~した方が望ましいでしょうね」といったニュアンスである。権力(地位)や財力(カネ)をバックに強制するのではなく、理性的に話し合って、より良い方向を見出そうというのである。問題は、そのように理性的に話すことができない人に、どう対処するかである。

もちろん、そのような討論重視の規範的民主制論は、シュミットからは、大衆民主主義社会の現状を無視する時代錯誤だと、シュンペーターからは、公益の実在または認識の可能性を素朴に肯定する古い民主制論に他ならず、科学的認識にたえない、という批判を受けるであろう。

「現状を無視する時代錯誤」だとか、「素朴で古い民主制論」だとかは、感情語であって、批判に値しない。ハーバーマスはそんなことは承知の上で言っている(はずである)。

しかし本当の問題は、民主制に関するどのような規範的理想であれ、それをどのようにして具体的に制度化するかという点にある。制度の具体的内容とそれが適用されるべき条件が明らかになってはじめて、規範的望ましさだけでなく実行可能性の問題をも考慮に入れた学問的議論が可能になる。

これは確かにそうだと思う。「よく話し合いましょう」と言っただけで、良くなるものではない。制度化-実行可能性を確保するにはどうしたら良いかを考えなければならない。

 

この後、亀本は「自由あるいは自由主義と民主主義の関係」について、改めて考えるとして、「古代人の自由と近代人の自由」、「自由権の分類」、「精神的自由と経済的自由」の項で、まず自由を分類し、次いで民主主義との関係を次のように述べている。

リベラル・デモクラシー

近代民主主義思想の多くは、自由主義と結合したものであり、その限りでそれをリベラル・デモクラシー(liberal democracy、自由民主主義)の思想と呼ぶことができる。注意する必要があるのは、市民的自由は、国家からの自由を重視する近代の自由主義リベラリズム)に特有な思想であり、古代ギリシアの公民的民主主義にはなかった考え方であるという点である。政治的自由も近代においては、民主制ポリスにおける古代人の自由と同じ意味ではなく、政治に参加するもしないも各人の自由であるという自由主義的な意味で理解されることが多い。

市民的自由とは、「人身の自由だけでなく、良心の自由、結社の自由、職業選択の自由、その他幸福追求権一般が含まれる」と説明されていた。民主主義との関係の説明は、ここだけなので、「人身の自由、良心の自由、結社の自由、職業選択の自由、その他幸福追求権一般」は、古代ギリシアの公民的民主主義にはなかった考えである、と述べているだけである。

共和主義

これに対して、市民的自由を確保するためには、市民の多くが政治に積極的に関心を持ち、参加することが不可欠であるとする民主主義思想がある。そのような思想は、「共和主義」と呼ばれる。

共和主義は、政治への参加を奨励するが、古代の公民的民主主義と異なり、それを市民の義務とするわけではないから、近代的な自由主義と両立する。だが、近代の共和主義が、政治への参加を積極的に高く評価する点では、古代の公民的民主主義と共通しており、またその限りで、古代人の自由と通底する考え方であることにも注意しなければならない。

市民的自由(人身の自由、良心の自由、結社の自由、職業選択の自由、その他幸福追求権一般)を確保するためには、政治参加が不可欠である、という民主主義思想を共和主義と呼ぶらしい。このような自由を確保するために、なぜ市民の政治参加が不可欠なのか、また市民が政治参加すればこれらの自由は確保されるのか、共和主義は何を言っているのかわからない。

 

直接民主制と間接民主制

デモクラシーを古代人の自由を実現するための制度と捉える場合、直接民主制が本来のあり方となる。公民的民主主義だけでなく、共和主義も、その古典的な形態にあっては、比較的小規模の国家を前提し、直接民主制を理想的な民主制の形態としていた。そこでは、代表民主制は、国家の規模が大きいためにとらざるをえない次善の策ということになる。…間接民主制をとる規模の大きな現代国家においてなお、共和主義的民主制の実現を目指そうとする場合、価値観の主観化と多元性という現状の下で、共和主義的理念をどのようにして制度化するかという困難な問題に直面することになる。

引用を省略したが、古代人の自由とは政治への「参加の自由」のことらしい。共和主義も「参加を奨励する」のであれば、直接民主制が望ましいということになる。しかし規模が大きくなれば、当然に間接民主制(代表民主制)となる。

「自由と民主主義の関係」とは、たったこれだけのこと?

 

ここで、あらためて「自由」について、見ておきたいのだが、長くなりそうなので、次回にしよう。