浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

秩序ある世界(平和な世界)はいかにして形成されるのか?

久米郁男他『政治学』(15)

今回は、第7章 国内社会と国際関係 第1節 国際関係の特質 である。

古城(第7章担当)は、「国際関係の構造は、アナーキーであるとみなされている」と述べている。「構造」とか「アナーキー」という言葉の使い方が適切とは思われないが、

国際関係では、主権国家が平等に並立しており、主権国家の上位には中央集権的な権力、すなわち国内社会における政府にあたるものが存在しない構造になっているのである。つまり、国際関係は分権的であって、国内社会に存在する[ような]共通の法、立法機関、行政機関は存在しない。現在、最も世界的な規模の国際機関として国際連合があるが、国際連合が各国より上位の権力を持っているとは、現在のところ言うことは難しい。

簡単に言えば、「各国がバラバラに存在しているだけで、秩序が存在しない」ことを、「国際関係の構造はアナーキーである」と言っているようだ。「構造」などという言葉を使うから紛らわしくなる。

ここで「国家」という言葉の意味を確認しておこう。本書は、次のように定義していた。

近代ヨーロッパが生みだした近代主権国家に限定した場合の近代国家を次のように定義する。

第1に、国境というかたちで明確に区切られた固定的な領域を確保し、

第2に、その領域内において一元的な法律の権威を確立し、その法律を制定し、強制するための排他的組織を備え、

第3に、メンバーの間に言語・文化・民族に関して相当程度の共通性が存在することが期待される組織

(第5章 国家と権力 第1節 三つの国家観)

以降に出てくる「国家」とは、このような意味であると理解しておこう。

国際政治学には、リアリズムとリベラリズムの2つの立場があるという。

リアリズム(現実主義、realism)

国際関係は、…[国家間の]対立が常態であり、協力は難しいとみなす。…国家は、自国の安全保障を第一の目標として行動する。国家は、自国の安全保障のためにより大きなパワーを保持しようとする。…パワーの源泉として国際政治で最も重視されてきたのが軍事力である。…パワーをめぐって各国間に対立や衝突がつねに起こる。リアリズムは、国際政治を「権力闘争」と捉える。…協調が可能なのは、協力することが各国家の利益と合致する場合だけである。…国際秩序を維持する最も有効な手段として、各国家間のパワーのバランスを巧みにとる方法、即ち勢力均衡(バランス・オブ・パワーを評価する。…国際法や国際組織などが秩序維持に果たす役割には期待しない。

 21世紀の現代でもなお、現実認識としては恐らく、「ハード・ソフトを含め、軍事的優位をめざす動きが支配的」であると言って良いだろう。しかし、「~である」(存在、事実認識)から「~すべきである」(当為、価値判断)を導きだすことは出来ない。軍事的優位をめざす動きにあるからと言って、軍事的優位をめざすべきである、ということにはならない。勢力均衡バランス・オブ・パワー)というのは事実認識の話であって、そこから勢力拡大をめざすべきである、ということにはならない。(今日、膨張主義/(領土)拡張主義をあからさまに主張する国家はなく、「防衛力強化」と言い換えるだろう)。…現実は冷静に見なければならない。なぜこのような現状になっているのか。原因は何なのか。より根本的な原因は何なのか。「X国の侵略に備え、防衛力を強化する(軍備増強する)」というならば、X国の侵略の可能性を考えなければならない。X国の言い分も聞かなければならない。「X国の侵略に備え、防衛力を強化する(軍備増強する)」というのは、現実主義などではなく、対話拒否の膨張主義者(拡張主義者)の言い分であろう。

f:id:shoyo3:20190110194856j:plain

http://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/research_issues/252_20180306/

 

リベラリズム自由主義、liberalism)

国際関係では国境を超えた経済的・社会的交流の増大、それに伴う人々の認識の変化などが起こっており、国家の行動は軍事的な安全保障という目的のみに限定されているわけではなく、国際関係においても個人のレベルでは相互利益や共同体意識が存在しているので、それらをもとにした協調は可能である。リベラリズムでは、人間を、自己保存を第一に考え、利己的に行動する主体とは捉えていない。即ち、国際関係には中央集権的政府は存在してはいないものの、国家間あるいは人々の間には共通の利益や規範等が存在しており、それが秩序の源泉となりうるために、対立や紛争は常態化しないと考えるのである。従って、国際関係において国家間関係のみでなく、個人や国内社会のあり方にも注目することを提唱する。

「国家」は、一つの中間的なコミュニティ(共同体)である。私が「一人」で生きているのではない以上、さまざまなコミュニティに属している(さまざまなコミュニティのメンバーである)ことは、自明であるように思えるのだが、「国家」が唯一のコミュニティであるかのごとく、「国家間の競争(競い争うこと)」に執着する心性は、私には理解しがたいものである。

 

国内類推

では、国際社会における秩序は不可能なのだろうか。「国内類推」という考え方がある。

国内類推…国内社会で秩序維持に大きな役割を果たしている法をはじめとする諸制度が国際関係においても有効に機能するという考え方、すなわち国際社会における秩序維持を国内社会からの類推によって見る見方。

リベラリズムの考え方の]大きな特徴は、国際関係と国内社会を同様に考え、国内の秩序形成の条件を国際的にも整えることによって、国際関係における秩序は維持できる、と考える点にある。即ち、国内類推を支持する考え方である。国内秩序形成における法や制度の役割を、国際関係の秩序を考える場合にも重視する見方が多い。このような法や制度を積み重ねることにより、国際関係において世界政府の樹立の可能性を評価する人々もいる。

国際関係の秩序形成を、国内社会での秩序形成と同一に考える必要はない。法制度の整備により、曲がりなりにも国内社会の秩序形成がなされていると考えるならば、同様に国際社会においても秩序形成がなされるだろう。だとすれば、いかにして法制度を整備するかである。条約、国際法国際司法裁判所、国連等々について、もっと勉強しなければ、いまは何とも言えないのだが…。(「国内類推」という言葉に拘る必要はない)

 

国際社会論(international society approach)

代表的論者のブルは、国際関係の構造がアナーキーであるという前提に立つが、世界政府の実現が秩序をもたらすという考え方には否定的であり、国家を主要なアクターとした上で、国家間では「国際社会の制度」を通した相互作用によって秩序が維持されると考える。ブルが考える「国際社会の制度」には、勢力均衡、国際法、外交のみならず、戦争までも含まれる。国際関係は、各国が相互作用において生み出されたルールによって縛られる、という点でアナーキーではあるが社会が形成されている「アナーキーな社会」(anarchical society)とみなされる。ブルの立場は、国内社会での個人間の信頼、規範による秩序維持のメカニズムが国際関係においても同様に働く、とする国内類推を支持するリベラリズムの立場とも異なり、またリアリストのように国際規範や制度に悲観的でパワーによる秩序維持のみに期待する立場とも異なるのである。

「国際社会の制度」(勢力均衡、国際法、外交、戦争)を通した相互作用とは何だろうか。勢力均衡=軍拡競争、戦争を通した相互作用により、秩序が維持される。はぁ? ブルがおかしいのか、ブルの説明がおかしいのか。

 

さて、今までの説明の中では、国際関係を国家間の関係として説明してきたが、国際関係を国家間関係とみなしてよいのだろうか。国際関係では、国家のみが主体なのだろうか。私たちが接している現代の国際関係では国家以外の主体も存在しており、国際関係は国家間の関係のみからなるものとは言えない。

「国際関係」という言葉からすれば、「国家間の関係」であろう。「国際連合」も「国家の連合」である。しかし、「国家」は、一つの中間的なコミュニティ(共同体)である。私たちが問題としなければならないのは、「国家間の関係」ではなく、グローバルなコミュニティのありかたである。