浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

現代社会の規範問題

平野・亀本・服部『法哲学』(55) 

第6章 法哲学の現代的課題 第3節 現代法の新たな課題 である。本節は、現代社会において特に大きな規範問題を生んでいると思われる「医療技術の進歩」、「環境保護の必要」、「情報社会の進展」をとりあげている(本書の発行は2002年)。これらのテーマを簡単に論じることはできないのだが、本書はどういう説明の仕方をしているのか、簡単に見ておくことにしよう。

1.医療技術の進歩のもたらす問題(生命倫理と法)

  • 医療技術の発展は、従来は不可能であった治療法を可能とし、伝統的な宗教規範との衝突や、個人の内的葛藤を生んでいる。
  • 臓器移植や遺伝子治療の技術は、従来は考えられなかった治療法を可能にした。
  • 新たな医療技術が可能にした選択肢は、他者の生死や生活にも大きな影響を及ぼす。心臓等の移植手術は、脳死者を含む死体からの臓器摘出により可能となるものであるし、出生前診断は、本書の冒頭でふれた妊娠中絶にもつながりうるという点で、生まれ来る胎児の命にかかわる場合さえある技術である。当人の自己決定だけで解決のつく問題ではない。
  • 出生に伴う権利能力の獲得や、人の死に伴う相続の開始などを挙げるまでもなく、人が生きるか死ぬか、さらにそれがどの時点で起こるかは、他者の生活に大きな影響を及ぼし得る社会的関心事である。人の生死が画一的な仕方で制度化されるのは、そのためである。私事だという理由で個人の判断に委ねれば、必ず混乱を招く。
  • 以上の問題は、倫理の問題であると同時に、法の問題でもある。そこで道徳的な討議を行って社会的に合意可能な行為基準をうち立て、そして必要とあらばそれを法制化するという作業が重要となる。*1
  • だが、どこまでを倫理の問題としておき、どこからを法の問題とするかの判断は難しい。技術の発展から従来にない可能性を得ようとするなら、法の規制をなるべく緩やかにという判断が働くだろう。他方で、人間の尊厳などの価値を至上視すれば、それを侵害する行為に違法というレッテルを貼り、さらには刑罰によりこれを阻止しようという考えに至るだろう。遺伝子技術の実験・応用に関する基準の扱いをめぐり、これをガイドラインに止めるか、制裁を伴わない法規定とするか、違反には制裁をもって臨む法制化で対応するかの意見の対立があるが、これはその一例といえるだろう。
  • いずれにせよ重要なのは、医療の場において実現されねばならない根本的な価値は何かということである。一方で、生命の維持、健康の保持があり、他方で、患者の自己決定、さらには患者自身の「人間の尊厳」がある。医療において個人の判断を重視するのが適切だとしても、自分の体だからどう処分しても良いという理屈も成り立ちにくい。こうした困難な問題にもかかわらず、新たな医療技術が開発されるたびに、何が許され何が許されないかの基準の定立が法システムに求められることになる。

遺伝子治療」の問題は、極めて大きな問題であり、『ひとは生命をどのように理解してきたか』の読書ノートで考えていきたい。

 

2.環境保護の価値理念

  • 人間の技術力の向上と共に、これまで支配・収奪の対象でしかなかった自然の有限性が急速に問題化した。場合によっては人間が自然に譲歩することの必要性をも考慮に入れ、人間の生存基盤の確保のための、新たな行為の指針をうち立てる必要が生じている。
  • 環境倫理は、人間中心主義的な倫理のあり方に反省を迫る可能性がある。
  • 例えば、ある自然環境を犠牲にして産業施設を建設し、それによって莫大な利益が得られるなら、当然自然環境を維持することで保持される利益が軽視される恐れがある。それを保全することが長期的には人間の利益になる可能性があるとはいえ、すべてが現前しているとはいえないそうした利益を効用計算に組み入れるよう要求するのは必ずしも容易ではない。
  • しかも、環境破壊は、利潤を追求する企業活動によってもたらされることが少なくない。環境保護のためには、外部コストを内部化することが求められるが、利潤にならないコストの内部化が企業によって進んで行われるとはなかなか考えにくい*2

  • そこで価値理念としての環境保護という考え方が成り立つ。それ環境保護という価値理念]は環境を犠牲にすることにより得られる利益によっては相殺されえない、序列の上で優先的な価値原理である。生態系、景観、宇宙などに及ぶ幅広い自然環境が、この価値理念の保護対象とされるのである。

この「価値理念」という考え方は覚えておきたい。それは「費用効果計算」の枠組みでものごとを考えないこと、つまりは「おカネ」に換算して考えてはいけないものがあるということを理解することである。生態系や景観などはおカネに換算することはできない「価値あるもの」だということを了解することである。その上で、生態系や景観がどれほど尊重すべきものか(優先的な価値原理であるか)の社会的合意を得ることである。(いかにして社会的合意を得るか?)

  • 環境保護の理念を、個別状況で人を一定の行為に向けさせる諸規範へと具体化し、それらを社会に浸透させることが肝要である。そのためには、まず環境教育を通じて、人々にそうした規範意識を身につけさせねばならない。人々に環境保護についての社会的責任意識を持たせることが重要である。さらに、著しい環境保護のための規制に実効性を持たせるには、環境破壊行為を防止する立法を行うことが必要となる。
  • もちろん、規制に実効性を持たせるにはそれなりの工夫が必要である。環境保護は内的動機付けが難しい問題領域であるから、税制上の優遇措置など、外的な刺激を誘因として用い、企業行動を誘導することも1つの有効な方法であろう。

「環境教育」はどの程度なされているのだろうか。水俣病をはじめとする「公害」については教育がなされているかもしれないが、森林破壊、海洋汚染、生態系破壊などについてはどうだろうか。また原子力発電所からの「放射性廃棄物」についてはどうだろうか。将来に禍根を残さない形で処分されているのだろうか。

税制上の優遇措置はともかく、規制の実効性を考えることは当然である。「交通ルール」の遵守のための取り組みは参考になる。

 

動物の権利

  • 動物にも権利主体性が認められるという主張が提起されている。例えば、シンガーらの功利主義者は、快楽を求め苦痛を避けようとする点では人間も動物も変わらないという認識に基づき、人間に認められる権利を、一定程度、動物にも拡張すべきだと説く。また近代法の立場からすると物として保護の対象となるにすぎない動物に、訴訟の当事者適格を認めるべきだという主張もあり、現に今日の訴訟の中でそれが――人間の弁護士を訴訟代理人とする形をとって――実行されている例もある。動物以外にも、自然景観や、樹木や巨石にも当事者適格があるという主張をする者さえある。
  • 近代法の建前からは容認しがたいこうした主張については、それをそのまま認めるかどうかよりも、それが示唆する重要な指摘、とりわけ近代法の拠って立つ前提の限界性を意識することが重要であろう。そして、「動物の権利」の主張を単なるレトリックに終わらせることなく、近代法が内包している人間中心主義を鋭く見抜き、それを相対化する契機にすることが求められるであろう。

動物の「権利」というと大げさに聞こえるが、要は「生き物を大切にしましょう」ということを言い換えているだけだろう。私たちは「生き物」を含めた地球環境の中で、共に生きているのだから当然のことのように思える。

ただ人間は、「植物」を「野菜」や「果物」として、「動物」を「食肉」や「魚」などとして、生命を奪い、食用にしているのだが、このことをどう考えるのかが問題である。

 

3.情報社会とコミュニケーションの増大

  • 高度情報通信技術の発達、とりわけインターネットの発達と普及は、人間のコミュニケーションの性質を次のように大きく変容させることになった。
  • 第1に、情報伝達の脱領域化である。近代国家の1つの前提であった国家間の障壁が、情報に関しては簡単に乗り越えられるようになった。情報伝達の過程が、もはや近代主義国家の能力では技術的に統御可能ではない事態が生じた。

情報伝達の脱領域化」という捉え方は面白い。電話の盗聴があるように、インターネットの盗聴がある。対策としての暗号は昔からあるが、「盗聴を物理的に防ぐ量子暗号通信」のような研究もある*3。こういうことを研究しなければならないというのは情けないことではある。

  •  第2に、情報処理の高速化により、時間・空間の自然的制約から免れた新しい情報空間、いわゆるサイバー・スペースが開かれるに至った。ヴァーチャル・リアリティ(VR、仮想現実)と呼ばれる領域も誕生し、現実社会との乖離・関係が新たな問題となった。

VRの技術は、3次元空間(五感)データの高速送受信技術と考えてよいだろう。事件を追体験できるVRジャーナリズム*4や遠隔医療が注目される。

 

Project Syria Demo 


 

あわじ国バーチャン・リアリティ コンセプトムービー



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【360°動画】あわじ国バーチャン・リアリティ 夜ごはん篇

 

  • 第3に、高度の情報処理が従来よりはるかに多くの人々に開かれるようになったため、伝達可能な情報量が爆発的に増大し、しかも頻繁に更新されるため、誰にもそれを制御・管理できなくなった
  • 一方では、インターネット上の有害情報や、インターネット上での情報交換等を契機に引き起こされる種々の犯罪、更にはネットワークそのものの安全性への不安などが、インターネットの実現する世界を新たな法的取締りの対象とみる見方を生みだしている。

ネット情報が制御・管理できなくなったということはないだろう(AIが人間を離れれば別だが…)。またインターネット上の有害情報や犯罪については、新たな情報媒体が増えただけのことであり、法的規制の対象となるのに不思議はない。(ヘイトスピーチやフェークニュースをどう取り扱うか)

  • 他方では、インターネットは、公的・私的な情報の作成・伝達・蓄積、商取引、政府や自治体の活動や公共的意志形成など、さまざまな類のコミュニケーションのあり方に、大きな質的変化と可能性の増大をもたらしつつある。そして、その恩恵は、既に我々の公的及び私的生活の随所に現れ始めているのである。本書の冒頭でもふれたグローバル化の傾向を見ても、それを推し進める最も重要な要素の1つが、こうした高度情報通信技術の発展にあることは否定できないであろう。

いま赤字にしたところは、よく考えてみなければならないように思う。とりわけ「公」の情報に関して、そのコンテンツ及びコミュニケーションのあり方に、もっと関心をもってよいだろう。

 

高度情報社会における規範形成

  • こうした新たな可能性の出現は、そこにおける新たな秩序あるいは規範の形成を必要とするわけだが、問題はどこで、どのような手続きのもとで、どのような規範を形成するかである。
  • 1つには、善良なるハッカーが形成するコミュニティの自生的秩序形成に、新たな規範形成の任務は委ねるべきだとする考えがありうる。高度情報通信技術がもたらす可能性を最大限に活かし、信じられないほどの速さで起こる状況変化に対応するには、そうするしかないというのがその理由である。インターネットの世界を、外的介入を受けない自由な空間と考える理想の影響も大きい。

「善良なるハッカーが形成するコミュニティの自生的秩序形成」など、ありえないだろう。善良なるハッカー? コミュニティの自生的秩序形成?

  • 他方、国家による法的規制の必要性もしばしば指摘されており、猥褻物の取締りや不正アクセス防止等のように、その一部は既に実施されている。だが、これに対しては、インターネット等の出現によって新たに生じた不正行為の抑圧というよりも、高度情報通信技術のもたらす可能性をできる限り活かすための基盤・環境整備のための制度作りという意味付けのほうがふさわしいのではないか。電子商取引電子署名に関する法制度の整備等もまた、同様の文脈で理解すべきであろう。
  • それとの関連では、確かに、インターネットの商用利用が可能となるや否や、ここに市場の論理が一気に入ってきた様子が顕著にうかがえる。しかし、だからといって、インターネットに関する規範形成がもっぱら市場の論理に支配されるとみるのは適切ではないだろう。
  • 例えば、選挙活動や世論調査・世論形成に果たす役割にみられるように、インターネットは公共的な意思形成においても大きな可能性を有しており、第1節で見た民主主義の将来的なあり方との関連でも看過できない要因になっている。インターネットが可能とする世界を、人間の正規の活動の場であることを正面から認めた上で、そこにふさわしい規範形成のあり方を探り、法の役割に対しても適切な位置づけを与えていく必要があるだろう。

ここに書かれていることは、公的情報を含めたITインフラの問題として、議論されるべきだろう。

 

(最後に)現代社会における新たな規範形成

以上、3つの例についてふれたように、現代社会に生起する様々な問題に直面し、現代法は新たな課題の前に立たされている。他にも、例えば、高齢化・少子化の現実をふまえた新たな社会保障システムの構築も緊急の課題となっていると言えるだろう。経済、教育、労働、医療、福祉、環境保護など、さまざまな問題領域が専門的に独自の視点を展開してきたのが近代社会であるとすれば、例えば人間のライフサイクルのあり方という視点に立って、それらをもう一度トータルに問い直す時点に来ているのが現在であり、法もまたそうした課題に直面しているといえよう。近代社会以降の意味における法は、程度の差こそあれ、国家権力の行使と関連するものとして構造化され、展開してきたものである。法哲学は、法のそうした特質を十分に考慮に入れた上で、現代社会の抱える諸問題に法がどのように対応するかについて考察していくことを任務としている。このことは、こうした具体的事象との取組みにおいても確認されるであろう。

私たちの社会は、さまざまな問題を抱えている。どのような問題があるのかを知らない人や、問題意識があってもどうしたらよいのかわからない人や、皮相な決めつけをする人も多数いる。それでも私たちは「社会」の中で生きている。「社会の決めごと」に無関心でいることは、「私たちは、社会の中で、どのように生きればよいのか」に関して考えることなく、ただ流されて生きて行くことになるだろう

今回で、『法哲学』の読書ノートは終了する。        

*1:例えば、わが国の臓器移植法は死体からの臓器移植を行う場合は脳死を持って人の死とする立場に立っているが、同法が関係しないそれ以外の一般的な場合には、これまで通り心臓死(もしくは心肺死)が死であるとの了解が維持されている。他方、ドイツでは、わが国とほぼ同じ時期に臓器移植のルールの法制化に取り組んだが、すべて脳死をもって人の死とする連邦医師会の判定基準に、引き続き依拠する途が選ばれた。

*2:

外部不経済の内部化環境負荷に対する費用負担を市場メカニズムに組み込むこと。個人の消費活動や企業の生産活動の結果、排出される環境汚染物質によって健康被害が起こったり農産物や漁業への被害が出たりした場合に、その費用や損失を被害者やこれを救済する政府により負担させるのではなく、環境負荷に伴う費用を原因者に直接負担させたり、製品やサービスの価格に反映させることにより、その受益者に負担させること。例えば、環境負荷の小さい自動車は税率を低くし、環境負荷の大きい自動車は税率を高くする自動車税のグリーン化や、公害健康被害補償に要する費用を汚染原因者から徴収するために移動発生源の負担分として自動車重量税収の一部を引き当てること等が、「内部化」の例として挙げられる。(http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1989

*3:山下茂、http://www.ritsumei.ac.jp/tanq/302124/ 

*4:https://www.asahi.com/articles/ASH7K547MH7KUEHF00L.html、http://sign.jp/ae265928