浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

私と他者(2)

立岩真也『私的所有論』(16)

今回は、第4章 他者 第1節 他者という存在 第3項 他者である私 である。本項は1頁ちょっとの分量しかないが、なかなか手強くてよく分からないい。(私のコメントはどうでもよいので、引用した立岩の文章をよく読んでみてください)

他者である私

以上に述べたことは、他人についてではなく、「私」についても言えることだと思う。その他者とは、自分に対する他人のことだけではなく、自分の精神に、あるいは身体に訪れるものであってもよい。私の身体も私にとって他者であり得る。私が思いのままに操れるものが私にとって大切なものではなく、私が操らないもの、私に在るもの、私に訪れるものの中に、私にとって大切なものがあるのではないか。そしてそれゆえに、それを奪われることに私たちは抵抗するのではないか。

「以上に述べたこと」とは何か?

立岩は、「他者」について次のように述べていた。(第1項「制御しないという思想」)

  • 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言う。
  • 他者は、私ではないもの、私が制御しないものとして在る。
  • 制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する。
  • 私ではない存在、私が制御しないものがあることにおいて、私たちは生を享受している。

制御」がキーワードである。

「「私」についても言える」とは、「制御可能であるとしても制御しないもの、私ではないもの、即ち<他者>が、私の中に存在する」という意味だろう。立岩はこれを、「自分の精神に、あるいは身体に訪れるもの」という言い方をしている。うーむ…。

自分の精神に制御できないものが訪れる? それは異質な思考・考え方に出会うことか。それもあるかもしれないが、自分の内部に、自分の精神(心)そのものに既に「制御できないもの」があることの謂いではないか。それを他者と呼んでもいいかもしれない。インスピレーション、欲望。

自分の身体に制御できないものが訪れる? 自分の内臓は直接にはコントロールできない。無意識にコントロールしているのかもしれないが、それを他者と呼んでもいいだろう。(普通はこんな言い方をしない。自分の内臓は、「自然に」機能しているという)。自分の内部にあって身体に訪れるもの? 何だろうか?

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https://opentextbc.ca/introductiontosociology/chapter/chapter7-deviance-crime-and-social-control/

 

まず、身体は道具=資源としてある。その身体という道具を用いた「行為」は事実としてその者のもとにあることを述べた。同様に能力もその者に属していると言って良い。その道具であるところの身体は、その者によってしか動かすことができない。しかし「結果」はその者のものではないことを先に述べた。ゆえに、能力が道具としてだけある限り、その能力に起因するもの結果の処分権はその者にはない。また、身体を使った行為についての権利を専有することはできない。

これは、「自己制御(自己労働)→自己所有」の論理(2018/1/5、「自己労働→自己所有」というおかしな論理 参照)をいうものだろう。

後に述べるが、交換されるものはまた分配されるものである。ただ、その身体は、もしそれがその者の生命を維持するだけのための道具であったとしても、必要不可欠な道具であり、それを奪うことはその者の存在を否定することになる。身体は、それなしにはその者が存在することができない、特権的な「資源」である。身体、身体のある器官の移譲はその者の存在の消滅を帰結する。この限りで、仮にその者にとって資源=手段でしかないとしても、それ自体は奪われない。そこでサバイバル・ロッタリーが否定された。

ここでいう「身体」とは何だろうか。「それが[身体が]、その者の生命を維持するだけのための道具」であるとは思えない。生命維持に限っても、これを「道具」と呼ぶのは適切ではないだろう。

「それを[身体を]奪うことは、その者の存在を否定することになる」と言うときの身体が、「生命を奪う」という意味ならわかるが、身体の一部ならこんなことは言えない。爪や髪の毛を奪うことは、その者の存在を否定することになるのか。

「身体のある器官の移譲はその者の存在の消滅を帰結する」と言うが、臓器移植がドナーの生命を奪うことにならなければ、「その者の存在の消滅を帰結する」などとは言えないだろう。献血(身体の一部である血液の移譲)はどうなのか。

と同時に、私、私の身体は感受されるものであり、私が私のものとして制御する私ではなく、私があることと切り離しがたくあり、あることの一部をなしていながら、他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私があり、私の身体がある。「生命」「生命一般」が尊いということではなく、個別の他者が、さらに私のもとにあるものが他者として私に現れることが肯定される。私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか。

他者(私のもとにあるものを含め)を肯定するのは良い。しかし「私からそうした他者性を消去してしまう」という意味が不明確である。

もちろん、そんなことを気にせず、いつも私が私の身体を道具として使えるのなら、それはそれでかまわない――同じことをこれから何度か述べるが、そこでは問題とされるべき問題は既に消失してしまっている。

「そこでは問題とされるべき問題は既に消失してしまっている」とは、どういう意味なのかよく分からない。

だがそうはできない時、侵襲される時、身体の受動性が受動的であることによって否定される時、それをさらに否定しきれずになお切り抜けようとなされることは、(例えば性的な)関係を断つこと、その関係を特殊なものとして他の関係から切り離すこと、私自身が能動者として振る舞うこと、他者によってではなく私によって私を制御することによって劣位を否定すること、あるいは私を、私の身体を私の本体から切り放すことである。これらは論理的な可能性を網羅した対応であり、例えばフェミニズムは厳密に論理的にこれらの一つ一つを試みていった。それらの戦術の少なくともいくつかは実際に有効であり、有効であり続けるだろう。しかし、単に否定を否定することの可能性も残されている。本書は、間接的にではあるが、その可能性を考える試みでもある。

この文章が理解できない。今後読み進めていけば理解できることを期待してここは保留にしておこう。

なお侵襲とは、

医学で、生体の内部環境の恒常性を乱す可能性がある刺激全般をいう。投薬・注射・手術などの医療行為や、外傷・骨折・感染症などが含まれる。(デジタル大辞泉

フェミニズムが「他者」の議論にどう関係してくるのか、上の説明では全くわからない。フェミニズムとは、ごく普通には、

女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動。女権拡張論。女性解放論。(デジタル大辞泉

という理解である。