浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

人間性回復の経済学

神野直彦『財政学』(2)

今回は、第1編 財政学のパースペクティブ  第2章 財政と三つのサブシステム である。

 

人間性回復の経済学

神野は、財政学を「人間性回復の経済学」と言っている。何故かというと、経済学は

人間を、苦楽を一瞬のうちに計算する「機械」として想定する。つまり、経済合理性を備えた経済人(ホモ・エコノミカス)という人間像を前提とする。あるいは人間を「機械」のように苦楽を合理的に計算できない「機械以下」の存在として、人間の限定合理性を想定することになってしまう。

経済人(homo economicus)とは、「もっぱら経済的合理性のみに基づいて行動する個人主義的な人間像。古典学派によって想定され、以後近代経済学でも通常、このような人間像を仮定して理論を展開する」(デジタル大辞泉)。「経済人」というモデルでは、あくまで「所与の欲望体系のもとで、満足もしくは効用を最大にするよう行為する」場合を「合理的」と呼んでいる(Wikipedia)。…このような説明は聞いたことがあるだろうが、神野はこれを「苦楽を一瞬のうちに計算する機械」と言っているのが面白い。当たらずといえども遠からずだろう。

しかし、財政学は、

経済学のように単純なホモ・エコノミカスとい人間像を想定するわけにはいかない。つまり、財政学では人間を、社会を形成する全体性を備えた「知性人」(ホモ・サピセンス)として把握することになる。その意味で財政学は人間性回復の経済学ということになる。

「経済人」(ホモ・エコノミカス)に対するに、「知性人」(ホモ・サピセンス)をもってくるのはなかなか良い。もちろん私たちすべてが「知性人」であるわけではないが、「社会を形成する全体性を備えた知性人」として捉えようとする姿勢は見習うべきだろう。これが財政学者の共通認識とは思えないが、人間性回復の経済学としての神野財政学なのだろう(たぶん)。

 

非市場的人間関係

市場的ではない人間関係(非市場的人間関係)とは、どのようなものであろうか。

1 愛情ないしは友愛という情緒的紐帯に基く共同体的人間関係

2 強制力に基く支配・被支配という強制的人間関係 

この2つの人間関係が、何に基くのかをはっきりと認識しておくべきである。共同体的人間関係とは、具体的にどのようなものか。

情緒的紐帯に基く共同体的人間関係は、血縁、地縁、友情を媒介にした家族、コミュニティ、友人などの人間的結びつきである。家族は、家族の構成員に無償で財・サービスを供給する。そうした無償供給を可能にしている無償労働も、継続的な人間的接触によって形成される人間の絆である共同体的人間関係にもとづいて実行されていることになる。

地縁を媒介にしたコミュニティや友人関係を「共同体的人間関係」と言って良いかどうか疑問な点もあるが、それはさておき、家族を「共同体的人間関係」にあるというのは、大方の同意を得られよう。

これに対して強制力にもとづく支配・被支配という人間関係の背景には、人間の行為を強制する暴力が存在する。つまり、支配者が暴力の行使の正統性を独占することによって、人間の行為を支配する支配・被支配という強制的人間関係は成立する。

独裁国家ならこのように言い得るだろう。民主主義国家ではどうか。

もっとも、民主主義が成立している市場社会では、被支配者が支配者になるというアンビバレントな関係[相反する意味を持つ関係]が形成されることになる。つまり、被支配者の合意に基づいて、被支配者の行為を支配する暴力による強制力が行使されることになる。(p.20)

この言い方はわからないではないが、適切とは思えない。民主主義国家では、第1に「支配者」とか「被支配者」という言葉を使うべきではない、第2に「暴力」という言葉を使うべきではない、と考える。第1点目については、「私たちが作ったルールや基準に準拠する」と言えばよい。第2点目については、「ルールや基準に準拠することを実効的に確保するための(公認の=私たちが認めた)力」と言えばよいだろう。具体的には、警察署や税務署、労働基準監督署、消防署、森林管理署(旧営林署)などの、「署」という名前のつく役所(法律行為を取り締まる権限がある。強制的な執行権限がある。)をイメージすればよいが、もう少し範囲を広げても良いかもしれない。会社で言えば、執行役員(Executive Officer)あたりか。

 

市場的人間関係

市場を媒介とする市場的人間関係は、非市場的人間関係のような情緒的紐帯や強制力を使用せずに、人間と人間を結びつけようとする。…市場的人間関係で見知らぬ人間に、財・サービスを供給することが可能となるのは、当事者が価値が同じだと判断する等価物を交換するからである。…等価交換という市場的人間関係は、情緒的紐帯を必要としない。そのため見知らぬ人間同士でも、財・サービスの交換が可能になる。

とはいえ、人間と人間との関係を市場的人間関係だけに還元することはできない。というのも、人間と人間との関係が市場的人間関係だけで構成されれば、人間は生存することができないからである*1。 

このような市場的人間関係は、必要不可欠なものであろうか。神野は、人間の生存に必ずしも必要ではないと言う。なぜなら、

人間は共同体的関係だけで、自給自足による生存が可能だからである。しかも、共同体的人間関係が存在しなければ、幼児が生存できないということは、人間が人類として「種」を維持していくためにも共同体的人間関係が必要不可欠だということを意味する。そのため市場社会といえども、情緒的紐帯に基く共同体的人間関係の維持が必要不可欠となってくるのである。

「市場的人間関係」は、必要不可欠ではないと言う。これは「市場」は必要不可欠ではない、ということだろうか。神野は「市場」をどのように考えているのかまだ分からないので、これは何とも言えない。

 

共同体から国家へ

人類という種、つまりホモサピエンス[知性人]にとって共同体は、本来的に生存の場であり、共同体的人間関係は、人類の生存にとって必要不可欠な存在である。しかし…無限に膨張していく人間の欲望を充足するには、共同体的人間関係だけでは限界がある。というのも、共同体的人間関係の形成には、社会の構成員の間に継続的接触があり、情緒的紐帯が形成されている必要がある。そのため顔見知りの付き合いを越えて、共同体的人間関係を形成することはできない。ところが、人間の生存を維持していくのに必要なニーズを越える欲望を充足しようとすると、こうした共同体の内部における、自発的協力に依存するだけでは不可能で、共同体を越える共同体間の協力が必要となる。 

神野は「人間の欲望が無限に膨張していく」と言っているが、これは疑問だ。どういう「欲望」を想定しているのだろうか。「生存を維持していくのに必要なニーズを越える欲望」ならわかる。「共同体を越える共同体間の協力」というのが、「農業や漁業を営む家族を越える家族間の協力」という意味ならわかる。では、共同体の範囲を広げていっても同様だと言えるだろうか。

「共同体」は、単に生存の維持の場であるのみならず、ホモサピエンス[知性人]として、「より良き生存の場」たらしめようとしていると言って良いだろう。これを「無限に膨張していく人間の欲望」に基づくという言い方では、肯定的に捉えているのか、否定的に捉えているのかよく分からない。 

共同体の内部には顔見知り関係があり、情緒的紐帯が存在するけれども、共同体と共同体との間には、自発的な協力は生じない。それゆえに多数の共同体による共同事業として、大規模な灌漑事業を実施するには、暴力を背景にした強制力を必要としたのである。

神野は古代の大規模な灌漑事業を念頭において、このように述べている。かくして「国家」が誕生したというのである。ここで「暴力を背景にした強制力」というのは「武力(軍事力)を背景にした強制力」といったほうが良いだろう。これは歴史的事実の叙述としては正解なのだろうが、現代の民主主義社会における共同体間の関係の議論としては妥当しないと思われる。

人間の情緒的紐帯に基く共同体的人間関係を社会システム、強制力に基く支配・被支配関係を政治システムと呼ぶとすれば、政治システムは社会システムの限界を克服すべく誕生したということができる。自然に働きかけ、人間に有用な財・サービスを生産・分配する経済行為も、政治システムが誕生するとともに、共同体的慣習に従って営まれるだけでなく、君主や領主の指令にも従って実行されることになる

このように政治システムが誕生すると、君主や領主という支配者は、共同体的慣習を利用しながら、指令によって経済をも支配し、巨大な余剰を手中に収める。もっとも、支配者は社会を支配するためには、強制力を行使するだけでなく、被支配者の生存に必要なニーズを充足する義務を負う。そのため支配者は、ひとたび飢饉に陥れば自らの蔵を開き、領民を救済しなければならなかった。こうして暴力を媒介とする支配も、被支配者が支配者の支配に服従する代わりに、支配者によって被支配者の生存が保障されていなければ、円滑に機能しないことになる。

神野は、「強制力に基く支配・被支配関係」を「政治システム」と呼んでいる。「君主」や「領主」という言葉が出てくることから明らかなように、これは「中世」の政治システムであり、「近代」の政治システムではない。もっとも、「現代」の政治システムがどうであるかは、勉強中なのでいまは何とも言えない。ただ、中世的な「強制力(武力)に基く支配・被支配関係」が、さまざまなコミュニティにおいて残存しているらしいことには留意しておきたい。

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アウシュビッツ第二収容所  https://www.veltra.com/jp/europe/poland/krakow/a/12427/reviews

*1:働く能力のない生後間もない幼児は、市場から生存に必要な財・サービスを購入できるわけがない。家族という情緒的紐帯に基く人間関係の下で、幼児の生存に必要な財・サービスが、その必要に応じて配分されて始めて、幼児は生存することが出来る。つまり、生後間もない幼児は、市場的人間関係のもとにさらされれば、死を待つしかないのである(神野)。…幼児のみならず、身体的・精神的に問題があり、療養や介護を要する者についても同様である。市場において、等価物の交換は不可能である。