アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(1)*1
本書の内容は、次の通り。いずれも興味をそそられるタイトルである。
第1章 「ナンバー・ワン」の脅迫概念
第2章 競争は避けられないものなのだろうか-「人間性」という神話
第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬
第4章 競争はもっと楽しいものなのだろうか-スポーツ、遊び、娯楽について
第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうか-心理学的な考察
第6章 相互の対立-対人関係の考察
第7章 汚い手をつかう口実
第8章 女性と競争
第9章 競争をこえて-変化をもたらすためのさまざまな考え方
第10章 ともに学ぶ
山本啓は、訳者あとがきで次のように述べている。
コーンの関心は、教育のジャンルにとどまらず、人間行動、社会理論などに及ぶものであり、彼の旺盛な執筆、講演活動も、そのことを実証している。したがって、彼の立場に関しては、教育問題をテーマにしながら社会における人間行動の全体を論じる社会理論と位置づけるのが、彼の本意に沿うものだと言えるだろう。
今回は、第1章 「ナンバー・ワン」の強迫観念 である。
私が行いたいと思っているのは、他人を打ち負かそうとする行為が実際どのような意味を持つのかということに目を向け、ある人々が勝利するためには別の人が敗北しなければならないような仕組みがどのようなものなのかについて、目を凝らして考察してみることである。
私たちの日々の生活に「不安」(安らかな心でいられないこと)や「不満」(満足していないこと)があるならば、私たちは「社会の仕組み」に目を向けなければならない。まったくの個人的な事柄(性格や能力等)に帰せられることのように見えて、その実「社会の仕組み」が大きな影響を及ぼしていることを見落としてはならないだろう。*2
「我が国においては、競争は、ほとんど宗教そのものだ」とある研究者は言っている。また、「アメリカ文化の常備薬だ」と別の研究者は述べている。「競争に反対すれば、反アメリカ的だとみなされる」と更にもう一人の観察者が書き留めている。
アメリカの経済システムは、競争に基いている。学校教育も、一年生のころから、他人に勝つだけでなく、他人を自分の成功を阻む障害物とみなすように訓練するのである。余暇の時間にも、きわめて組織的に行われるゲームが目白押しであり、一方の個人ないしはチームが、もう一方の個人ないしはチームを打ち負かさなければならないのである。
アメリカのみではない。ロシアも中国も日本も欧州諸国も、すべての国において、競争はほとんど宗教そのものになっているかのようである。*3
我々は、競争行動に熱中するだけでなく、他のものも、ほとんどすべてを競い合いに変えてしまうのである。…もっと生産性を上げるためには、職場の同僚と闘うだけでは十分ではない。最も忠実な従業員というタイトルをかけて競争しなければならないのである。…このようなことから逃れようと思って、例えばダンスをしに外出したとしても、そこでもまた競い合いに巻き込まれていることを思い知らされてしまう。我々の生活のどこをとってみても、あまりにもありふれたものであるために、あるいは逆にあまりにも重要なものであるために、自分を他人と比較して評価するよう強制されないものなどないのである。
「職場では、最も忠実な従業員というタイトルをかけて競争している」のは、恐らく誰もが納得しうるだろう。では、誰が「最も忠実な従業員というタイトル戦」を創設したのか? スポンサーは誰なのか? と問うことができるか。
このことは、職場以外のほとんどあらゆる活動に一般化し得るだろう。「他人と比較して評価する」ことが「当たり前」になっている。なぜ他人と比較しなければならないのか?
仕事をし、子供たちを教育し、週末に休みをとることが、誰かが負わなければならない闘争の状況の中で生じるのだという時点にすでに行きついてしまっているように見える。従って、仕事や教育を行うにしても別のやり方があるかもしれないということは、想像しにくくなっている。…たいていの場合は、ただ「これが当たり前のやり方なのだ」と受け入れるだけなのである。
「当たり前」ではなく、「別のやり方」があるかもしれないのである。「別のやり方」を探らなければならない。
現代においては、ビジネスにおける競争に最も顕著に現れているように、こうした問題は、まさに時代を象徴するものになっている。書店には、市場で勝者になるための手引きがあふれているが、それは、主にここ数年の間にワシントンからまき散らされた美辞麗句のお陰である。実際、後先も考えずに競争が煽られてしまったために、選挙によって選ばれた代表者から私企業に、また理論上は、すべての市民に責任を持つと想定されている者から、せいぜい利益を上げることに固執するごく僅かな人々だけに責任を持つ者に権力が移行する結果を招いている。
「勝者になるための手引き」は大昔からある。近年は、ネットでのビジネスのノウハウや受験指導。競争の価値観を肯定している(競争を煽っている)、と感じる。ITが競争のツールになっている。
「選挙によって選ばれた代表者から私企業に」と「すべての市民に責任を持つと想定されている者から、せいぜい利益を上げることに固執するごく僅かな人々だけに責任を持つ者に権力が移行」とは同じことを言っている。…民営化、市場万能主義、公共の福祉の軽視。
これから数年後に、企業が成功する秘訣なるものがいまほど幅を利かせなくなったとしても、また公務員が自分たちのことを私企業の応援団長だとみなさなくなったとしても、わが国の経済システムは、根本的に競争に基いているのであり、この問題の究明も、その点に関わるものであり続けるだろう。
「公務員が自分たちのことを私企業の応援団長だとみなさなくなったとしても」…当初「私企業の応援団長」になろうと思っていなくても、競争の結果、客観的には「私企業の応援団長」になっていくのだろう。
構造的な競争と意図的な競争とを区別したほうがいい。前者は状況についてかたったものであり、後者は態度について語ったものである。構造的な競争は、勝利/敗北の枠組みを取り扱うもので、外在的なものである。それに対して、意図的な競争は、内在的なもので、ナンバー・ワンになりたいと思う個人の側の願望に関するものである。
ある行動が構造的な競争にあたると言えるのは、互いに排他的な目標達成と私が名づけるものを特徴としているからである。これは、自分が成功するためには相手が失敗しなければならないということである。…何人かの社会科学者が見抜いているように、これが競争の本質なのである。
誰かが1位になれば、他の者は1位になれない。なぜ1位になりたいのか?
殆どの競い合いにおいて目標とされるのは、単に素晴らしい地位に過ぎないことが多い。構造的な競争は、普通は複数の個人の間で比較してみて、その中のただ一人だけが最高のものを手に入れるというようにして競い合いが行われていく。競争そのものが目標を設定するのであり、その目標とは勝利することである。
「素晴らしい地位」が何を意味するのかよく分からない。「競争そのものが目標を設定する」というのもよく分からない。
構造的な競争は、いくつかの基準に従って区別することができる。例えば、競争は、勝者が何人なのかによって違ってくる。…Aという人間が入学を認められたことによって、Bという人間の入学が必ず妨げられてしまうということはない。毎年、水着姿のただ一人の女性がミス・アメリカの王冠に輝くわけだが、もしミス・モンタナが勝てば、ミス・ニュージャージーが勝つことはありえない。これら二つの競争の場合には、勝利は、誰かが主観的に判断した結果なのである。…美人コンテストにも、大学の入学許可にも、もう一つの特徴がある。それは、両方とも競争の参加者が直接に相互行為をかわす必要がないという点である。
「一定レベル以上をすべて合格とする」というのは、構造的な競争であるか否か? 合格者は「勝ち組」で、不合格者は「負け組」なのか?
意図的な競争を定義づけるのは簡単である。けれども、後で見ていくように、そのニュアンスは実はとても微妙で、複雑である。ここでは個人の競争意識について、つまり人間には他人を打ち負かそうとする性向があるということについて述べるだけにしておこう。…例えば、ある人がパーティに参加したとしても、賞品が与えられるわけでもなく、誰もそんなことはこれっぽっちも考えないにもかかわらず、その席上で自分がもっとも知的で、魅力的な人間であることを証明してみせたい気になる場合などが、それにあたる。精神分析学者のカレン・ホーナイは、このような人間のことを神経質で、「つねに自分を他人と比べて、そうする必要がない場合でもそうするような」人間なのだと述べている。
パーティで「自分がもっとも知的で、魅力的な人間であること」あるいは「面白い人間であること」を証明してみせたい気になるのは、「他人を打ち負かそうとする性向」があるのだろうか。ホーナイの言うように「神経質で、自分と他人を比べたがる人間」なのだろうか。この例は適切であるとは思えないが、「他人と比較して、自己の優越性を誇示したがる人間」がどこにもいることは否めないところである。
意図的な競争を伴わない構造的な競争もまたありうる。自分が他人より優れているということに特別に関心を持たなくとも、自分では全力を尽くしてみたいと思うような場合があるかもしれないが、そのような場合に、自分が競争に巻き込まれていることに気づくのである。つまり、成功を勝利と定義づけるのは、意図ではなく、むしろ構造なのである。競争するのがいやなのに、それを避けることができないことに気づくのである。周知のように、この状態は、不幸な、緊張した状態である。意図的な競争を伴わない構造的な競争の最も極端な例は、それとは意識しないままに、それぞれの個人がランク付けされ、報酬が与えられる状況である。学生たちは、互いに相手を打ち負かそうとは思っていなくても、ランク付けに基いて選り分けられてしまうだろう。
ここは大事なところだ。確かに、「自分が他人より優れているということに特別に関心を持たなくとも、自分では全力を尽くしてみたいと思うような場合」がある。「自己実現の欲求」と言って良いかもしれない。ところが、これが「ある場」では「競争」になってしまう。「意図的な競争を伴わない構造的な競争」である。そのような場、「構造」が問題視されねばならない。*4
http://aia-phoenixmetro.org/competition-1
最後に、競争は個人や集団の間にも存在し得るというかなりはっきりした事実に注目してみよう。集団が個人を排除することはない。二つの法人や二つの国家でもいいし、二つのバスケットボール・チームでもいいが、互いに競い合っている場合、これらの集団に属する人々がお金や地位を手に入れるために競争するということはあり得る。集団の間の競争は集団間の競争として知られており、また集団のなかの個人の間の競争は、集団内の競争と呼ばれている。この二つを区別することが重要であるという点については、後の章で明らかになる。
集団内で競争している人たちが、集団間の競争では結束するという事態は、どう考えればよいのだろうか。これは問いとして残しておこう。
*1:アルフィ・コーン、『競争社会をこえて』(訳:山本啓/真水康樹)(法政大学出版局 1994年)。No Contest: The Case Against Competition (Houghton Mifflin, 1992)の翻訳。第1版は1986年。コーンは、1987年本書の出版に対して、米国心理学会賞を受賞した。
*2:何も「不安」や「不満」がないとしたら、それは「不安」や「不満」を抱えている人の存在を知らないか、無視しているのである。彼らは「能天気」とか「エゴイスト」と呼ばれる。ホモ・エコノミクスは、この部類に属する。
*3:もっとも、こういう物言いは、(現時点では)粗雑な決めつけと判断されるかもしれない。「競争」の何が問題なのかは、これから説明されるだろう。
*4:
勝つことと成功することの違い(The difference between winning and succeeding)
私は成績で生徒を評価するのは好きではありませんでした。成績がよかったり、スポーツで得点を獲得することが成功ではないと思ったので、自分なりの成功の定義を考えたのです。…人よりうまくやろうと思ってはいけない、いつも、他人から学びなさい。ベストを尽くすことをやめてはいけない。それは自分でコントロールできることだ。自分でコントロールできないことに、気を取られるすぎると、自分がコントロールできることもうまくできなくなってしまいます。そして、私はこんな言葉に出会いました。
“At God’s footstool to confess, a poor soul knelt, and bowed his head. ‘I failed!’ he cried. The Master said, ‘Thou didst thy best, that is success.'”
神の前で、ひざまづき、頭をたれ、「私は負けた」と泣く男に、神は言った。「ベストを尽くすこと、それが成功だ」。
こうした事柄から、私は、自分自身の成功の定義をしました。つまり
Peace of mind attained only through self-satisfaction in knowing you made the effort to do the best of which you’re capable.
安らかな心は、自分は最善を尽くしたという自己満足からのみ得られる。
(John Wooden、https://www.ted.com/talks/john_wooden_on_the_difference_between_winning_and_success/transcript?language=en#t-237145)