浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「予算」とは、行政府に対して執行権限を付与し、その執行を管理する文書である。

神野直彦『財政学』(6)

今回は、第6章 財政のコントロール・システムとしての予算 である。

 

財政民主主義

  • 予算とは、一定期間における予定収支でもなければ、拘束力のない財政計画でもない。予算とは一定期間の財政をコントロールする拘束力のある文書である。
  • 政府の収入は予算で決定すれば、強制力によって調達できる。
  • 市場社会の予算は、被統治者が統治者の統治行為に、必要な収入と支出に権限を付与する権限付与書である。

これは、神野が勝手に述べているわけではない。財務省は次のように言っている*1

予算とは、議会による行政府に対する財政権(歳出に関する執行権限)の付与である。このため、我が国の予算書は、国会が行政府に対して歳出権を付与することを基本的な目的とし、適正な資源配分とその執行を管理するための書類である。(公会計に関する基本的考え方財政制度等審議会

「予算」とは、行政府に対して執行権限を付与し、その執行を管理する文書である。このことは、しっかりと覚えておきたい。

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https://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2019/seifuan31/01.pdf

 

市場社会では生産要素は、被統治者が私有財産として所有している。そのため統治者は、被統治者が所有している私有財産が生みだす所得から、貨幣を調達して統治せざるを得ない。即ち、予算とは、統治者が被統治者に、収入と支出に関する権限付与を要求する許可要求書であり、ひとたび被統治者の合意が得られれば、統治者に必要な収入と支出の権限を与える権限付与書となる。

「被統治者が所有している私有財産が生みだす所得から貨幣を調達する」とは、所得税や資産税が該当しよう。消費税はまた別物である。

  • こうして市場社会では、予算によって、被統治者が統治者の統治をコントロールすることができる。予算には統治に必要な収入と支出の計画が、すべて盛り込まれているからである。
  • 被統治者が、財政を予算を通じてコントロールすること、つまり財政民主主義は、市場社会の成立と共に一挙に実現したわけではない。それは3つの段階(課税承認権→支出承認権→予算制度)を辿って実現している。

神野は「統治」という言葉がお好みのようだが、「議会」とか「行政府」と言っておけばよいだろう。

財政民主主義は、次の4点に要約することができる。
  1. 租税や公債など、国民に貨幣的負担を負わせる政府の行為、及びその前提となる経費支出については、議会の議決を通じて国民の承認を得ることとする。
  2. 歳入及び歳出は、予算という形式の文書にして議会の承認を得なければならない。
  3. 歳入及び歳出の結果は、決算という形式の文書にして議会の承認を得なければならない。

「国民に貨幣的負担を負わせる」という言い方は語弊がある。民主主義社会では、私たちが、ルール(法律)を定めて、税金を納めるのである。この税金が正しく使われたかどうかは、決算書にして、議会の承認を得なければならないのは当然のことである。

 

市場の失敗

政府が公共サービスを供給するのは、一般的には「市場の失敗」が存在するからだと説明されるが、本当にそうだろうか。「市場の失敗」とは何であったか。

  • 市場の失敗とは、完全競争市場を使用しても、効率的な資源配分が達成できない場合である。それは、①公共財、②費用逓減現象、③外部性、④不確実性、の4つに集約されている。
  • 公共財とは、非排除性と非競合性という性格を備えた財と定義される。非排除性とは、特定の消費者を消費から排除することが、不可能な財の性格であり、非競合性とは、特定の消費者が消費しても、消費量が減少しないという財の性格をいう。
  • 非排除性も非競合性も相対的な概念であるから、純粋な公共財[非排除的かつ非競合的な財]はほとんど存在しない。排除性あるいは競合性という概念が相対化されるのは、排除性あるいは競合性という性格が、その財に固有な性格というよりも、その財に私的所有権が設定されるか否かに基いているからである。
  • 例えば、私的に所有されている庭園も、政府に寄付され、公園となれば、非排除性を備えることになる。
  • つまり、非排除性や非競合性は、私的所有不可能性の要素ということができる。非排除性や非競合性を備えた財を、「市場の失敗」として説明しようとする試みは、私的所有権の設定されない財は、市場では取引できないと言っているに過ぎないと考えてもよいのである。

神野の主張は、「市場の失敗とは、私的所有権の設定されない財は、市場では取引できないということを言っているに過ぎない」というものである。「私的所有」*2の話になると、一筋縄ではいかないというふうに感じているので、ここではコメントしないことにする。ただ、「民営化」(水道民営化)とか、「土地公有化」(空家・空地対策)とか、「第三セクター」とか、「NPONGO」とか関連する話題は多いので、理論モデルに偏重しない理解が必要だということに留意しておきたい。

  • もっとも、市場が失敗するからといって、政府が必ず予算という手続きによって処理しなければならないという理由とはならない。
  • 市場を経由しないで損害を与える外部不経済(公害など)や、市場を経由しないで利益を与える外部経済(個人が所有している庭園の緑地など)という外部性は、課税補助金という予算で対応することもできるが、当事者間の交渉や合併という、予算に依拠しない解決もある。
  • 不確実性についても、火災などのように、発生が不確実な事態への対応は、消防という公共サービスによらなくとも、それこそ民間保険によっても解決可能となる。

ある問題があるとき、様々な対応策があるものである。どのような対応策を採るかについては、「目的」と「対応策の効果」の慎重な検討が必要である。また、政府(公共)か民間(市場)かの二者択一でなければならない、というものでもない。公害問題は「課税」だけで済む話ではない。個人庭園を公園にするのに「補助金」を出すというような一見単純な話も、「土地所有権」という難問が背景にある。火災への対処が「民間保険」によって解決可能とはいっても、それは問題の一部の解決に役立つに過ぎない。

  • 逆に、「市場の失敗」が生じなくとも、予算で処理しなければならない問題もある。例えば、市場が分配する所得は、社会の構成員にとって、「公正」だと考えられないことがありうる。また、市場が正常に機能しても、景気変動が起こり、労働市場で雇用されない失業者が大量に生じることもある。
  • そのため財政は、所得再分配や景気調整の機能を担わなければならなくなる。もっとも、所得分配の不公平を「市場の外在的欠陥」、景気変動を「市場の機能障害」と位置づけ、広義の「市場の失敗」と位置づけることもできる。
  • しかし、「市場の失敗」とはあくまでも、「完全競争市場を十分に活用してもなお資源の最適配分に失敗するもの」と理解すべきである。こうした「市場の内在的欠陥」ともいうべき、本来の「市場の失敗」に加えて、所得分配の不公平や景気変動も、「市場の失敗」に含めるとしても、それが失敗か否かは程度問題となる。つまり、所得分配の不公平や景気変動では、それによって社会問題が発生しなければ、「失敗」とは言えないからである。

「所得分配の不公平」や「景気変動」については、きちんと理解しないと「市場の失敗」かどうかは何とも言えない。市場とは本来そういうものであるのかもしれない。

神野は「所得分配の不公平や景気変動では、それによって社会問題が発生しなければ、「失敗」とは言えない」と言うが、これは賛成できない。「社会問題」が発生するかどうかは、何をもって「社会問題」と称するのかによって異なる。ある人にとっては「社会問題」であり、別の人にとっては「社会問題」ではない。

 

財政のコントロール

戦時や戦後、大災害時には、食料という純粋な私的財も、予算によって配給される。食料を供給しなければ、社会システムで営まれている人間の生活が維持できず、社会システムから忠誠が調達できなければ、社会秩序が乱れて、私的所有権を供給することができなくなって、経済システムも機能不全に陥ってしまうのである。

大災害時を想定しよう。「私的所有権を供給することができなくなる」とは、奇妙な表現であるが、飢餓を避けるために、強盗・殺人が発生する、つまりは「私的所有権」など、有って無きが如くなるという意味だろう。

逆に、消防という公共財であっても、社会システムであるコミュニティが消防団を結成して対応していれば、政治システムは予算で供給することはない。

これはちょっと言い過ぎだろう。火災がおきた後の消防団の消火活動のみをいうのであれば妥当するかもしれないが、「火災の予防、警戒」のための危険物の取扱いに関する諸規制等(消防法)も「消防という公共サービス」の一部とみてよい。

つまり、政治システムが、予算を通じて経済システムと社会システムに公共サービスを供給するのは、支配-被支配関係を維持して社会統合を果たすためなのである。

民主主義社会であるならば、この「支配-被支配関係」とか「社会統合」とかいう言い方が気になる。大方の合意をもって、公共サービスの供給により、私たちが共に生きる社会が維持される、と言うべきではないか。

支配者が本源的生産要素*3を領有している場合には、予算を作成する必要はない。被支配者が本源的生産要素を私的に所有するようになり、支配者が本源的生産要素を所有しない「無産国家」になって初めて、予算が登場する。

「本源的生産要素」などという難しい言葉を使う必要はない。「土地と労働」と言っておけば良い。民主主義国家では、基本的に国家が土地や労働を所有することはない(国有地については議論が必要)。

  • つまり、予算とは被支配者の合意を得て、私有財産の果実を租税として調達して、社会統合を果たしていくための手段なのである。これをメダルの裏面から表現すれば、被支配者が社会を支配していくための手段が予算だということができる。
  • 市場社会では、被支配者が支配者となるという民主主義が建前となっている。予算とは被支配者が支配者として、財政をコントロールするための手続なのである。
  • 逆に財政をコントロールするために、こうした予算という手続きが必要なのは、市場社会では被支配者が支配者であるからである。つまり、被支配者が支配するためには、予算という手続きによって被支配者の合意を得て、財政を運営して、社会統合を果たすという支配行為を遂行しなければならないのである。

歴史的経緯を意識しての「支配者、被支配者」とか「家産国家、無産国家」とかいう言葉を使用しているのだろうが、歴史の勉強ではなく、現代民主主義国家を前提しての財政の議論ならば、紛らわしい。「被支配者が支配者となる」というような言い方をすると、かつての支配-被支配が逆転したかのような印象を受ける。

*1:たまたま目についたので引用したが、おそらく他の箇所でも同じことを言っているだろう。

*2:立岩真也『私的所有論』参照。(読書ノート中)

*3:本源的生産要素…生産要素 (労働,土地,資本) のうち資本を除いた労働,土地をいう。…本源的とは単に一番最初の段階に投入されるという意味だけではなく,機械などとは異なって労働用役や土地用役は人的,物的力によって勝手に生産したり破壊したりできないものであるという意味を含む。(ブリタニカ国際大百科事典)