井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(4)
井上は、「正義」に対して嫌悪を抱くような感情の3つの要因を挙げていた。
- 「正義よりも平和を」というスローガンに要約される発想。
- 正義に関するあらゆる思弁は、その本質において、支配階級のそれを代弁するイデオロギーに他ならない。
- 何が正義であるかの判断は、客観的基礎を持たず、主観的・恣意的なものである。
今回は、第1章 正義論は可能か 第4節 相対主義 であるが、これは、上記3.に相当する。
井上は、相対主義の概念の曖昧さが、議論に混乱を持ち込むとともに、相対主義に「不当利得」的な説得力を与えているとして、「些か退屈な分類学的議論」をしている。本書の叙述に従い、これをみておこう。(たぶん、次回から面白くなるだろう)。
相対主義の概念
ある領域に関して、価値観が多様であることが観察されたとしても、その経験を一般化することはできない。「普遍人類的に共有されている価値観・規範意識」が存在するか否かという事実に関する言明は、いかなる事実に関してかによって異なるだろう。
規範的相対主義に関して、井上は次のように述べている。
客観的価値は統一的な権威が教示すべきものではなく、各主体が自分自身で探求し発見すべきものであるという倫理的自律の理念に基づき、あるいはまた、多様な価値観の間での自由な批判的論議を通じてこそ、客観的価値への接近が可能になると言う観点から、客観的価値の存在を信じながら規範的相対主義に与することは、論理的に一貫した立場である。しかも、規範的相対主義はそれ自身の規範的主張に客観的妥当性をクレイム[要請]している以上、客観主義と矛盾しないだけでなく、実は客観主義にコミットしているのである。
なるほど。客観的価値の存在を信じながら、規範的相対主義に与することは、論理的に一貫している! 特に、赤・太字にした部分は、銘記しておきたい。
非普遍主義に関して、井上は次のように述べている。
[非普遍主義は、歴史的・文化的・経済的な]条件を超越して、「普遍的」に妥当する価値判断の存在を否定するが、ある価値判断が妥当するか否かは、判断主体の意欲や願望によって恣意的に左右[することが]できない客観的な問題であることを承認する。
歴史的・文化的・経済的な条件を超越して、「普遍的」に妥当する価値判断の存在を否定する。これは逆に言えば、ある一定の歴史的・文化的・経済的な条件の範囲内であれば、「普遍的」に妥当する価値判断が存在する、ということになるのではないか。ある価値判断の妥当性は、そのような条件の範囲内での客観的な問題だろう。
相対主義というファッション
「相対主義者」を自認することは、「開明的」な自己イメージを提供してくれるため、現代日本においてはなお支配的な知的ファッションである。
現在もなお、知的ファッションであり続けているように思われる。そういう化粧で素顔を覆い隠しているのかもしれないが…。
個性の尊重あるいは個性化の必要という見地から相対主義を説く人は、多くの場合、規範的相対主義者である。
先進産業諸国と同様な近代化への道を性急に辿ろうとした結果、農業を荒廃させ大量の餓死者を出しているアフリカ諸国の惨状などに印象付けられて、文化的相対主義を唱道する人々もいるが、彼らの真意は恐らく規範的相対主義か非普遍主義、あるいはその両方にあるのだろう。
同じ文化的相対主義でも、個人の価値観・規範意識の文化拘束性を強調するだけなら経験的相対主義である。同様に、歴史主義的発想から唱えられる相対主義も、経験的相対主義・規範的相対主義・非普遍主義のいずれか、あるいはそれらの適当な組合せによって定式化することが可能であろう。
文化相対主義とは、
人類学用語。人間の諸文化をそれぞれ独自の価値体系をもつ対等な存在としてとらえる態度,研究方法のこと。みずからの文化を,唯一・最高のものとして考えるエスノセントリズム (自民族中心主義) に対する批判として形成された概念で,アメリカの人類学者 F.ボアズが提唱し,R.ベネディクトによって確立されたといわれる。たとえば,一夫多妻婚,嬰児殺しなど,他の社会では悪とみなされる制度や慣習も,文化相対主義に立って当事者の立場から価値評価することで,その意味や目的,役割は理解されうる。このような中立的な姿勢は,文化の多様性を容認して異文化間の相互理解を促し,また,人類学の基本倫理ともなってきた。しかしこれを推し進めれば,すべての価値は相対的であり,人類に共通の基盤が存在せず,相互理解,比較研究は不可能であるという矛盾に陥る。また完全に客観的な立場というものの可能性を疑い,研究者は中立的に沈黙するのではなく,対象社会の利益のために積極的に行動すべきであるという批判もある。(ブリタニカ国際大百科事典)
「自国中心主義」(~ファースト)は、エスノセントリズムと言ってよいかもしれない。それを批判することは、規範的相対主義になる。しかし、そこに留まっていては、客観的価値・普遍のあり様を探求することにはならない。