浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「体外受精・胚移植」技術利用の希望と不安

立岩真也『私的所有論』(30)

前回、生殖技術に関する基礎知識を仕入れたので、今回は、第4章 他者 第5節 生殖技術について を読んでいこう*1。このような技術の利用により、失うものと得るものがある。

 

1.体外受精胚移植の技術を利用して自らが出産する場合

体外受精胚移植とは、「採卵により未受精卵を体外に取り出し、精子と共存させる(媒精)ことにより得られた受精卵を、数日培養後、子宮に移植する(胚移植)治療法」(日本生殖医学会の「不妊症Q&A」)である。

この技術の利用により、「身体への侵襲」がおきる。「医療行為としての侵襲は、外科手術などによって人体を切開したり、人体の一部を切除する行為や薬剤の投与によって生体内になんらかの変化をもたらす行為などを指す」(Wikipedia)。未受精卵の取り出しや受精卵の子宮への移植は、医療行為としての侵襲にあたり、医師は身体の維持・管理を行うことになる。

立岩は、次のように述べている。

  • そうした身体の維持管理を、結果を待ちながら、結果が出ない間、継続し続けなければならない。
  • 技術の使用が可能な場合、まず可能であることが知られることによって、現状にとどまることに不利益の感覚が生じる。
  • 期待値=成功による利得×成功の確率がコストを上回るなら、その行為が行われるとされる。…こんな掛け算を実際に私達が行うわけではないが、実感から全くかけ離れているのでもない。
  • 技術の使用に応ずれば、行えるのに行わないという不快は解消する。同時に技術の使用に応ずることによるコストが生ずる。
  • 得るところが無ければ、コストと不利益が残る。
  • これは自己決定の前提としての情報のあり方の問題というより、自己決定、私達の欲望が実現されようとするその過程そのものが孕んでしまう事態である。
  • このような事態が、様々な新しい技術の切り拓く可能性を私達が素直に受け入れられない心情*2のかなりの部分を占めるはずだ。
  • 「藁をもすがる」(確かに可能性が全くないわけではない)ことが可能になってしまうことに対する不快である。
  • 希望~焦燥と不安がどれほどのものか。行われた後の幸福と不幸のバランスがどうなっているのか。過去の人より現代に生きる人は幸福か。

子どもが欲しい人に、「新しい技術」が、リスク*3はあるが子どもを得る可能性を与えるとしたら、技術を利用しないことによる不利益の感覚や、技術を利用してうまくいかなかった場合の失望感や金銭的損失がある。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。

リスクのある手術や副作用が予想される薬を使うか使わないかと同じである。これは賭けである。

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https://www.3hsurgery.com/blog/the-emotional-lift-during-ivf#.XsNqlWj7SHs

 

情報提供に関してはどうか。

  • 事前に成功の可能性と負担についての情報提供が十分になされたのなら、それを前提に決定が当事者に委ねられたなら、結局失望に終わることの方が多いにしても、そのことを知った上でのことだから仕方のないことだ、それはその技術の応用を行わない根拠にはならないと主張される。

この通りなら確かにそうだろう。しかし「成功の可能性と[身体的・精神的]負担」について、医師が十分に情報提供できるかどうか疑問である。

  • 身体のただの不快さを小さなものと見積もってしまうような世界、私が為すことによって、「挑戦」することによって、評価される世界にいることによって、為さない選択の方が難しいことは確かだ。

私たちは、確かに、このような世界にいるようだ。そして、為すことを選択することによって、要するに「治験」によって、技術が進歩する。…為さない選択をすることが難しい状況にあるようだ。薬漬けで長生きする。医療の現実。

 

不妊治療は治療ではないという批判

  • 男性の側に原因がある場合に為される体外受精でも身体に負担がかかるのは女性であり、その女性の身体に大きな負担をかけて得られる(かもしれない)ものは、自身の身体の健康ではない。不妊治療は「治療」と呼び得ない。身体を毀損することは認められない。不妊治療は正当化されない、という批判。
  • しかし、不妊が病気でなく、その限りで生殖技術の行使が医療ではないとしても、それを受けることを選択する以上は、それは許容されて良い、という上記批判に対する反論。「私の身体に対する私の決定」をその言葉通りに取るなら、他者のためであるにせよ、それが私の意志、私の決定に属する限りで、許容されるはずだ、と。

立岩は、「治療ではないという批判の核心」は次の点にあるという。[ ]内は私が補足したもの(誤解があるかもしれない。他の記事でも同様)。

  • [不妊治療は子どもが欲しい人のためにある]。それはその「治療」を受ける人[女性、妻]以外の人、男性[夫]、私たち[夫婦]が欲するものでもある。ここに治療との違いがあり、当人のまわりにいる人たち[夫、父母、家共同体]による介入の可能性がある。
  • その人=私にとって、他人[夫、父母、家共同体]の要求、他人の思いの方が大切であり、そのことによって私がその要求、思いに応じることはある。しかし、少なくともその他人が要求しないことはできる。だから要求してはならない。

「要求に応じる」ことと、「思いに応じる」ことは違う。

他人の思いに応じるとは、しぶしぶ/要求に屈して応じるのではなく、自ら望んで他人の思いに応じるということである。さすがに今日、家共同体のためにという人は少ないだろうが、夫のために/私たちのためにということはありうることである。

要求に応じるとは、しぶしぶ/要求に屈して応じることである。要求してはならないというのは、他者の身体を毀損する可能性を考えよということである。

  • そういうものであるなら、それは同意があったとしても幸福を増大させるとしても、そして/あるいは、平等を達成するとしても、為されるべきではないと言いうる。

他人[夫、父母、家共同体]に要求されて、しぶしぶ体外受精胚移植をするのであれば、それは「強制された同意」であり(「自白強要」のようなものである)、「幸福を増大させる」ことはない。

  • 他人の要求によって決定したのか、それともそうでないのか。両者の境界は微妙である。そんな微妙なところで境界線をひけるものではないと言われる。常套的な言い草だ。しかし、微妙であるという事実は、差異[「要求に応じる」ことと、「思いに応じる」ことの差異]を消去することではないし、差異を尊重しようという行いが無駄であることを意味するものではない。

外部から客観的に、境界線は引けないかもしれないが、「要求に応じる」ことと、「思いに応じる」ことが、主観的には(当人にとっては)異なることは明らかである。ただ今日では、父母、家共同体からの要求はほとんど無いと考えられ、問題の重要性は小さいと考えられる。

*1:第1項「抵抗の所在」についてはパスし、第2項「単なる快と不快という代償」から読んでいくことにする。

*2:生殖技術に限らず、一般的に「新しい技術」はメリット・デメリットがあり、メリットのみを強調して「新しい技術」を推進しようとする勢力の言い分には気をつけなければならない。

*3:たぶん、本書が書かれた当時(1997年)よりは、リスクは低減しているだろう。