浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

私たちの人生は、ジグソーパズルである

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(12)

今回から、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 に入る。

  • 競争をやめてしまうと、素晴らしい生産性はもちろんのこと、最低限の生産性さえも失われてしまうといった単純な確信が繰り返されている。
  • 競争というのは、目標のあくなき追及であり、能力を身につけることであり、成功にたどりつくことだとされる。
  • 成功(あるいは生産性、あるいは目標の達成)が競争を意味しているという前提に依拠するのが、競争を擁護する見解の中でももっともありふれたものである。
  • 「特に、アメリカ人の心は、成功を勝利と同じものだとみなし、うまくやるということを、誰か他人を打ち負かすことと同一視するように訓練されてきている」(エリオット・アロンソン)

「競争に打ち勝った者が、成功者である」という観念は根強い。有名大学・大学院生は受験競争に打ち勝った者である。政治家は、選挙戦に打ち勝った者である。大企業の役員・管理職や中央省庁の事務次官・管理職は、内部の出世争いに打ち勝ったものである。スポーツ、芸能、科学等々、トップに名を馳せた者は、いずれも競争に打ち勝った者である。彼らは名誉とカネを得る。

「生産性」あるいは「効率」というお題目がある。「アメリカン・ドリーム」というユートピアがある。

  • 成功と競争は、決して同じものではない。目標を設定し、その目標を達成する、また自分も他人も満足させながら自分が有能であることを証明するというのは、競争がなくともできる。
  • 相手の人間よりもうまくやろうなどとしなくとも、自分にも上手にマフラーを編み、本を書くことができる。
  • 成功と競争は、概念的には明らかに別のものである。現実の世界においては、この2つはどのような関係にあるのか

成功と競争は明白に別のものであるにもかかわらず、「成功は競争により得られる」という観念は根強い。果たして、現実はどうなのか。

 

業績と競争

コーンは、「競争は何と比べて生産的なのか」と問うている。

  • 他人を打ち負かそうとしている場合の方が、他人と協働したり、自分一人で作業を行う場合よりも、もっと素晴らしい成果を上げることになるのだろうか。(もちろん、課題の性質、遂行の手段、被験者の年齢と気質、実験の背景、そのほかにも様々な変数を特定する必要がある)。
  • こうした問いに対しては、「そんなことはほとんどない」という答えがかえってくる。
  • すぐれた成果をあげるためには、競争を必要としないだけではなく、競争など存在しない状態を求めるのが普通のように思われる。
  • 我々は、競争するように周到に訓練されているだけでなく、競争の枠組みがすぐれた成果をあげることになると信じるように入念に吹き込まれている

「競争するように訓練されている」、「信じるように…吹き込まれている」…ここではこの詳細説明はないが、恐らく後で出てくるだろう。ここが問題である。思い浮かぶのは、学校であり、メディアの報道であり、自由主義共産主義イデオロギーであり、法制度である。

 

  • 集団が比較的小さなものであり、課題がより複雑な場合には(特に課題の中に高度な問題の解決が含まれている場合には)、協力はより効果を発揮する。協力が相対的に有効かどうかは、課題を遂行する際に用いる手段について、被験者同士がどれくらい依存しあっているかどうかにかかっている。課題が「相互依存によって遂行されるもの」であればあるほど、協力はより一層役立つのである。

私は社会集団の中で大きなウェイトを占める「会社」を念頭に置いている。「会社」というと、出世競争をイメージする人がいるかもしれないが、現実は決して単純なものではない。今日、「優良企業」とされるところは、「協働」を重視する。部門エゴを排し、プロジェクトチームによる活動を重視している。仕事は互いに関連していることを理解している。

 

  • 最近では、どのような課題に取り組む場合でも、協力して行われる努力が、競争的なものや個人主義的なものよりも有効ではないなどということはない。ほとんどの課題(特に、概念の獲得、言語にかかわる問題の解決、カテゴリー化、空間的な問題の解決、記憶力と記憶、運動中枢、推測―判断―予測など学習していく上でかなり重要な課題)について、協力して努力が行われるならば、業績をもたらすうえでより効果を発揮するのである。(ジョンソン兄弟)

コーンがあげている課題は、教育(学習)の場面を想定しているように思われる。

 

  • 古典的な研究のなかには、協力をとりまく状況を、被験者が集団内において他人と協力しているものの、集団同士は互いに競争しているというように措定するものもある。(日本の産業界のしくみ)
  • この協力/競争の仕組みについて、協力が行われる状況の下であげられる業績のレベルが高いのは、実は集団間の競争のお陰なのではないかという疑問を持つ研究者がいたとしても理解できないわけではない。だがこれまでのところ、多くの実験者たちの間でも、この集団間の競争と言う変数は低い数値にとどまっており、そのため自信をもってこの問いを否定することができるほどである。

「集団内の協力-集団間の競争」の概念枠組みは、かなり普遍的な有効性を持っているように思われる。国家、営利企業、動物の群れ、個体(免疫系)……。

一集団の活動という側面から見れば、内部対立(競争)がなく、一体として(協力して)活動することが、有効であることは明白だろう。では他集団を考慮に入れたらどうなるか。1レベル上げて考えれば良い。国家間の対立の現状に対して、1レベル上げての思考が欠如している。問題は、それが何故か、ということである。それは「訓練されている」あるいは「吹き込まれている」からなのか。それとも「免疫系」が意味するように、人間という生物に組み込まれたものなのか。個体-群れ(集団)-共生、私は未だ明確な答えを持ち合わせていない。

 

報酬について

  • 勝者が全てを獲得するシステム(多くの競い合いが行き着くところである)、B.業績に比例した配分、C.平等な配分。
  • A,Bの配分の仕組みは、一生懸命に働くための決定的な刺激を与えるのは当然だとみなされることが多い。つまり望ましい報酬を勝者のためにとっておくことが、すぐれた素質を伸ばしていくと考えられているわけである。
  • 課題がうまく遂行されるかどうかが、協働が実現されるかどうかにかかっている場合には、平等な報酬のシステムは、「最高の結果をもたらし、勝者がすべてを獲得する競争システムは、最低の結果をもたらす」ということを、ドイッチュは確認している。

「課題がうまく遂行されるかどうかが、協働が実現されるかどうかにかかっていない場合」にはどうなのかの説明が無い。「課題」がいかなる性格のものかが、問題になるだろう。

「報酬」についても、いかなる報酬なのかが問題である。金銭なのか、名誉なのか、地位(パワー)なのか。

 

  • 作業を遂行する速度、解決された問題の数、呼び戻された情報の量といった業績の評価法から一旦目を転じて、遂行された作業の質を考慮してみると、競争があまりはかばかしいものでないことがわかる。
  • 最近の調査では、「競争的な条件よりも協力的な条件におけるほうが、明らかにより複雑な生産物が作り出されるのであり」、また「競争的で個人主義的な学習の状況においてみられる個別の推論よりも、協力し合う集団における討論の過程のほうが、学習に必要な、質的により高い認識方法を発見し、発達させるのに役立つ」ということが確証されている。
  • そうしてみると、互いに競争させる構造は、我々を生産的にするどころか、成果があがらないようにしてしまいがちなのである。教育が互いに競争し合う闘争に転化されてしまうならば、子どもたちの学習効果が上がるわけがないのである。
  • アメリカの教育のほとんどは、極めて個人主義的なものであり、それを煽り立てるのは、評価が競争的な構造になっているためである。(個人の場合だろうと、集団の場合だろうと)、競争が、カリキュラムそのものに反映されてしまうこともある。いい成績をあげるための容赦のない競争が一旦始められると、公然と競争するのはごく当たり前だという印象を生徒たちに与えていくのである。

私は教育の現状がどうなっているかよく知らないが、(少なくとも小中高までは)知識の詰め込みに終始しているのではないかと思っている。「議論、対話、創造、倫理…」がどれほど組み込まれているだろうか。

社会における組織の活動には、「暗記した知識」はほとんど必要ない。そんなものは後からいくらでも取得できる。暗記秀才は全く不要である。

教育における競争は、「暗記した知識」をめぐるものだろう。近年では、それらの弊害がヘイトスピーチツイッターや各種コメントでの罵詈雑言にあらわれているように見受けられる。

 

  • 協力は、人々を単に集団に組み込んでいくということだけを意味しているのではない。むしろ協力は、結果が一緒に努力した成果とみなされ、目標が共有され、それぞれの成員の成功が他のすべての成員の成功につながるような計画に集団として参加しているということを意味しているのである。実際、このことは、イデアや素材も共有されるのであり、場合によっては分業が行われ集団の全員が課題を首尾よくやり遂げることができれば報酬を受けとるということを意味している。
  • ジグソーパズル方式…ある有名な人物の生涯について学ぶという課題が与えられた場合に、集団の成員それぞれが、その人物の一生のうちある時期についての情報を与えられるというものである。このように、集団の成員は、割り当てられた課題をやり遂げるために互いに依存しあうのである。

ジグソーパズルというのは面白い。各人はピースを持っている。ピースは持ち寄らなければ完成しない。

私たちの社会は、そして私たちの人生は、ジグソーパズルである

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