浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

創造型あるいは合意形成型のディベート

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(14)

今回は、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 第2節 競争がなにもならないものだという説明(p.91~)である。

  • 課題をやり遂げることと、競争相手を打ち負かすこととは違う。これが競争が何もならない理由である。
  • 一人の人間がすぐれた指導者であるとともに、巧みな扇動家でもあるということも理論的にはありうるが、この二つの才能は全く別のものであり、一致するとすれば偶然にすぎないだろう。
  • 選手がライバルに勝ったかどうかで評価されるとなると、競い合いのなかで示された優秀さがどの程度のレベルなのかに関して、情報はほとんど与えられない。

「課題をやり遂げることと、競争相手を打ち負かすこととは違う」は、まさにその通り。

指導者と扇動家については、小泉・橋下・小池の名前が浮かんだ。

勝敗と優秀さに関しては、多くのスポーツ報道(特にオリンピック)が該当するだろう。将棋の藤井も?

 

競争的な論争(ディベート(pp.93-94)

コーンは、「競争的な論争」(ディベート)について、次のように述べている。

  • 討論大会において、ある解決策をめぐって1回戦では擁護し、2回戦では反対の立場に立つように求められる。論争の過程において実際に強調されるのは、論理の立て方であり、説得力のある話し方であり、自分が展開する議論すべてに相手側が応じきれないぐらい早口で話すことなのである。
  • その場において生じてくる疑問を完全に理解したり、真の確信を得たりするかどうかは重要ではない。
  • 確信について言えば、そんなものは全く持っていないほうがいいのである。何かを信じ込んでしまっていると、争点になっているものの裏表を見抜き、勝ち抜いていく能力がそがれてしまう。参加者にいやがうえにも二つの観点について考えるようにさせるという理由で、大抵の場合は、こうした仕組みが良いとされる。
  • それは、ある種のシニカルな相対主義を育んでいくという意味においてである。どんな立場にたってもうまく切り抜けることができるかどうかが問題なのだから、かえってどんな立場も持ち合わせていないほうが良いというだけのことなのである。
  • 競争的な論争の場合には、内心どのような結論を抱いているのかに関わりなく、誰がより優れた論者なのかを決定することにもっぱら焦点があてられるのである。

コーンのこのディベート批判に概ね同意できるのだが、微妙な点を含んでいるように思われる。

 

Wikipediaは、ディベートを次のように分類している。

  1. 広義のディベート…ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すること。討論(会)。
  2. 最広義のディベート…単なる議論を含む。
  3. 狭義のディベート…様々な教育目的のために行われる教育ディベート(educational debate)。
  4. 最狭義のディベート…説得力を競い合う競技の形態で行われる教育ディベート競技ディベート(competitive debate)。

この分類に従えば、コーンが批判するのは 4.の競技ディベートである。

 

競技ディベート

Wikipediaは、競技ディベートを次のように説明している。

  • ディベート一般において必要となる公的な主題と意見対立は、競技ディベートでは予め主催者によって設定される。
  • 主題(論題、topic)は、次のように分類される。①価値論題:ある事柄が良いか悪いかを扱う。②事実論題:ある事柄が有るか無いかを扱う。③政策論題:ある事柄が行われるべきか行われざるべきかを扱う。

価値論題はいかにも難しそうである。

事実の有無も、仮に「証拠」なるものがあるとしても、「証拠」の解釈にかなり依存するだろう(捏造されていなくても)。事実論題は、証拠の解釈をめぐる討論になるのだろうか。

おそらく政策論題はディベートにふさわしいのだろう。しかし政策の根拠は、結局のところ「事実の解釈」と「価値前提」の問題に帰着すると考えられる。

  • 競技ディベートでは、論題に対する立場を肯定・否定の2つに分けることで対立構造を設定する。
  • 役割分担は、様々な教育目的から参加者の意思とは無関係に行われることが慣習化している。
  • 競技ディベートでは、競技を進行させる形式(Format)や試合内容を検討し勝敗を決定するための審査基準(Judging Criteria)などが必要となる。進行形式や審査基準、そしてそれらの基底となるディベート観(Debate Paradigm)は、それ自体が激しいディベートの対象となっている。

進行形式(手続)や審査基準が重要であるのは言うまでもない。

ディベート観というのはよくわからないが、ディベートの目的というような意味だろうか。

  • 分類は多岐に渡るが、大きく議題が発表されてから数か月にわたって調査を可能とする「調査型(prepared debate, academic debate)」と、議題発表後15-30分で試合を開始する「即興型(parliamentary debate)」の2種類が存在する。
  • 米国のディベートスタイルの大きな特色は、ディベートを政策決定プロセスのモデルとして考えてきた伝統にある。その伝統の元、米国の大学、高校間では独自に以下の二つのスタイルを確立し、大会運営を行っている。①ポリシー ディベート スタイル(Policy Debate style):年間を通して1つの政策論題が与えられるため、事前に膨大な証拠資料を収集し緻密な論理構築をして大会にのぞむ。②リンカーン・ダグラス スタイル(Lincoln-Douglas style):奴隷制廃止が争われた1858年のリンカーン対ダグラスの連邦上院議員候補討論会にちなんで名づけられた。

即興型というのは、「教養テスト」のようなものか。

調査型のポリシー ディベート スタイルが興味深い。政策決定プロセスのモデルたりうるか?

 

教育ディベート

Wikipediaは、教育ディベートを次のように説明している。

  • 何らかの教育を目的として行われるディベートを教育ディベートという。
  • 教育ディベートの本質的な目的の一つにアーギュメンテーション(argumentation)教育がある。
  • アーギュメンテーションとは、議論過程(process of arguing)ないし議論学(study of argumentation)を意味し、その教育には論理学と修辞学の要素を含む。
  • 教育ディベートの議論形式には必要に応じて次のような制約が設けられる。①勝敗の決定:第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定する。②役割の分担:参加者の意思とは無関係に役割(肯定側・否定側など)を分担する。③準則の設定:議論において守るべき多くのルールが設定される。
  • これらの制約は、あくまで特定の教育目的のために慣習的に採られてきたものに過ぎず、理論的には教育目的に応じて制約を外したり追加したりすることも考え得る。実際、教育ディベートの現場では、勝敗の決定を行わない試みもなされている

 

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https://kknews.cc/zh-sg/science/bkz985o.html

 

コーンの批判

以上のWikipediaの解説を読んでみて、冒頭のコーンのディベート批判を考えてみよう。

  • 論争の過程において実際に強調されるのは、論理の立て方であり、説得力のある話し方であり、自分が展開する議論すべてに相手側が応じきれないぐらい早口で話すことなのである。

早口はともかく、論理の立て方(推論の仕方)に不備があれば、説得力はない。

それよりは、「詭弁」のほうが問題である。「詭弁」を見抜く力が必要である。(詭弁に関する詳細は、別途検討したいと考えているのだが、なかなかそこまでいかない)。「説得力」も、多くの検討事項があり、単純にこうだと言えない。

ディベートはもとより、通常の議論においても、「論理」「説得力」は必須であり、それは重要な要素だろう。

  • その場において生じてくる疑問を完全に理解したり、真の確信を得たりするかどうかは重要ではない。

単なるゲームなら、「確信」を得たり、「合意」を目指すというようなことは、ディベートの目的とはならない。

  • 確信について言えば、そんなものは全く持っていないほうがいいのである。何かを信じ込んでしまっていると、争点になっているものの裏表を見抜き、勝ち抜いていく能力がそがれてしまう。参加者にいやがうえにも二つの観点について考えるようにさせるという理由で、大抵の場合は、こうした仕組みが良いとされる。
  • それは、ある種のシニカルな相対主義を育んでいくという意味においてである。どんな立場にたってもうまく切り抜けることができるかどうかが問題なのだから、かえってどんな立場も持ち合わせていないほうが良いというだけのことなのである。

何かを信じ込んでいると、他の視点を持ち得なくなる。それではいけない。井蛙・夏虫・曲士

だからと言って、「確信=確かな信念を持っていないほうが良い」とは言えない。自分では「確信」を持ちつつも、「井蛙・夏虫・曲士」を避けるために、議論するのだという姿勢が大事である。だからあえて反対の立場にたってみるということも有効だろう。

それは「シニカルな相対主義」につながるだろうか。そう言い切ることはできないと思われる。

  • 競争的な論争の場合には、内心どのような結論を抱いているのかに関わりなく、誰がより優れた論者なのかを決定することにもっぱら焦点があてられるのである。

競技ディベートの「進行形式」や「審査基準」によっては、このようなことが起こり、それは難点だとも言えよう。

だけれども、「調査型のディベート」で、「進行形式」「審査基準」の合意が得られるならば、政策決定プロセスのモデルたりうるかもしれないと思う。創造型あるいは合意形成型のディベートである。(どのような「進行形式」「審査基準」であるべきかは何も考えていないのだが…)