浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

線引き問題

立岩真也『私的所有論』(33)

今回から、第5章 線引き問題という問題 である。

立岩の言う「線引き問題」とは何だろうか。それは「自己」と「他者」の線引き、「奪ってはならない存在」(処分してはならない存在)と「奪っても良い存在」(処分して良い存在)の線引き、「無差別に扱うべきもの」と「無差別に扱ってはならないもの」の線引き、「健常者」と「非健常者」(障碍者、低能力者)の線引き、「人」と「いまだ人になっていない存在」(胎児、受精卵)の線引き、「生命」と「非生命」の線引き、これらすべてを含んだ「線引き」だろうか。 

私には、これらすべてを含んで抽象的に考えることはできない。立岩は、何を念頭において「線引き問題」を論じているのだろうか。読解力不足でよくわからない(過去に読んで書いたことを忘れていることも多い)。以下は、的外れは承知のコメントである。

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宇佐美圭司 https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/320

 

第1節は、「自己決定能力は他者であることの条件ではない」というタイトルである。これはどういう意味だろうか。

私が持っているものは大抵他の誰かも持っている。本当に独自なものなどそうない。何か他者に積極的な契機があるから、他者を尊重するのではなく、ただ私と同じでないこと、もっと正確には私ではないこと、こうした消極的な契機によって、私たちは他であるものを尊重する。即ち、その者が決定する(能力がある)ことに、他者が他者であること、人が人であることの根拠を求めない。決定(能力)はその者が私ではない存在であることの一部である。その存在が「自己決定」する存在であることを要しない。(p.176)

その者に「自己決定」する能力がなくても、他者であると認める、人であると認める。排除してはならない存在であると認める。乳幼児、障碍者、低能力者を考えれば、誰もが認めるだろう。但し、胎児、受精卵は微妙である。動植物はどうか。細菌やウイルスはどうか。

 

中屋敷均は述べている。

私たち人間は、自我の意識によって世界を認識している。自分は唯一の存在であり、他人とは違う独立性がある。そういった「個の意識」を自然に持っている。確かに形而上の意識には(恐らく他の動物を含めて)独立性があり、他と境界線を引くことが可能である。それは多分に、脳という組織が他との物理的な交わりに乏しい「個体」に固有のものだからである。しかし、形而下の生物としてのヒトは、形而上の「個の意識」と同じ程度には他から独立していない。我々の体の中には、もの凄い数の腸内細菌がおり、その助けを借りて生きているし、体表の皮膚の上にも1兆個とも言われている常在菌がいる。各細胞の中には、その昔、独立した細菌であったミトコンドリアがいて、ゲノムDNAの半分はウイルスや転移因子等である。そこに他者と切り離した「自己」のような「純度」を求めるのは我々側の特殊性であり、生命に独立性を持ち得るものがあるとしたら、それは「われ思う、故に我あり」とした我々の「観念」だけではないのかと思う。(『ウイルスは生きている』、p182)

ここでは「自己決定」を、「個の意識」、「自我の意識」と置き換えて良いだろう。

「自我の意識」と言い、「個の意識」と言うがごときは(自己と他者と言うがごときは)、「脳」がもたらす「観念」(幻想)に過ぎず、生命に独立性はないという考えは、実に興味深い。

立岩はどこまで考えているか分からないが、自己と他者の線引きという問題を考えるときには、このような事態をも考慮に入れなければならないのではなかろうか。