浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

遺伝子の量子力学的モデル

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(23)

今回は、第3章 二つの遺伝子 第2節 分子生物学における遺伝子概念の展開(p.121~)である。

分子生物学の登場と量子力学

  • 分子生物学の成立は、遺伝子の物質的実体を探求するという20世紀初頭以来の遺伝学の流れの中に置くこともできるが、遺伝子は「形質の原因を担うもの」ではなく「情報を担うもの」と考えられるようになった点において、大きな転換であった。
  • 分子生物学の前身となったのは、遺伝学における「情報学派」と、X線回折による結晶構造の分析をこととする「構造学派」であった。両学派ともに、物理学出身の研究者たちが活躍した。このうち、「情報を担うものとしての遺伝子」という概念を提唱したのは情報学派である。

物理学出身の学者が活躍したというのは興味深い。遺伝子を「形質の原因を担うもの」ではなく、「情報を担うもの」と考えることは、当時においては相当の発想の転換(飛躍)を要するものであり、(固定観念にとらわれた)生物学者には無理なことであったのかもしれない。これは何も遺伝学-分子生物学に限った話ではないだろう。

  • 生物は原子や分子で構成されており、それらの振る舞いは物理学によって十全に説明できる。しかし、生物を構成する原子や分子は常に代謝され入れ替わっているので、その生物を本質的に構成している原子がどれかを論じることは無意味である。

代謝とは、「新陳代謝の略。生物体がエネルギーおよび物質を外部から取り込み、体内で化学的に変化させ、不用なものを外部に放出する反応の総称」(知恵蔵)である。この代謝(入れ替わり)を考慮すれば、

  • 生物を原子や分子のレベルに還元することには限界があり、生物学的研究においては生命を一つの原初的事実として認めるほかない。

確かに生命を一つの原初的事実として認めるほかないようにも思えるが、果たしてこれはどうだろうか。特定の原子や分子に還元しても意味ないだろうとは思うが…。だが、そもそも「原初的事実」とはどういう意味か。

  • 生命を理解するためには、個体の自己保存や自己増殖といった、物理学的分析では排除されるべき目的論的側面を含み込んだ概念についての研究がなされなくてはならない。つまり、生命を研究するときには物理学的アプローチと生物学的アプローチとは両立せず、それぞれが補い合って生命現象の重要な側面を説明するのである。(ボーア)

山口は、「こうした主張は、量子力学における「相補性原理*1を生物学に当てはめようとするものであり、生物学についてのボーアの主張は、シュレーディンガーに負けず劣らず「生気論的」なものである」と言っている。(p.124)

確かに「目的論」を持ち込めば、「生気論」になるだろう。また「相補性原理」をたてたところで、それだけでこれ(目的論を持ち込むこと)が正当化されるとは思われない。

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https://www.cancercenter.com/community/blog/2017/06/what-does-a-brca-gene-mutation-mean-for-men

 

遺伝子の量子力学的モデル

  • 遺伝学における情報学派は、物理学出身の生物学者デルブリュック(米、1906~1981)を中心として成立した学派であり、シュレディンガーと並ぶ量子力学の建設者の一人であるボーアの生命論の影響を受けた。
  • デルブリュックがまず行った研究は、ショウジョウバエX線を照射して、突然変異を起こさせる実験の解釈であった。実験の結果、X線の照射線量と突然変異の数が比例するように見えたことから、デルブリュックは遺伝子となる分子ひとつを変質させるのに必要なエネルギーを計算し、更には遺伝子ひとつ分の大きさを推定した。その大きさは概ね原子1000個分だという。
  • デルブリュックのモデルは、遺伝子の突然変異分子の量子力学的な変質(分子を構成する原子の配列の変化)と関係づけ量子力学によって生命現象を説明する道を開くものであった。

「遺伝子の突然変異を、分子の量子力学的な変質と関係づける」と言われても、ここで基本的な「突然変異」という言葉の意味を理解しておかないと意味不明である。いつものごとくコトバンクのお世話になろう。

突然変異とは、ある生物の種類のなかで不連続的に異なった形質のものが突然に出現して、これが次代に遺伝する現象である。1882年にド・フリースがオオマツヨイグサで多くの突然変異を発見し、突然変異説を提唱した (1901)。突然変異は、初め原因不明のまま用いられた概念であったが、その後の研究によって遺伝子突然変異染色体突然変異とが知られるようになった。ことに前者は、遺伝子が DNAであるとの物質的基礎が明らかになったところから、分子レベルの解明が進み、DNAの遺伝コードをなすヌクレオチド塩基の種類が差替えられる現象であることがわかった。ここから、遺伝情報によってつくられる蛋白質分子中でのアミノ酸の差替え→蛋白質の性状や酵素活性の変化→代謝の変化と作用が拡大し、古典概念でいう可視的な突然変異型となって現れたりするのである。(ブリタニカ国際大百科事典)

遺伝子の突然変異の量子力学的説明が、この説明で充分に理解できたわけではないが、「不連続的に異なった形質のものが突然に出現して、これが次代に遺伝する」ことの物質的基礎を「原子の配列の変化」に求めたというふうに大まかに理解しておこう。

 

遺伝暗号を担う非周期的結晶

  • シュレーディンガーは、デルブリュックのモデルを発展させ、「遺伝暗号を担う非周期的結晶」というアイデアを提唱した。シュレーディンガーがこの本(『生命とは何か』)を書いた動機は、生命現象において、既存の物理学法則以外の自然法則が見つかるのではないかという期待であることは先に述べたが、多くの科学者にアピールしたのはそうしたロマンチックな期待ではなく、生命現象を「非周期的結晶」という物理的対象によって研究することができるという方向性を示した点にあった。

「非周期的結晶」という言葉が面白い。では、「遺伝暗号を担う非周期的結晶」とはどのようなアイデアであったか? それは次回に。

*1:相補性原理…光は波として振舞うことも、粒子として振舞うこともある。ボーアは波動性と粒子性とは補い合ってそれぞれ光についての重要な側面を説明するものであるとした。