山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(24)
今回は、第3章 二つの遺伝子 第2節 分子生物学における遺伝子概念の展開 の続き(p.126~)である。
遺伝暗号を担う非周期的結晶
「遺伝暗号を担う非周期的結晶」とはどのようなアイデアであったか? 山口は、シュレーディンガーの言葉を引用して説明しているが、ここでは「要約」のみ見ておこう。
染色体*1の中には、共有結合*2で構成された頑丈な分子が何種類かあり、それらが順次つながって繊維状の巨大分子を形成している。構成要素となる分子の一つ一つはモールス信号の記号のようなもので、それらがつながってできた巨大分子は生物の設計図を表現する暗号文となる。こうした分子は、単に設計図として情報を担うだけでなく、生体内でさまざまな機能を果たし、更には次世代へと暗号を伝える働きも担う。
シュレーディンガーが展開した具体的な議論のほとんどは、後に間違いであることが明らかになったという。
・遺伝子の物質的実体はタンパク質である。…誤り。(DNA分子が正解)
・生物が他の生物を摂食するのは、エントロピー*3の増大に抵抗するために秩序を取り込む必要があるためである。…誤り。
しかし、『生命とは何か』という本が「暗号を担う非周期的結晶」などのアイデアを広く知らしめたことは事実であり、こうしたアイデアに引き付けられた多くの物理学出身の研究者を生物学研究に転向させたという点では大きな影響力があったと言うべきだろう。そうした研究者たちが分子生物学を建設するうえで大きな役割を果たしたのである。
アイデアの重要性を示す事例だろう。具体的議論の誤りを指摘してダメだ(素人議論だ)と葬り去るのではなく、アイデアを評価する広い視野が必要である。
分子生物学における遺伝子概念
シュレーディンガーは、「原因としての遺伝子」という概念にも一定の配慮を示していたが、彼の本を読んだ人たちの多くが注目したのは、「情報を担うものとしての遺伝子」というアイデアのほうであった。分子生物学において遺伝子は、生物の設計図としての情報を担い、さらに次世代へそれを伝達する働きがあると考えられるようになった。
「原因としての遺伝子」から「情報を担うものとしての遺伝子」への遺伝子概念の転換。ここはしっかりと押さえておくべきである。
遺伝子をある形質の「原因」と考えるか「情報」と考えるかによって、何が主要な研究課題となるかが変わってくる。ポイントは、情報概念においては、情報を担うものと担われた情報の間の具体的な因果関係のプロセスを考えなくてもよい点にある。
「原因」と「情報」の話は。次の説明でよく理解できよう。
ある遺伝子がシワの「原因」であるとするなら、遺伝子からシワに至る具体的な因果関係のプロセスが問題になる。しかし、遺伝子がシワ「情報」を持つとするなら、そうしたプロセスを考えなくてすむ。その代わり、情報を記録する媒体や伝達方式、暗号(コード)の形式を特定し、更にはそうした暗号を解読することが主要な問題になる。
原因としての遺伝子
メンデルの法則が再発見されてからしばらくの間、遺伝学者や生化学者は、遺伝子は代謝経路に影響する何らかの酵素(ないし酵素を生み出す物質)ではないかと考えていた。そうした研究における主要な問題意識は、遺伝子が特定の形質を発現させる具体的な因果関係のプロセス(生化学的過程)を明らかにすることにあった。
当時の遺伝学者や生化学者が「遺伝子が特定の形質を発現させる具体的な因果関係のプロセス」を解明することをめざしていたということを理解しておかないと、「情報学派」の研究者たちの研究を正当に評価できないだろう。
「情報を担うものとしての遺伝子」の話の詳細は次回に。
*1:染色体…元来は細胞核の中に含まれ,細胞分裂が始まると,塩基性色素によく染まるひも状の構造を指したが,その後の分子遺伝学的な知見に基づき,現在では,細胞内の遺伝情報を担うDNAの巨大な糸状分子を指す。(百科事典マイペディア)
*2:共有結合…化学結合の一種。二つの原子の間でお互いに電子を共有することによって安定となり,生ずる結合をいう。通常二つの原子間にスピン反対の二つの電子が対をつくって共有されるので,電子対結合ともいわれる。(百科事典マイペディア)
*3:エントロピー…複雑さの度合を表すための熱力学的概念であり,複雑さまたはでたらめさが増すほどエントロピーは大きくなる。(世界大百科事典)