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形式的正義-スゥーム・クイック(suum cuique、各人に各人のものを)とは?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(9)

今回は、第2章 エゴイズム  第2節 形式的正義の「内容」である。

権利と正義

「正義」とは何だろうか?

長尾龍一は、「各人に彼のものを(suum cuique)」あるいはより明示的に「各人に彼の権利を(jus suum cuique)」を、正義の「形式的定義」としている。

ラテン語 Suum(スゥーム)とは「各人のもの」という意味であり、cuique(クイック)とは「各人に」という意味であるようだ。

ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)に次の言葉があるという。

Justitia est constans et perpetua voluntas jus suum cuique tribuendi

正義とは、各人に彼の権利を帰さんとする恒常的にして不断の意思なり。

 

Wikipediaの訳では

正義とは、万人にそれぞれのものを与えようとする確固たる恒久的な意思である。

プラトンの『国家』には、次の記述があるそうだ。

万人は能力と技量にしたがって事を為し、全体として国家と社会に奉仕する。また万人は己のもの(権利)を受け取り、己のもの(財産)を奪われない。(Wikipedia)

長尾はこのsuum cuiqueを、何故「形式的」定義と言うのか。

これは具体的に「彼のもの」(suum)を判定する基準を示す実質的定義によって補われなければならない。正義をめぐる思想闘争の歴史は、この実質的定義をめぐる争いの歴史である。

*****

「ローマ法大全」を検索していたら、面白い記事が見つかった。宮崎繁樹の「ローマの法・格言・法諺抄」である。

いくつかをピックアップしてみよう。

71 Jura publica anteferenda privatis.

 公権は私権に優先さすべきである。

72 Juris praecepta sunt haec:honeste vivere,alterum non laedere,suum cuique tribuere.

 法の命ずることは、正しく生き、他人を害せず、そして、各人に彼のものを与えることである。

73 Jus est ars boni et aequi.

 法は、善と衡平の術である。

74 Jus ex facto oritur.

 法は、事実から生ずる。

77 Justitia cernitur in suum cuique tribuendo.

 各人に彼のものが与えられれば、正義は実現する。

78 Justitia erga inferiors est verissima.

 社会的弱者に対する正義は、真の正義である。

79 Justitia est fundamentum regnorum.

 正義は、国家の基礎である。

本書に戻る。

この定式は、「彼のもの(suum)」と「汝のもの(tuum)」との区別を、それ故また「我のものと汝のもの(meum et tuum)」という区別を前提にしている。

この定式が、上記区別を前提しているということは、それが個人的権利を承認していることを意味する。(Jusを「権利」と訳すことの適否は別とする)

「suum cuique(各人に各人のものを)」という定式は、「自分のもの」と「他人のもの」の区別を前提にしていることを見落としてはならない。「自分のもの」、「他人のもの」とは、どのような「もの」であるか?

しかし、個人的権利の承認はすべての正義観に共通の前提ではない。

何らかの集合的目標の達成度の最大化を唯一の原理とする徹底的に目的論的な正義観、例えば、徹底的な功利主義は、個人的権利の承認と両立しない。

「suum cuique(各人に各人のものを)」ではない、もう一つの正義観がある。「集合的目標の達成度の最大化」すなわち、「社会全体の利益」を最大化することが正義である、という考え方である。「各人に各人のものを」は一見もっともらしいが、「差異/格差」を承認し構造化することによって、不公正な社会を承認することになるというのは一理あるだろう。それでは「社会全体の利益」(最大多数の最大幸福)を追求する「功利主義」が正義となるのか?

個人的権利は、自然権であれ実定法上の権利であれ、およそそれが権利である限り、集合的目標の追求に対する何らかの程度の抑制として機能する。

確かに集合的目標の達成にいかなる犠牲を強いてもその行使が認められるのでなければ、すべての権利は権利としての性格を失う、という主張は支持し難い。

COVID-19に対する対策が一事例になるのではないかと考えられる。検査陽性者(疑いある者を含む)を隔離収容するという政策は、「社会全体の利益」(最大多数の最大幸福)に適う。政策を実効性あるものとするために私権(個人的権利)を制限したとしても、プラス>マイナスだから、「社会全体の利益」になるという判断である。

いまここで問題にしているのは、プラスなりマイナスなりの計測の問題性ではなく、考え方の問題である。

上記引用中、前者は「私権」が認められている社会では、集合的目標(社会全体の利益)を強権的に追求することには抵抗があるということである。

後者は、ちょっと分かりにくいが、「為政者が、集合的目標の達成のために、個人に強いる犠牲(個人的権利の制限)がどの程度のものであれ、個人的権利の行使が認められるのでなければ、すべての個人的権利は権利としての性格を失う、という主張は支持し難い」という意味だろう(たぶん)。何が何でも「私権」(自由権)は守られなければならないというのは、行き過ぎで「公益」(公共の福祉)を考えなければならない、というのは穏当な主張だろう。

しかし、前提された集合的目標、例えば、全体効用の最大化や平均効用の最大化*1の達成に、いかに微少であっても阻害的影響を与える場合は、権利の行使が許されないとする正義観は、もはや個人の権利を制限しているのではなく否定しているのである

集合的目標(社会全体の利益)、「公益」(公共の福祉)、効用の最大化 を目的にするのであれば、その政策やルール制定を批判する者は、規制・処罰の対象にしなければならない、とすることは行き過ぎであり、「もはや個人の権利を制限しているのではなく否定している」と言わざるを得ないだろう。

かかる正義観の下で権利を付与されている者を強いて挙げるならば、それは「全体社会」や「平均人」のごとき抽象的人格であって、現実に存在する具体的な個人ではない。

個人が権利を持つと言えるためには、集合的目標の名における犠牲要求に対して、最小限の「拒否権」がその個人に与えられていなければならない。これは個人権概念からの論理的帰結である。

このような個人的権利を承認している点でsuum cuiqueは一定の個人主義的色彩を持つと言える。

COVID-19に関連する法改正(強制)が、「集合的目標の名における犠牲要求」ではなく、「公益」(公共の福祉)の名において正当化できるものなのか、最小限の「拒否権」が与えられているものかを考えなければならない。(野党の反対による修正を織り込み済の法案ではないかと想像するが、そうであれば姑息なやりかたである)。

一切の個人的権利を否認する正義観の道徳的正当化可能性は一つの問題であるしかし仮にそれが正当化できないとしても、それが一つの正義観であることに変わりない。徹底的な功利主義者は道徳的に誤っているかもしれないが、「正義」なる言葉の意味を知らないとして彼を批判するのは不当である。

一見中立的で無内容なsuum cuiqueは、上述の解釈を前提するならば、特定の正義観を排除し得るほどに「偏向」している。勿論この「偏向」はこの定式にとって名誉とすべきことである。しかし、これを正義概念の定義とすることは、功利主義という一つの正義観を論議抜きでア・プリオリに排除することになるため、不適当である。

功利主義も一つの正義観であることを認めよう。それがいかなる場合に「妥当」であり、いかなる場合に「妥当」でないかは議論を要する。

suum cuiqueを正義概念の定義とすることは不適当というのは、井上の言うとおりだと思う。

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https://www.youtube.com/watch?v=vM2SdVeENa0

 

suum cuiqueに関しては、ナチス・ドイツの話にふれておかなければならない。

1937年、ナチス政権はヴァイマル市近郊にブーヘンヴァルト強制収容所を建設し、そのスローガンとして「各人に各人のものを」(Jedem das Seine)を、正門の扉の上部に、扉の内側から読み取れる透かし文字として掲げた。これは、アウシュヴィッツダッハウ、グロース・ローゼン、ザクセンハウゼン、テレジエンシュタットの強制収容所に掲げられた「働けば自由になる」(Arbeit macht frei) と同様に、当時よく用いられた典型的な宣伝標語であった。(Wikipedia、各人に各人のものを)

suum cuiqueは、「《優秀なる》ドイツ 民族には繁栄を、《寄生虫である》ユダヤ民族には死を」を意味していた。そして、ナチス・ドイツではこれが正義であった。*2

suum cuiqueは、必ずしも、自由を保証するものではない。

*1:総量説:最大化すべきなのは選択の影響を受ける関係者の利益・幸福を合算した「総量」であり、それだけを考慮すればよい。→総量を最大化するのであれば、どんな選択も認められる。平均効用説:最大化すべきなのは関係者1人ひとりの利益・幸福の「平均値」であり、総量ではない。→たとえ総量を最大化するとしても、平均値を下げてしまうような選択は認められない。(土屋貴志、倫理学概論)

*2:http://www5b.biglobe.ne.jp/~geru/page014.html、https://shoyo3.hatenablog.com/entry/2017/02/06/203032 (2017/02/05 平等(1) Suum cuique 各人に各人のものを!)