浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

競争と娯楽と満足感

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(23)

今回は、第4章 競争はもっと楽しいものなのだろうか-スポーツ、遊び、娯楽について の続き(p.143~)である。

S.ウォーカーは、こう述べている。「スポーツ選手がここで声を大にして強調する哲学は、ゲームの意義が参加することにあるというものである。しかし、彼らが尋ねられる質問は、誰が誰を打ち負かしたかとか、誰がメダルをとったかなのである。……現代の競争者たちは、認められ、称賛され、尊敬されるためには、勝たなくてはならないと感じているのだ」。実際、この現象に関しては、特に目新しいものは何もない。誰が誰を打ち負かすのかという関心は、出来事がもたらす「産物」であるが、競争によって偶然にもたらされるものなのではない。

オリンピックは「参加することに意義がある」は、散々聞かされる言葉であるが、実際にはメダル獲得者が称賛される。メダルを獲得した者も獲得しなかった者も、また「国」に関係なく、「平等」に取り上げ報道するならば、「参加することに意義がある」と言えるが、実際にはそうではないことは誰もが知っている。

ある出来事が競争の構造を持つようになれば、たちまち参加者を互いに競わせることになる場合が多いが、そのためには、まずもって目標、つまり勝利をはっきりと示してやる必要がある。

外部的な報酬(虚飾を伴った勝利)が持ち出されると、ゲームそのものがもたらす満足はどんなものでも減少させられてしまうと考えられる。

オリンピックに限らず、「競技大会」などというものは、「虚飾を伴った勝利」を称賛するという「競争の構造」を有しているのであり、「遊び」(楽しみ)とは程遠いと言えよう。

 

競争を伴わない娯楽

競争と遊びを同じものだとみなすことに異議申し立てをしておいたわけだが、それは、競争を伴う気晴らしが楽しいはずがないということではない。結局のところ、ルールに支配される様々な結果指向の活動が、暇な時間を埋めてくれるのである。

「競争を伴う気晴らし」(楽しみ)を奨励することの論拠(利点)には、以下の〇で示したようなものがある。それに対するコーンの意見は★で示す。

〇練習[健康増進]…プレイヤーは、自分の健康、耐久力、筋肉の作用すべてを増進することができる。

★身体の健康は、明らかに競争を必要としていない。(例)エアロビクス 

次の動画は面白い。

エアロビ笑点 (全米エアロビクス選手権/シンクロムービー)

www.youtube.com

2020全日本リズムダンス、エアロビクス選手権大会メモリアル動画

www.youtube.com

 

健康増進のためには、スポーツ・エアロビクスは不要だろう。

チームワーク…チームで行うスポーツは、集団に対する忠誠心や集団意識を促していく。このような意識は、相手方のチームを打ち負かすという共通の目的に向かって共に力を合わせるときにのみ生じる。

★チームワークによって生まれる同志愛は、まさに協力的な活動がもたらしてくれる恩恵であるが、その本質は、共通の目標に向かって力を結集するということである。集団間の競争、共通の敵が生まれること、つまり味方/敵のダイナミクスの創出が、集団の感覚を養っていく上で必要不可欠なわけではない

「集団に対する忠誠心や集団意識」は、「お互いに助け合う仲間」(共助)と言ってよい。共通の目標が「集団内」の事柄に留まるのであればそれでも良いが、他集団にも関わる事柄であれば、自集団と他集団を含めた集団つまり一段レベルの高い集団(グローバル・コミュニティ)を考えるべきであり、集団外に敵をつくり仲間内でのみ助け合うというのでは、自集団のみの利益を考える集団エゴイズムに他ならない。

 

風味…批判好きのG.レオナードさえ、競争が「ちょっぴり塩を加えるように、……ゲームにも、人生そのものにも風味を添えてくれる」ということを認めている。

★塩に頼るようになっているからこそ、塩が無ければ食物は刺激がないと感じてしまうのである。同じように競争的なゲームは、まさに常用癖がついてしまうので、気晴らしも、勝利する可能性が無ければつまらないものになってしまうのである。「競争の哲学に毒されているのは仕事だけではない。余暇も全く同じように毒されている。静かで神経を休めてくれるような余暇は、退屈なものに思えてくるのだ」(B.ラッセル)。

過剰摂取は良くないが、塩分(ナトリウム)には必要量があり、常用癖というのは言い過ぎである。とはいえ、「スポーツは、競争の哲学に毒されている」と言うのは、恐らく現状認識として正しいだろう。

 

自己奮起…競争者は、勝利を獲得するために戦い抜くことで、自分の限界を試し、挑戦することによって活力を得ていることを実感し、とても心地よい汗にまみれた達成感を経験するとされている。

★客観的な基準に目を向けたり、自分の以前の記録を超えようとすることができる。…協力的なゲームも、同じように技術とスタミナを必要とするわけであり、勝者と敗者がいなくとも結果的には活力を失うことなど全くないように思われる。

「勝利を獲得するために戦い抜くこと」によってではなく、「客観的な基準や自分の以前の記録を超えようとすること」によって、「心地よい汗にまみれた達成感」を経験することができる。競争的なゲームではなく、協力的なゲームによっても、「心地よい汗にまみれた達成感」を経験することができる。

 

戦略…敵に対する時、素早く行動するのと同じで、自分の頭で考えなければならない。相手の動きを予想し、反撃するのは障害を克服することであり、それこそ大きな楽しみをもたらしてくれる可能性がある。

★他人こそ打ち負かされるべき障害なのだと考える必要などない。

「競争に勝つこと」と「業績を上げる」ことは同じではない。「敵を打ち負かす楽しみ」と「課題を克服する楽しみ」のどちらが望ましいと考えるか。「敵を打ち負かす楽しみ」を「障害を克服する楽しみ」と言い換えることによって、競争を弁護しようというのは詭弁のように聞こえる。

 

心からの参加…自分が楽しいと思うものに手探りでもいいから参加してみるのは、時間がたつのも忘れてしまうような超越的な感覚をもたらしてくれる。*1

★時間がたつのも忘れてしまうような超越的なかかわりを経験すると、競争を伴う活動はもちろんのこと、どんな身体的な活動も必要ではなくなってしまう。マズローとリフトンは、こうした現象を描き出すにあたって、スポーツについてはほとんど言及していない。

脚注の「至高体験」の記述を読めば、「競争を伴う」活動がほとんど関係ないと理解されよう。

 

〇実存的な肯定、〇勝利のスリル については、次回にする。

*1:

至高体験…A.マズロー(1908-1970)は,精神的に健康で自己を実現しつつある人間の欲求を説明する過程で,欠乏欲求の充足のうえに真善美などの価値を求める成長欲求としての自己実現self-actualizationの欲求が生じると考えて,自己実現過程で最も感動を覚えた瞬間についての記述を試みた。その結果,至高体験の特徴として,認識対象ないし経験は完全な一体として見られやすい,対象にすっかり没入してしまう,自己超越的ないし自己没却的で無我でありうる,固有の本質的価値を担う,主観的に時間や空間の外におかれ時空を超越する,善であり望ましいばかりの認識であり評価を行なわない,自己の人生を越えて永続する現実を見つめているかのような強い絶対性が伴う,能動的というよりもはるかに受動的で受容的な経験である,経験を前にして驚異・畏敬・尊敬・謙遜・敬服という特殊な趣をもつ,多くの二分法・両極性・葛藤が融合し超越されて解決されるなど,至高体験に見られる最も広い意味での認知の19の特徴を指摘している。そして,これらの至高体験は,症状をとり除き,自分の見方を健康な方向に変え,他人についての見方や世界観に変化をもたらし,人間を解放して創造性・自発性・表現力・個性を高め,その経験を非常に重要で望ましい出来事として記憶し,繰り返そうとするなど,人生は価値があり,正当なものと感じられるとの生きがいをもたらすとしている(杉山憲司、最新 心理学事典)。M.チクセントミハイ(1934-2021)への言及もある。

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https://www.saatchiart.com/art/Painting-Purple-space/1632564/7820284/view