浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

社会的アイデンティティ(2)― 自己カテゴリー化理論

山岸俊男監修『社会心理学』(16)

今回の記事の自己評価は、「自己カテゴリー化理論」を理解していないので、「ごみ箱」入りです。

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今回は、第3章 社会の中の個人 のうち、社会的アイデンティティ② である。

山岸は、J.C.ターナ(1947-2011)の自己カテゴリー化理論を次のように説明している。

内集団の他のメンバーとの違いに注意が向き、メンバーとの差異が最大化した時、「自分対他者」というカテゴリーが作られ、個人的アイデンティティにのっとって自己を認識する。

反対に、内集団のメンバーとの類似性が最大化し、かつ外集団との差異が最大になった時、社会的アイデンティティの側面から自己を認識する。更にその場合、内集団のメンバーが持つ特徴を自身も持っていると考える自己ステロオタイプ化が起こるとされる。

こういう説明を聞くと、つい「それで?」と言いたくなる。自己認識の話? 社会心理の話?

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https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/2938/files/21.pdf の Fig.2 SC理論におけるアイデンティティの連続体 より。

 

この「自己カテゴリー化理論」はちょっと難しい。

前回同様、「H.タジフェルとJ.C.ターナーの社会的アイデンティティ理論」(https://esdiscovery.jp/vision/word001/psycho_word012.html)という記事を参照しよう。

社会心理学者のJ.C.ターナーは、社会的アイデンティティ理論に基づく集団間行動を、個人が個人としての自覚を持って自律的に行動しているのか自分の考えを抑えて集団の一員として従属的に行動しているのかの変数の違いについて研究し、『自己カテゴリー化理論(self-categorization theory)』を呈示した。

自分がある集団(組織)に属する時、自分の考えが、集団(組織)全体の考え(統一見解/支配者の意思/多数派の意思)と一致していれば良いが、そうでないときはどうするか。「自分の考えを抑えて、集団の一員として従属的に行動する」か、あるいは「自分の考えを貫き、自律的に行動する」かは、場合によっては重大な問題である。(ex.軍備増強する/しない。〇〇に設備投資する/しない。〇〇に家族旅行に出かける/出かけない。)

自己カテゴリー化理論は、『自己概念の階層構造』を仮定している。自己概念の階層構造とは、自己カテゴリーには『人類・世界の一員』といった極めて上位(高次)の包括性の高いカテゴリーもあれば、『親子・地域の一員・私個人』といった極めて下位(低次)の包括性の低いカテゴリーもあるということを指している。

私は、さまざまな集団(家族のような小集団から人類全体という大集団まで)に属している。

ある状況や関係性において、どのレベルの包括性における自己カテゴリー化が採用されるのかということが、『自己の基本カテゴリー(basic category)』を決定することになる。自己の基本カテゴリーがどのレベルの包括性(高次性・低次性)に帰属するのかは、その相手とどんな立場で向き合っているのか、どのような話題で意見を交わしているのか、どのような場面・状況で遭遇しているのかといった『文脈(コンテクスト)』に依存していると言えるだろう。

例えば、同じ仕事や職業について話す場合でも文脈によって、『社会人→会社員→業界・業種→勤務地→役職づきか平社員か(専門職か総合職か・正規雇用か非正規雇用か)→給与水準』など、様々な階層のレベルが使い分けられているのである。

どれ位「集団」(組織)を意識するのかは、文脈(コンテクスト)に依存するというのであれば、そう言えば良いだけであり、なぜ「自己の基本カテゴリー」とか「包括性」と言わなければならないのかよく分からない。

 

「自己カテゴリー化理論」の話はよく分からないので、今回の記事はボツにしようかと思ったが、後で「内集団ひいき」の話が出てくるので、その時に再考するとして、メモとして残しておくことにする。