久米郁男他『政治学』(32)
今回は、第10章 議会、第2節 日本の国会 第3項 国会についての2つのイメージ をとりあげる。
対決と裏取引
2つのイメージとは、①与野党が激しく対立する対決のイメージ、②与野党が舞台裏で本音の交渉をして妥協を図る裏取引のイメージである。
マスメディアで報道されるのは「対決のイメージ」である。野党は枝葉末節なことを取り上げ、対案を示すことをせず、あるいは口先だけの非現実的な対案を示し、反対ばかりをしている(与党の言い分)。与党は野党の質問をはぐらかし、意見を聞こうともせず、強行採決する。多数派の横暴であり、民主主義の危機である(野党の言い分)。…というのが、マスメディア報道の図式であるようだ。
裏取引について、本書は「強行採決が行われ与野党の対立が抜き差しならなく見える時でも、実は与野党の国会対策委員会関係者が激突芝居のシナリオを書いていた、という暴露がなされたこともある」と述べている。
粘着性論
粘着性というのは、国会研究の古典的概念であるそうだ。
M.モチヅキが注目したのは、政府の提出する予算案や法案が、国会での野党の抵抗によってなかなか成立しないという議会審議の粘着性(viscosity)である。法案がスムーズに議会を通らないという意味で、議会審議の粘着性という。
「粘着性」という言葉は初めて聞いたので、調べてみた。
<粘性とは>
粘性(viscosity)とは、流体のネバネバさを表す。流れを妨げる性質である。粘性を持つ流体を粘性流体という。モチヅキは、日本の国会を「粘性流体」とみなしたわけである。
ネバネバで連想するのは納豆である。納豆と言えば、ナットウキナーゼが血液をサラサラにするそうだ。本当だろうか?
<血液サラサラの真実と歴史 納豆も嘘!?>
何やら怪しげな動画の感じがするので、岡山大学大学院医歯薬学総合研究科の記事「納豆の健康効果」(1~5)*1も参照したほうが良いだろう。(5)で、「大部分の日本人がそうであろうと思われるビタミンKを多く含んだままの「納豆」という食品の形で食べた場合、血栓が関係する心血管疾患が減るのか」という話題について、岐阜県高山市で行われた疫学研究の結果が参考になると述べている。これを読むと、血液サラサラは実証されていないように思う。
本書に戻り、何が日本の国会に粘着性を生みだしているのか?(なぜ法案がスムーズに議会を通らないのか?)
モチヅキが注目したのは、審議ルールを巡る全会一致慣行、二院制、委員会制、会期制である。
- 全会一致の慣行…法案審議の日程を議院運営委員会(議運)や委員会の理事会で決める。その際、全会一致の慣行が存在してきたために、野党が抵抗すると、実質的には拒否権を行使することになる。
- 二院制…法案は衆参両院を通過しなければいけない。
- 委員会制度…委員会が審議の中心。野党の引き延ばし戦術をとる機会を増やす。
- 会期制…年間複数会期制。会期短い。審議日は1週間に2,3日である。
- 会期不継続の原則…未成立法案は審議未了で廃案となる。継続審議となった法案を次の会期に委員会審議から始めるためには、議運の決定(全会一致)が必要である。
実態がどうであるか(現在はどうであるか)は検証しなければ分からない。ここでは深入りしない。
そもそも法案をスムーズに通すことが望ましいとは限らない。
与党はなぜ全会一致の慣行を破らないのか。ここで見過ごされてはならないのが、世論やマスメディアの反応である。与党が強行採決をするとマスメディアは「数の横暴」としてそれを批判し、野党はそれを支えに他の法案の審議拒否をするなど戦術をエスカレートさせる。そうなると、与党内部の反主流派から批判の声が生ずることも起こり、政権基盤が揺らぐ可能性がある。通常、政権与党はこのような危険を冒すことを避けようとする。
マスメディア(特にテレビ)の世論形成に対する影響は大きい。マスメディアが常に与党の政策を批判するとは限らない。与党と同意見であれば、「数の横暴」との批判は起きない。与野党同意見で、ミニ政党のみが反対している状況ではなおさらである。科学的事実あるいは論理に基づくか否かではなく、マスメディアを味方につけるか否かが「数の横暴」批判の正当性を裏付けるかのようである。
国会において与野党はあの手この手で少しでも自分たちに有利な結果を出そうと競い合っている。しかしそのゲームは、法案の良し悪しを理性的に討論するようにはなっていない。
与野党は、表面上対立しつつも、落としどころをめぐって舞台裏で妥協する側面を強調して、日本の国会政治は「国対」政治であると非難されてきた。
このような妥協の政治は、次の2つの機関で行われてきたとされる。
但し、審議の手順を決めることに関しては、次のようにも評価される。
審議の手順については可能な限り合意によって決めていくことは、議会審議の「取引費用」を下げて効率的な審議を行う知恵であったとも言える。
冒頭の「裏取引」というのは、水面下(国対)における与野党間折衝である。
国対政治とは、日本の国会において与野党の国会対策委員長同士が本来の議論の場である国会の本会議や委員会(理事会を含む)をさしおいて、円滑な国会運営を図る為に裏面での話し合いを行って国会運営の実権を握る事をさす言葉。(wikipedia)
国対は正式機関ではないので、議事録はない。どこで話し合っているのだろうか。現在はどうなっているのだろうか、何も分からない。
最近の研究動向
粘着性論が注目した「国対政治」への実体的批判とは別に、近年、粘着性論それ自体に対する理論的・実証的批判もなされている。
福元健太郎(『日本の国会政治:全政府立法の分析』、2000年)は、戦後のすべての法案を分析し、審議様式が3つ存在することを示した。
福元は、その上で、政策分野ごとにどのような審議様式が見られたかを分析した。
本書は次のように述べている。
粘着性論が、日本の国会は一般的に言ってどの程度仕事をしているかという問いに答えることを課題にしていたのに対して、政策領域と国会政治の態様の関連に目を向ける、より包括的な研究が始められていると言えよう。
また、最近の研究として
全会一致原則についても、それがどの程度慣行として根付いていたのかを実証的に分析し、むしろそれが大会派間の取り決めであったことを示す研究や国会議員の合理的行動を前提として議会研究を行う合理的選択理論からの分析など、新しい研究が続々と生まれている。
ここまで読んで感じたことは、これらの研究は「現状を説明する理論」であるということである。現状の何が問題であり、どうすべきなのかという問題意識が感じられない。
対立と裏取引があったとすれば、それは問題なのか問題ではないのか。民主主義の理念との関係をどう考えるのか。少数派の意見を尊重して、裏取引をやめて、議論をオープンにしろ、などと言って済む話ではない。
国会だけの話ではない。あらゆる組織における「意思決定」が問題である。意見の相違をどう調整するか。少数意見をどう扱うか。「対話」はいかにして可能か。
ほとんどの組織は「粘性流体」であるようだ。ネバネバとサラサラ、共に必要不可欠なものとしてどう折り合いをつけるか?
https://optronics-media.com/news/20200417/64038/
(記事とは関係ないイメージです)