井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(16)
今回は、第2章 エゴイズム 第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題 の続き(p.54~)である。
前回までは (1)正のエゴイズムと負のエゴイズム だったが、今回は (2)「種」と「類」のエゴイズム である。たったの5頁ほどであるが、これが意外と手強い。理解できないは理解できないとして、読み進めてみよう。
正のエゴイズムであれ、負のエゴイズムであれ、「エゴイズムそのものの哲学的正当性」を主張する思想家がいるという。利己主義(エゴイズム)が正当であるとはどういうことか? 「彼らは、正義の要求とエゴイズムとの間に原理的な差異を認めない」。正義は、エゴイズムとは真っ向から対立する概念ではなかったのか?
正義は、本質的に重要とされる何らかの特徴によって定義された集合と、その補集合との差別的取扱いを是認し、かつ要求する。正義のこの態度は、彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]にとって、その「本質的」な特徴の実体化たる「種」ないし「類」のエゴイズムを代弁するものに他ならない。
正義を主張する者の立場を、図示してみる。
何らかの正義(A)があるとする。(B)は正義ではない。それゆえ「異なる取扱い」(差別的取扱い)は当然である、と普通は考える。
では何らかの正義とは何か? それは「何らかの特徴」によって定義されなければならない。しかし、その特徴は枝葉末節のどうでもよい特徴ではなく、「本質的な特徴」でなければならない。
では「本質的な特徴」とは、何であり誰がどのように定めるのか?
人間性を正義における本質的特徴とみなし、すべての人間の平等な取扱いを要求する「博愛主義的」正義観も、彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]に言わせれば、家畜の大量虐殺を人類の生存のために遂行して恥じない類的エゴイズムの立場である。
類と種
下図は「類と種」を分かりやすく図示したものである。ヒトは、哺乳類のなかの種とされている。*1
地球上に動物は全部で何種類いるの?(ライフコラム 子どもの学び )より。
「類的エゴイズム」という言葉を理解するために、次の動画を参照しよう。(残虐場面があるので視聴注意)。
残酷な衣類素材(ファー、アンゴラ、フェザー、ウルトラファインウール・・・)
この動画を見れば、「家畜の大量虐殺を人類の生存のために遂行して恥じない類的エゴイズム」という言葉も理解できるだろう(この動画は、食料ではなく、装飾のための虐殺だが…)。
つまり「人間性」(人間であること)を正義における本質的特徴とみなすならば、ヒト以外の「類」「種」の生命の存在は無視されるということである。
彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、特定の種・類がその種・類であるが故に、他の種・類の場合とは違った特別の取扱いを、その種・類のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
ここで、「特定の種・類」と「他の種・類」を、下記のように置き換えてみる。
- 彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、人間が人間であるが故に、人間ではない生き物の場合とは違った特別の取扱いを、人間のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
- 彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、白人が白人であるが故に、有色人種の場合とは違った特別の取扱いを、白人のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
- 彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、日本国民が日本国民であるが故に、外国人の場合とは違った特別の取扱いを、日本国民のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
- 彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、ワクチン接種者がワクチン接種者であるが故に、ワクチン未接種者の場合とは違った特別の取扱いを、ワクチン接種者のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
- 彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、私が私であるが故に、他者の場合とは違った特別の取扱いを、私のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。
エゴイズムの哲学の提唱者は、このような種的・類的エゴイズムと「個」のエゴイズムとの間に原理的差異を認めない。
種的・類的エゴイズム(1~4)は、個のエゴイズム(5)と同型であるから、原理的差異を認めない、と言うのであろう、
正義がこのような「種的・類的エゴイズム」を容認・支持しているのであれば、同型であるにもかかわらず、何かおかしいと感じるだろう。とりわけ、上記 2.3.5.に関してはおかしいと感じるだろう。
何故このようになるのだろうか? それは、正義の定義において「本質的特徴」をどのように規定するかによるからだと考えられる。