浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

なぜ「他人より」優れていたいと願うのか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(27)

今回は、第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうかー心理学的な考察 第1節 なぜ競争するのか の続き(P.166~)である。

前回の終わりに、次のような文章があった。

競争を行うのは自分の能力に対して抱いている根本的な疑いに打ち勝とうとするためであり、そして、最終的には、自尊心の欠如を埋め合わせするためである、という命題を提起しておきたい。

これ単独で読めば、「そんなことはないだろう」と思うのではないか。

コーンは、この前に次のように述べていた。

自尊心が無条件のものであれば、他人に認めてもらう必要もないわけであり、後で後悔するようなことをしてしまった場合でも、自尊心が崩れ去ることもない。自尊心は、生活を築いていく核となり、土台となるのである。

自尊心の強くない人は、他の人に対して好意的な感情を保っていくのが本当に難しい

これを読めば、「競争を行うのは、自尊心の欠如を埋め合わせるため」という命題も、「そうかもしれない」と思うだろう。

自尊心とは何か。日本国語大辞典は、「プライド」を「自分の才能個性また業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持。また、そのために品位ある態度をくずすまいとすること。誇り。自尊心。自負心。矜持。」と言っている。これに対して、コーンは「他人に認めてもらう必要はない」と言っているので、ややニュアンスが異なる。これについては、コーンのこの後の文章を読んだうえで、考えてみよう。

このように定式化される[命題の]2つの構成要素を順番に考えてみよう。まず最初に、ある活動を行う際に競争するのは、一面では自信の無さを反映している。いちばん素敵な恋人になろう(あるいは、もっとたくさんの恋人を持とう)とするのは、自分が本当は愛すべき人物ではないかもしれないと恐れているからである。他人よりもすごいと思われる仕事をしたがるのは、実は自分の力量が足りないことに気付いているからである。

自分が「愛すべき人物である」とか「力量がある」とか確信できるのは、競争に打ち勝ったときであるというのは、「自身の無さ」を表している。

第2に、一定の能力が備わっていたとしても、全体としては不十分であるといった感覚を表している。つまり、自尊心があまりないのである。今あげた例では言えば、愛らしさとか専門的な能力が、自我というものについて包括的に語っていると言える。ある特性を備えるようになるということは、そうした特性がまさに自我の中に居場所を確保しているということなのである。

「愛らしさとか専門的な能力」が自我の中に居場所を確保していなければ、つまり自尊心があまりなければ、競争に打ち勝って居場所を確保しようとする。

私は、(A)「自尊心が欠如している→競争に勝とうとする」とは言えない、(B)しかし「競争に勝とうとする→自尊心が欠如している」とは言える、と思う*1。コーンのここまでの記述では、(A)と(B)をごっちゃにしているように思われる。

物事をうまくやり遂げるということは、他人よりもうまくやることとは違う。…誰でも、何かが特にうまくやれるということから達成感を得るのである。場合によっては、その出来栄えを他の人と比べてみるのは、とても心地よいことなのである。しかし、自己満足を感じ、うまくやり遂げることだけに関心を寄せる人は、敢えて他人よりうまくやろうなどとは思わない。このような人は、相対的な評価を求めているのではない。どんなことをしたのかその種類にもよるが、自己満足を感じ、絶対的な基準に裏付けられてさえいればいいのである(このような人は、自分がどれくらい正解をしたのかその数をチェックしたり、1マイル走るのにどれだけ罹ったかに関心を寄せるのである)。

 

相対評価

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https://en-gage.net/content/absolute-evaluation-relative-evaluation

 

個人やチームが、「物事をうまくやり遂げる」ことに関心を寄せるということは、「他人や他チームよりもうまくやる」こととは異なる。その通りだと思う。

オリンピクの競技をみていると、「物事をうまくやり遂げる」ことに関心を寄せるのではなく、「日本」の個人やチームが、「他国」の個人やチームよりもうまくやる(競争に勝つ、メダルを取る)ことだけに関心を寄せているように見える。「日の丸」を背負ったような選手の発言を聞くと、そのようにマインドコントロールされた選手が哀れに思う。

他人/他チームよりもうまくやろうとすることは、先ほどの(B)「競争に勝とうとする→自尊心が欠如している」にあてはまるだろう。

他人より優れていたいという願望は、もともと代償充足的なものなのである。自分に何か欠けたところがあるという印象を持つと(暗い印象であることが多いが)、それを埋め合わせるために、他人を出し抜きたいと思うのである。

「ある目標がなんらかの障害によって阻止され達成できなくなったとき、これに代る目標を達成することによってもとの欲求を充足するような行動」を代償行動という。(ブリタニカ国際大百科事典)

「自分に何か欠けたところがある」と感じながら、その欠如を何らかの障害によって克服できない時、これに代わり、「他人を出し抜きたい」(競争に勝ちたい)と思うようになる。

ある程度は自分が優れた人間だと確信するために、他人よりも強く、賢くなりたいと思うのである。もし競争が口を聞けたなら、「お前ができることならなんでも、俺の方がうまくやれんだ」というけんか腰の子供の泣き言になってしまうのである。競争社会においては、このような大合唱が響き渡っている。

「優れた人間」=「物事をうまくやり遂げられる人間」ではなく、「優れた人間」=「他人よりも強く賢い人間」という観念、競争社会にあまねく見られるところである。それは何故か?

*1:A)「自尊心が欠如している」ことは、「競争に勝とうとする」ことの十分条件ではない。(B) 「自尊心が欠如している」ことは、「競争に勝とうとする」ことの必要条件である。…ただし、これは事柄を単純化した言い方だろう。