浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

誰か他人が幸福を手に入れると、怒ったり(自分を)哀れんだりしていませんか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(29)

今回は、第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうかー心理学的な考察 第1節 なぜ競争するのか の続き(P.172~)である。

コーンは、次のように述べている。

アメリカの文化において成功するためには、競争する必要があるからこそ、自分たちは競争するのだと主張する人が多い。この主張には、かなりの真実が含まれているし、またあるレベルにおいては、競争することを意図的な戦略とみなすこともできる。しかし、別のレベルからすれば、他人に打ち勝とうと努力するのは、心理的な欲求の結果でもあり、競争することが無意識のうちに決断される可能性があるとすれば、この点においてだと言える。

実際これら二つのレベルには因果関係がある。次節で示すように、競争するようにいざなう社会的な規範は、心理的な状態を形作る可能性がある。問題は精神的に不健全な人々に特有なものだということにして、様々の構造的な力を無視してしまってはならないのである。それと同じように、競争の心理学的な基礎を無視して、競争を様々な構造的な力にすべて還元してしまってはならない。平均的なアメリカ人は「様々の構造的な力」とか、「社会史的な決定要因」などといった言葉を用いない。普通は、自分が競争しなければ置いてきぼりにされそうで怖いから競争するのだという言い方をする。だが、アメリカ社会を正確に分析したうえでこう言うのだとしても、このような説明では、すべてが言いつくされているとは言えない。勝利者になりたいという衝動は、自分には価値が無いのだというその裏側にある感覚にまでさかのぼって探っていくこともできるし、またそうすべきなのである

これは次のように図示できるだろう。  

「競争」をどちらか一方が原因で生ずるのだと決めつけるべきではない。相互に作用しあって、「競争」が生じるのであろう。

競争は、全く個人的な心理的な欲求によるものだと主張するのは、社会構造的な力(規範)を無視している。逆に、「成功するためには、競争する必要があるから、自分たちは競争するのだ」と主張するのは、心理的な欲求(無意識)を無視している。

 

企業家やスポーツ選手、映画スターや政治家など、我々の英雄たちの多くが、自尊心があまりないことに動機づけられているかもしれないと指摘したとしたら、…多くの人々に気に入ってはもらえないだろう。

けれども、同じ人々のほとんどは、部屋に入ってくるときに、自分がこの中で一番力強いだろうか、一番金持ちだろうか、自分が連れてきた子が一番かわいらしいだろうか、自分の名前が一番有名だろうかと考えずにいられない人にはどこか正常ではないところがあるということに関しては同意するだろう。

部屋に人々が会した時、自分が、「一番力強いだろうか」「一番金持ちだろうか」「一番かわいい(美人)だろうか」「一番頭がいいだろうか」などと考えたことはないだろうか。

彼・彼女はそういうふうに指摘されたら、「私は、正常ではないのかもしれない」と考える(かもしれない)。もしそうだとすれば、競争が「自尊心があまりないことに動機づけられている(かもしれない)」という指摘に反対することはできない(ようだ)。

 

殆どの人は、いくらか競争的であるような社会においては、競争意識が同じように備わっているのだと考えて自分を安心させようとしたがる。けれども、実際には「程々の」競争意識と「度を越した」競争意識とは、質的に異なるというよりも、単に量的に異なるだけであり、その心理的な原因は同じものなのである。

会社(組織)で働いている人ならわかるだろうが、給料や地位(処遇)や名誉などの差別的取扱いに不満を抱き、「負けたくない」などと思うことがあるだろう。それは(いくらか)競争的な社会であると言ってよい。また個人事業主であっても、同業者との競争は避けられないだろうから、(いくらか)競争的な社会であると言ってよい。であれば、そこに「程々の競争意識」と「度を越した競争意識」を持つ人がいてもおかしくはない。コーンは、この競争意識の差は程度問題*1であり、心理的な原因は同じであると言う。

 

https://www.freemalaysiatoday.com/category/leisure/2017/09/07/how-low-self-esteem-could-affect-workplace-productivity/

 

会話の最中に他人を圧倒したくなるという欲求と、その間ずっと他人を圧倒していたいという欲求が違うのは、単に程度の問題に過ぎない。こうした行動の心理的な根源は、行動の激しさや頻度によって変化するわけではない。そして同じことが競争にも言えるのである。

おしゃべりの会話ではそういうことは少ないだろうが、対話や議論ではおおいにあり得る。

確かに、勝ちたいという欲求が、他人よりも強い人々がいることを軽視してはならない。この欲求の強さは、その衝動が感じられる激しさ、衝動が経験される場面の数、敗北につながる苦痛の大きさなどから測ることができる。きわめて競争的な個人は、自分自身の世界観を当面している状況に投影し、ほぼどんな環境に対しても、まるで競い合いとして客観的にしつらえられているかのようにアプローチしようとするのである。

こういう競争的な人にとっては、人生とは次のようなものである。

人生とは、トップに居続けるための、ナンバー・ワンであり続けるための絶え間ない戦いなのである。すべては、まるで人々にいきわたる幸福の総量が決まってしまっているかのようにゼロ・サムの観点から眺められ、そのため誰か他人が幸福を手に入れると怒ったり、自分を哀れんだりすることになる。

トップでなくても、トップクラス(上位階層)に居続けたい(落ちたくない)という欲求から、「誰か他人が幸福を手に入れると怒ったり、自分を哀れんだりする」という人は多いだろう。

自分が直接かかわっていない場合でも、その人は自分が耳にする状況や出会いを、まず競争という観点から解釈する傾向があるだろう。他人も自分と同じくらい競争的であり、敵対関係が世の中の習わしであり、自分の地位は常に危機に瀕しているのは当然だと考えるのである。

スポーツやその他の競技でもトップ(クラス)を、その「内容」ではなく「順位」によって、賛美するマスメディアの報道は、私は極めて有害であると考えている。彼ら報道人は、「敵対関係が世の中の習わし」であると考えているのではなかろうか。

 

勝ちたいという欲求と負けることへの恐れはともに、ほとんどの競争が人前で行われることによって油を注がれることに注目するべきである。…もし競争の目的が自分自身について安心を得ることなら、そこにたどり着くための手段は、他人から是認してもらうことである。単に勝つことだけでなく、勝つことによって他人から受け入れてもらえるということ、これが競争の魅力なのである。

競争を行う人たちは、世界中の人々が勝利者を敬愛することを知っており、自分が勝てば、競争相手たちも敬愛してくれると思っている。愛情が無い場合には、嫉妬がその代わりをしてくれる。是認されない場合は、是認されていると思い込もうとする。ナンバー・ワンであることは、何よりも両親、コーチ、オブザーバー、対戦相手の誰からも注目されるということなのだ。注目されるということは、ひとかどの人間になることであり、ひとかどの人間になれば、不安におびえた自尊心が満足されるのである。

勝利者となる→注目される→ひとかどの人間になる→不安におびえた自尊心が満足される。この前提には、「世界中の人々が勝利者を敬愛する」という前提がある。

それ故、私のような少数者は勝利者を敬愛しないから*2、もし多数を占めるようなことになれば、競争的な人たちは自尊心を満足させられないだろう。

*1:「量から質に転化する」ということもあるが、ここではふれない。

*2:蛇足ながら、「順位」ではなく、行動・言動の「内容」が優れている と私が思う人は尊敬する。