浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

民主制と人権 市民的自由とは?

平野・亀本・服部『法哲学』(53) 

第6章 法哲学の現代的課題 第1節 デモクラシーとは何か の続きである。

投票制度としての民主制

経済学者の一部は、社会的選択理論と呼ばれる分野で、民主制を純粋な投票集計制度とみなして精緻な分析を展開している。…社会的選択理論では、投票の制度とやり方次第では、必ずしも多数意見が結果に反映されるとは限らないこと、戦略的行動が可能なことなど多くの知見が発見されている。

「投票の制度とやり方次第では、必ずしも多数意見が結果に反映されるとは限らない」というのは、有用な知見ではあろうが、それは「多数意見が結果に反映されることが望ましい」を無条件に前提して良いということにはならない。お馴染みの「衆愚政治」とか、「少数意見の無視」という話である。議論(話し合い)と、少数意見を真剣に検討して、よりよい方向をめざすということが強調されなければならない。(2016/10/18、「思いやりの原理」で、話し合うこと 参照)

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https://www.bbc.com/news/world-us-canada-44552304

 

民主制と人権

憲法学ではしばしば、人権によるデモクラシーの制約が強調される。そこで暗黙のうちに想定されている民主制観は、共和主義的民主制観というより、市民的自由を強調する自由主義的民主制観である。しかも、民主制を討論と結びつけるよりも、多数決と結びつける民主制観である。ここから、多数決による議会の決定といえども、人権を侵害する立法は違憲無効であるとする周知の考え方が出てくる。民主制を法の支配と普通選挙の結合と見る本節冒頭に述べた見方においても、通常は、法の支配の中に人権保障が当然に含まれている。

(1) 「市民的自由を強調する自由主義的民主制観」とは、「各人が自由に自己利益を追求することができる」(権力により強制されない、しかし差別と格差を生みだす可能性がある)、という意味の民主制であろう。

(2) また「討論と結びつけるよりも、多数決と結びつける民主制観」とは、必要なデータを提出することなく(場合によっては、改ざんデータを提出し)、少数派の意見に耳を傾けることなく、強行採決により、多数派が自らの意見(法案)を通すというような意味の民主制であろう。

この(1),(2)を「民主制」と呼ぶのは問題含みだが、仮にそう呼ぶとしよう。そうすると、「人権」との関連が問題になる。(「人権」については、2018/11/19、人権とは何でしょうか? 谷川俊太郎訳の「世界人権宣言」、2018/11/17 セックスワーカーから繊維工場労働者へ ファストファッションの光と影 エシカル・ファッション を参照)

つまり、このような民主制は人権を侵害する恐れがある。人権が、国境を超えた人類の普遍的な価値を示したものであることを認めるならば、このような民主制(デモクラシー)は制約されねばならない。一国の議会が、多数決により決定した法律であったとしても、このような法律は無効であると言わなければならない。行政機関の行為についても同様のことが言えよう。但し、これは随分と粗っぽい言い方であるから、実効性あるものとするためには、国際条約の締結等が必要である(現に多くの条約が締結されている)。なお、亀本は「違憲」という表現をしているが、一国の憲法上「合憲」であったとしても、国際的に承認された人権を侵害するものであれば無効と言わなければならない。

しかし、功利主義にせよ、一般意志説にせよ、一般に「人民のため」ということを強調するデモクラシー観に立てば、人権が民主的決定に優越するという結論は出てこない。「公益」にとって、人権を公益と種類の異なるものとして把握する必然性がないからである。

ここで「功利主義」とか「一般意志」というのは、「国民全体の利益になれば良し」とする考え方であると理解しておこう。そうすると、「人権が民主的決定に優越する」という結論は出てこないことになるのだろうか。…国民全体の利益を測定するのに、形式的な多数決をもって民主的決定とするという前提を置かなければ、このような結論は出てこないと思われる。亀本は、「公益にとって、人権を公益と種類の異なるものとして把握する必然性がないから」という理由をあげているが、「人権」を、<人権とは何でしょうか? 谷川俊太郎訳の「世界人権宣言」>でみたような意味に解釈するなら、「人権」は「公益」と同じものとみることは出来ないだろう(30の人権を「これは公益か?」と問うてみよう)。

他方、相対主義的なケルゼン型の民主制観に立つと人権による制約と結びつくかというと必ずしもそうではない。実際、ケルゼンは、民主制と人権を相補的かつ一体のものとは考えていない。彼によれば、人権は、価値相対主義というよりも、価値絶対主義と親和的な発想だからである。

価値相対主義的な民主制観に立つケルゼンは、多数決民主主義を支持するので、価値絶対主義的な人権の優越性を認めないということだろうか。

場合によっては対立する、民主制と人権規定とを一体にした立憲民主制は、民主制と国家からの自由とが結合したものであり、リベラル・デモクラシー*1の一形態である。それは、人権の主要内容を市民的自由と考える場合には、それなりによく理解できる。しかし、人権の中に政治的自由が含まれるとするだけでなく、それが市民的自由ないし経済的自由に優越するという立場をとると、古代的な自由と近代的な自由との対立が先鋭化する。

この文章は簡潔すぎて何を言いたいのかよくわからないが(特に立憲民主制について)、詮索しないでおこう。

 

共和主義の現代的課題

共和主義*2は、この対立を対立と考えずに、むしろ政治的自由と市民的自由とを相互強化的関係にあるとする思想である。既にふれたように、その理想を大衆民主主義社会でどのようにして実現するかという問題は、理論的にも実践的にも非常に骨の折れる課題である

最近の政治哲学では、このような共和主義の現代的課題に応えようとする民主主義論が優勢である。例えば、ロールズの正義論もそれに属し、彼は、市民が自由かつ平等な者として、それぞれ自分の思うところに従って生活しつつ協力するには、どのような社会原理が要請されるかということを探求の課題としている。ハーバーマスは、理想的な条件の下での討議という観点から同様の課題に取り組んでいる。ロールズハーバーマスとの注目すべき共通点は、ケルゼンと異なり、デモクラシーを単なる利益の妥協のための制度とは考えないところにある。

ロールズハーバーマスについては、いずれ詳細に検討したい。

 

ここでは、「政治的自由と市民的自由(経済的自由)」に関連して、次の解説を読んでみよう。

政治的自由とは、一般的には,個人または集団が一定の政治的主張をもって政治行動をなす際に,自己の理性に基づく規範以外のなにものにも拘束されず,差別的取扱いを受けない状態のこと。イギリスのバーリン[1909-97]は,自己の立場や主張に基づいて他の人々をより高レベルの自由にまで高めるために,ある人々によって加えられる強制を正当化する「積極的自由」と,主体 (一個人あるいは個人の集団) が,いかなる他人からの干渉も受けずに自分のしたいことをし,自分のありたいものであることを放任された「消極的自由」とに自由を分類している。バーリンは積極的自由には全体主義にいたる危険性が含まれていることを指摘し,消極的自由こそ尊重されるべきものであるとしている。歴史的には,まず専制的権力者の恣意的支配を制限することを内容とした「国家からの自由」として意識されたが,近代市民国家の成立に伴って,政治参加,自己統治すなわち政治的自律を内容とする「国家への自由」としてその意味内容を拡大した。具体的には,言論,出版,請願,集会,結社などの自由が前者の性格を含み,後者の例として広義の参政権があげられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

国家からの自由が、専制的権力者の恣意的支配を制限することを意味するなら、まさにその通りだろうが、これが自由放任(国家による規制を排する=市場経済システムの礼賛)の意味にすり替わるなら、大いに問題である。だから「自由」という言葉の取り扱いには注意を要する。

「積極的自由」が「全体主義にいたる危険性」を指摘するだけでは片手落ちである。同時に、「消極的自由」が「個人主義=利己主義にいたる危険性」を指摘しなければならない。こんな議論は過去の議論かと思うのだが、いまだにリバタリアン自由至上主義)の考えが根強いことを考えると、何度でも強調しておく必要があるだろう。

私たちがある価値を「普遍的な価値」と認めるなら、私たちはその価値の実現に向けて行動すべきなのである。そのような普遍的な価値として「世界人権宣言」で宣言されている30の価値を挙げることができる。私たちが考えるべきは、その価値が実現されるような「ルールづくり」であろう。(もちろん、その価値が普遍的な価値たりうるのかの議論は必要である)。これは一国の憲法や法令でもってどうするこうするの話ではない。

 

シティズンシップ

これ以外の注目すべき最近の動向としては、デモクラシーと平等との結びつきを重視し、単なる法的国籍と区別されるシティズンシップという観念を援用して、外国人、難民、少数民族、女性、貧困層など、従来の民主制の枠組みでは、形式上はともかく、政治過程から事実上、排除または軽視されてきた人々を民主的政治過程に取り込もうとする試みが多彩に展開されている。

ここで、シティズンシップ(市民権、公民権)について詳しくみることはしない。外国人、難民、少数民族、女性、貧困層などの諸問題は、国内問題ではなく、国際問題である。外国人・難民を受け入れることの国内経済に与える影響とか、そういうレベルで考えていては、根本的な解決にはならない。内向きな思考に陥るべきではない。

*1:リベラル・デモクラシー…近代民主主義思想の多くは、自由主義と結合したものであり、その限りでそれをリベラル・デモクラシー(liberal democracy、自由民主主義)の思想と呼ぶことができる。注意する必要があるのは、市民的自由は、国家からの自由を重視する近代の自由主義リベラリズム)に特有な思想であり古代ギリシアの公民的民主主義にはなかった考え方であるという点である。政治的自由も近代においては、民主制ポリスにおける古代人の自由と同じ意味ではなく、政治に参加するもしないも各人の自由であるという自由主義的な意味で理解されることが多い。(本書p.282) 

*2:共和主義…これに対して、市民的自由を確保するためには、市民の多くが政治に積極的に関心を持ち、参加することが不可欠であるとする民主主義思想がある。そのような思想は、「共和主義」と呼ばれる。共和主義は、政治への参加を奨励するが、古代の公民的民主主義と異なり、それを市民の義務とするわけではないから、近代的な自由主義と両立する。だが、近代の共和主義が、政治への参加を積極的に高く評価する点では、古代の公民的民主主義と共通しており、またその限りで、古代人の自由と通底する考え方であることにも注意しなければならない。(本書p.282)