浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

集団安全保障 - 戦争に訴えないという合意

久米郁男他『政治学』(22)

今回は、第8章 国際関係における安全保障 第1節 安全保障のジレンマとその回避 の続きである。

テーマは「集団安全保障」である。「集団的自衛権」の話とは異なる。

「勢力均衡」から「集団安全保障」へ

「勢力均衡」(≒大国の軍事バランス)ではなく、「国際規範の遵守による安全保障」という考え方がある。

国際規範による方策は、国際法の発達とともに現実的な仕組みとして検討されるようになった。第一次大戦後、勢力均衡政策に代わる安全保障の方策として考案された集団安全保障(collective security)がその典型である。集団安全保障とは、各国が国家間の問題を戦争によって解決しないという約束をし、その約束をした国家の中で、ある国家が他国を武力侵略した場合、他の諸国家が自国が侵略されたも同然と見做して、全員で平和破壊国に制裁を加え、仲間の安全を保障するという仕組みである。全員での制裁によって平和破壊行為を抑止ないし鎮圧しようとするものであり、集団安全保障の仕組みが成立する前提には、戦争に訴えないという合意が成立している必要がある。

第一次世界大戦(1914-1918)*1の犠牲者数は、戦死者1600万人、戦傷者2000万人以上と言われる。こういった現実を見れば、「国ごとの軍事バランス」に代わり、「国家という単位を超えた国家集団で、互いの安全を守ろうとする」集団安全保障(collective security)の考え方が出てくるのは当然だろう。この考え方のもとに、制度化されたのが国際連盟である。では、国家間の問題(例えば領土問題)を、「戦争によって解決しない」という合意が得られたのか?*2

国際連盟では、集団安全保障体制を構築するために加盟国に対して紛争の平和的解決が義務付けられ、連盟規約に反する戦争に訴えることが禁止された。

しかし国際連盟による集団安全保障体制は、期待されたにもかかわらず、1930年代には早くも機能不全に陥り、結局は第二次大戦の勃発を防ぐことができなかった。国際連盟の失敗から明らかになったことは、国家間の合意に基づく集団安全保障体制が機能するには

  1. ほぼすべての国家が参加すること(国際連盟には大国の一つであるアメリカが加盟していなかった)
  2. 戦争その他の武力行使の禁止が徹底されること(国際連盟では戦争を禁止していたにもかかわらず、戦争ではない武力行使は禁止されていなかった。したがって、宣戦布告をせず、また戦争の意思を示さない武力行使を禁止することができなかった)
  3. 制裁措置が速やかに実効的に発動されること(国際連盟は経済的制裁しか発動できなかった)

が重要な要件であるということであった。各国間の規範(国際法)に基づく多数の国家による安全保障は、歴史的に画期的な試みであった。しかし…国際連盟は、多くの欠点、不備によって十分な機能を果たすことができなかった。

 国際連盟(1920-1946)が機能するためには、すなわち集団安全保障体制が機能するためには、上記の3要件が重要であるという。確かにそうだろうと思う。①の「ほぼすべての国家が参加すること」というのは、「すべての軍事大国が参加すること」というのが正確ではないかと思う。なぜアメリカは加盟しなかったのか。②は「戦争」とか「武力行使」が何を意味するのかの合意が必要である。連盟規約が不十分だったのか。③制裁措置が経済的制裁のみでは実効的ではない。軍事的制裁は考慮されなかったのか。

この3つだけが重要な要件なのか。これに関しては、国際連合の実情を踏まえて、考えたほうが良いだろう。

では、国際連盟は全くの無力で無意味な機構であったのか。

1920年代にはギリシアブルガリア紛争(1925)などの解決に成功し、国際協力面でも成果をあげた。また、国際紛争平和的処理一般議定書の採択(1928)、侵略戦争の違法化(不戦条約、1928)にみられるような連盟の安全保障強化のための努力が連盟の内外でなされた。

しかし、30年代に入り、大国間の国際対立が激化するとともに連盟の平和維持機能は麻痺していった。32年に開催された軍縮本会議は不成功に終わり、連盟は満州事変(1931)の処理*3、イタリア・エチオピア紛争時の対イタリア経済制裁(1935)に失敗した。日本、ドイツ、イタリアはそれぞれ脱退を宣言し、ソビエトフィンランド戦争に対しては、連盟はソ連を除名(1939)したにすぎない。連盟は弱体化し、有名無実の存在となり、46年4月18日の総会において解散が決議された。その事業は国際連合に継承された。(植田隆子、日本大百科全書

 日独伊はなぜ連盟を脱退したのか。「国家間の問題を、戦争(武力行使)によって解決しない」という理念を共有することができなかったのは何故か。日独伊ソ連は何を考え行動したのか。(不勉強なので、よく分かっていない) f:id:shoyo3:20190728105455j:plain

 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(109-039) 大阪毎日新聞 1932.4.19-1932.5.10 (昭和7)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162220&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

  

国際連盟は、いかに評価されるべきなのか。

たびたび議論が行われたものの、強制力を持つ軍を組織することができなかった。このため国際紛争において仲裁を行うための強制力を持つことが出来ず、紛争解決に独自の指導力を発揮できなかったと指摘される。ただ、世界における現実の紛争に必ずしも有効な解決策を提示できなかったとしても、史上初めて、国際機関として参加国の総意を以って意見の集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。

紛争処理以外では効果を上げたとする指摘もあるほか、満州事変に関する日本への勧告や、イタリアによるエチオピア侵攻に際しての規約第16条に基づく史上唯一の制裁発動等、常任理事国が関係する紛争に対しても可能な限り対応した点では、現在の国際連合では安全保障理事会安保理常任理事国(米英仏露中の5ヶ国)が関係する紛争の処理が困難であることと比べ、評価されるべきであるとの意見もある。(Wikipedia

 「国際機関として、参加国の総意を以って意見の集約をする」という理念は、高く評価されるべきであると思う。連盟が全体としてうまくいかなかったからといって、その理念が否定されるべきものではなく、その理念を実現するための合意(ルール)形成に失敗したということだろう。

集団安全保障の考え方は、国際連盟で制度化され、国際連合に引き継がれたので、国際連合についての検討の後、再考しよう。

 

(補足1)集団安全保障について

19世紀までの特に欧米近代ではそれぞれの国家が「国家の交戦権」(または「戦争の自由」)を当然の権利(自然権)として行使し、また「勢力均衡論」にもとづいて軍事同盟(しかも秘密外交によって)を結び抗争しあうこととなり、第一次世界大戦の悲惨な戦禍をもたらしたことへの痛切な反省から、アメリカ大統領ウィルソンなどによって提唱されたものであった。(世界史の窓、集団安全保障

 

(補足2)大阪毎日新聞 1932.4.19-1932.5.10 の記事について

この記事は、全文読みやすく引用しやすいようにしてある。まだ読んではいないのだが、最後の部分だけ引用しよう。

非連盟国たる米露両大強国は、或は満蒙を窺い、或は太平洋上に全艦隊を集中して待機姿勢をとる。乱脈度すべからざる隣邦支那国際連盟の楽屋に潜んで策動し、連盟国としての日本の外交は正に破局に瀕して居る。大小五十数ヶ国のしたたか者を擁する伏魔殿国際連盟の暗躍はこれからだ!! 我が協力内閣の対連盟策果して成算ありや? 満洲調査団と云う不発弾の点火を控えてジュネーヴの空は暗澹とし、嵐の前夜を思わしめる!

なかなかのアジ文であるようだ。 

*1:第一次世界大戦については、2019/6/7 勢力均衡(Balance of power)、恐怖の均衡(Balance of terror)参照。

*2:第一次世界大戦から100年を経た今日でも、「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」というような発言をする政治家(丸山穂高衆院議員)がいる。

*3:柳条湖事件を契機に日本が満州全土を制圧すると(満州事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満州国を建国した。これに抗議する中華民国は連盟に提訴。…リットン調査団は、日本の満州における“特殊権益”は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、満州を中国に返還した上で日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである、と報告書に記した。(Wikipedia