浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

植物と動物の中間

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(16)

今回は、第2章 生物学の成立構造 第2節 「生物学」の登場 の続き 「博物学」についてである。

博物学とは、「およそこの世界にある森羅万象を知り得る限り列挙して記述しようとする学問」(本書)である。これを自然の多様性を素直に記述するものと見るか、雑多な知識の寄せ集めと見るか。

博物学(natural history、自然誌)は古代ギリシアに端を発するものであり(アリストテレスの『動物誌』)、ローマ時代のプリニウスの『博物誌』も有名、大航海時代に続く植民地支配が進められた16世紀に[ヨーロッパの知識人に]大いに流行したという。当時書かれた博物学書には、「動植物の形態や生態だけでなく、それらの料理法や薬効、それらにまつわる伝承など、およそ関連することは何でも記述の対象となった」そうであるが、私が思うに、「生物について学ぶ」ということはこういうものでなければならない。「整理」はその後の話である。

「具体的な知識の一つ一つを記述すること」を、「雑多な知識の寄せ集め」と見れば、「学者」は、枝葉末節を切り捨て、筋の通った理論体系を築きたくなるのかもしれない。17世紀になると、多くの学者は、「自然現象全体を粒子の運動のみによって説明しつくすようなシンプルで大雑把なモデル」(数学モデル、統一理論)を語るようになる。しかし、「シンプルで大雑把なモデル」という否定的な表現は、「本質的な物事を体系化したもの」という肯定的な捉え方もできる。いずれにせよ、多様な物事の多くを捨象しているのであり、そこに大事なものがあり得ることを忘れてはならないだろう。

18世紀に博物学が再び盛んになったのだが、それはヨーロッパ社会が全体的に安定し、人々[富裕層]が退屈したからである(ジャック・ロジェ)という。金持ちの邸宅には「珍品陳列室」が競って作られ、博物学はいわば「ファッション」となった。

これは何でしょうか?

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http://www.marinespecies.org/hydrozoa/aphia.php?p=image&tid=290156&pic=22886

 

「存在の大いなる連鎖」のイメージ

すべての被造物creature(神が創造したもの、要するに自然物)が鉱物のように単純なものから植物へ、動物へ、人間のような複雑なものへ、さらには人間よりも高度な天使のようなものへと連続的な序列をなしているというイメージ(科学史家のラヴジョイが言うところの「存在の大いなる連鎖」*1のイメージ)は、古代ギリシア以来ヨーロッパ世界において根強いものであったが、植物と動物との中間にあるように見えるポリプはそうしたイメージを裏付けるように思われたのである。

ポリプ(淡水性ヒドラ)は、植物と動物の中間的な生物と考えられた。上の写真は、グリーンヒドラ(Hydra viridissima)である。

 

光合成人間はSFの世界の話ですが、ヒドラは藻類と共生することで、光に当たれば栄養が供給されるという、夢の(?)生活を成し遂げています。また、共生クロレラは栄養たっぷりで安全なヒドラの体内に適応した結果、今やヒドラの体外では生きられない体になってしまいました。動物―藻類共生系には、究極の効率的生活を垣間見る思いがします」(濱田麻友子、https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id559.html)…共生クロレラ(細胞内共生)は、なかなか面白そうだ。

*1:「存在の大いなる連鎖」のイメージを引用文だけで、安直なものであると批判しないようにしよう。…著作の目次:第1講 序論 観念の歴史の研究、第2講 ギリシャ哲学におけるその観念の創始―三つの原理、第3講 存在の連鎖と中世思想における内的対立、第4講 充満の原理と新しい宇宙観、第5講 ライプニッツとスピノーザにおける充満と充分理由について、第6講 十八世紀における存在の連鎖および自然における人間の地位と役割、第7講 充満の原理と十八世紀楽天主義、第8講 存在の連鎖と十八世紀生物学の或る側面、第9講 存在の連鎖の時間化。第10講 ローマン主義と充満の原理、第11講 歴史の結果とその教訓。…ある意味面白そうだが、まだそこまで辿り着けない。